眠ることができるなら
平時の朝は、実摘との生活で最も忌まわしい。目覚まし時計は、きっかり七時に飛季をたたき起こす。だいたいきちんと腕に収まる実摘は、起きていたり眠っていたりする。
その日は眠っていた。数分間、仕事は休んでしまおうかと真剣に悩む。しかし、もろもろの現実に、今日も実摘をシーツに寝かせてベッドを這い出る。
冷えこんだ空気に、肩がこわばった。カレンダーはとっくに十一月だ。季節の変わり目の雷雨も去り、秋は曖昧なまま、急激に寒くなった。
眠る実摘に、厚手のふとんをかけてやった。このふとんは、先週の週末に物置から引っ張り出した。
ベランダに干して、ふとんたたきをしていると、隣でにらをかぶる実摘は、「ぱんぱんぱん」と歌っていた。思い出して飛季はひとり咲うと、栗色の髪に軽く口づけて支度を始める。
シャワーを浴びたり着替えたり、そのかたわらで、十一月かと時の流れに感慨深くなる。実摘と出逢ったのは、すでに半年以上前だ。冬から春にかけての霖雨の時期だった。
あの頃、この子とこんな関係になるとは思ってもみなかった。実摘と出逢っていなければ、飛季はまだあの陰惨な生活に澱んでいた。大げさでなく、実摘との出逢いは飛季の人生を変えた。
昨日炊いた白米が残っていたので、朝食は鮭フレークと野菜を入れた粥にした。
茶碗によそっていたところで、後ろでくしゃみが聞こえた。上体を起こした実摘が、膝ににらをかけて寝ぼけまなこをしている。
「おはよう」と呼びかけると、実摘はこちらを向いた。その瞳は、飛季の服装にすぐに哀しそうになる。飛季は実摘のぶんも粥をよそう。持っていって、「あったまるよ」とさしだすと、実摘は受け取った。
実摘は寒さにすくんでいる。飛季はクローゼットを開け、黒いフリーツ生地の上着を出すと、彼女の肩に着せてやった。実摘はまばたきをする。「俺のだけど」と言うと、実摘は嬉しそうにそれに肩を埋めた。
ベッドサイドに腰かけて、朝食を取る。実摘も湯気の立つそれに口をつけた。「熱い」と実摘は眉を顰める。飛季は熱の冷めやすい周囲から食べるのを教えた。実摘はそうして、無心に食べていく。
飛季も粥をかきこむ。時計の針は七時半をまわっていた。のんびりしていられない。
朝食を終えると、飛季は茶碗をたらいの水に浸し、髪をセットした。歯も磨いて部屋に戻ると、実摘は飛季の上着に袖を通してフードもかぶっていた。
この服も実摘には大きくて、袖は長すぎてフードは目を覆っている。飛季には腰までの裾も、彼女には尻に届きそうだ。
フードに隠された目で、実摘は飛季のほうを向く。飛季は咲い、フードを少し上げてやった。覗けた実摘の瞳は、濡れていた。飛季はどうとも返せなくて、彼女を胸に抱くと、小さい手が包んでいる茶碗を取った。
実摘は唇を噛む。飛季は奪ったそれと、さっき沈めた自分の茶碗を洗った。小鍋に残った粥は少量で、味噌汁に使う椀に移しておいた。鍋も洗うと、飛季は朝の一連の作業を終える。
腕時計は八時前だ。実摘のカーキのリュックと並べていた、黒のデイパックを取った。
実摘は顔を仰がせた。拍子に、上げてやったフードがずりおち、実摘の顔は鼻と口になる。
飛季は腰をかがめると、実摘の顔をあらわにし、湿ってきている唇を口づけで潤した。実摘は飛季の舌と唇を、ただ受けて飲みこんだ。そっとちぎった唇を唾液が惜しみ、もろく切れてしまう。
「行ってくるよ」と飛季はささやいた。実摘はうなずいた。飛季は微笑んで実摘の頭を撫でてやると、鍵を手にして部屋をあとにする。
一度、鍵を締めた途端に実摘が大声で泣き出したことがある。あのとき、飛季は仕事を休んだ。今日の実摘はおとなしく、安堵したような残念なような、身勝手な感懐が渦巻く。
エレベーターに乗りこみ、一階に降下すると、マンションを右手にまわって駐輪場に行く。ヘルメットを取り出してデイパックをおろしていると、ふと背後に視線を感じた。
何気なく振り返ると、横切ったときには影もなかった植えこみのところに、誰か立っている。
男──いや、少年だ。不健康に痩躯で、冷ややかな眼差しをして、煙草を吸っている。ぼさついた髪はブラックブルーに染められていた。
知らない顔だ。怪訝に顰め面になった飛季に、彼は興味もなさそうに背を向けた。彼はマンションの正面玄関へと消え、飛季は首をかしげる。何だろう。新しい住人だろうか──マンションのほかの住人など、ひとりも認識していないが。
刺さってきた視線は意味深だったが、顔を合わせると、冷ややかで無関心だった。
考えすぎだろうか。時計が八時になっている。きっとそうだ。考えすぎだ。
そう結論づけると、飛季は出したオートバイにまたがった。ヘルメットをかぶって、全部忘れてクラッチを握る。
部屋にこもる実摘が沈潜する時間は、着実に増えていった。飛季がいれば解放されても、いないと思考は悪い方向に突き進んでいる。
彼女は、その極度な差に疲れはじめていた。飛季との結びつきが強くなる副作用であるそれは、飛季にはどうしようもないものでもあった。
帰宅した飛季に実摘が飛びついてくるのも減った。そんな気力も残っていなかった。クローゼットで飛季の服にまみれていたり、バスルームで凍えていたり、トイレに鍵をかけられて閉じこもっていたときには、飛季は扉越しに一時間以上必死に呼びかけた。
やっと鍵を開けた実摘は、ひどい自己嫌悪に陥っていた。曰く、そこにいるのが自分の知る飛季ではなく、実富に騙されてしまった飛季ではないかとか、実は隣に実富を連れていないかとか、そんなことばかり考えてしまったという。そうしていると、今度はだんだん、粘る自分に飛季が嫌な顔をしていないかと思考はそれて、ますます落ちこんでいく。
飛季は実摘を抱きしめた。実摘は飛季に謝った。もちろん飛季は謝罪など求めていなかった。こちらのほうが申し訳なかった。
この子の心の空洞を承知しながら、ひとりぼっちにする自分が憎かった。飛季も謝ると、実摘はかぶりを振った。彼女は、自分が飛季を信じられていないのが悪いと言う。
「だから、こんなに怖いの。飛季が離れても僕を想ってくれてるって分からなくなるの。飛季がいないと、空っぽに戻る。ずっとずっと、そばにいてほしい。ダメなの。わがままって知ってるの。けど、僕は飛季を上手に信じられないよ。嫌な子なの。飛季、いっぱいいっぱい僕を想ってくれてるよ。なのに、何で僕はそれで安心しないのかな」
にらをかぶる実摘はうなだれた。飛季は、ワイシャツの胸に彼女を抱く。実摘は飛季の胸ですすり泣いた。
彼女の言葉は、飛季にはとても重かった。不用意に近づきすぎたのだ。
飛季は、欲望に任せて実摘と心を蝕み合ったのを後悔した。実摘の精神は、健康とは言えない。相手の想いを実感するほど、彼女は幸せよりも、それを失う逆睹に気が狂れそうになる。
関係を築く速度が早急すぎた。もっとじっくりと時間をかければよかった。実摘は飛季を愛したために、家庭へ連れ戻される恐怖を加速させている。飛季と出逢って救われたぶんだけ、彼女は感情の均衡を危うくしてしまった。
飛季は、実摘をベッドサイドに連れていった。腰かけさせた彼女の正面に、飛季はひざまずく。明かりもつけていない部屋はすでに暗く、実摘の表情は認めにくい。
「実摘──」
実摘の膝の上で、ふたりの指がもつれている。
「何というか、信じるのはむずかしいんだよ。できないからって、落ちこまなくてもいいぐらい」
「飛季は僕を信じてくれてるよ」
「俺と実摘じゃ、心の持ちようが違うし」
「同じだもん」
「出逢う前のあつかわれ方は違った。俺はともかく、実摘はぼろぼろだった」
実摘は飛季の手を握りしめた。飛季は握り返す。
「無理して俺を信じなくていいよ。俺は分かってるつもりだから。実摘が俺をうまく信じられないのは、俺を愛しすぎてくれてるせいだって」
実摘のまばたきが聞こえた。
「実摘が俺を想ってなかったら、俺がいなくて怯えたりしない。そもそも、信じようとしたりしないよ。俺だって、外出してるときは、実摘が待ってくれてるか不安になったりする。そういうのって、俺と実摘だけじゃないよ。恋愛してたらどうしようもないんだ。誰だって、好きな人には裏切ってほしくない」
実摘の瞳に光が走った。飛季は右手を外し、手探りに実摘の頬に伸ばした。柔らかな感触が、飛季の手のひらをなぐさめる。指に雫が降った。
「どうして」と実摘はつぶやいた。
「え」
「どうして、飛季はそんななの」
「………、うぬぼれかな」
実摘は首を横に振る。散った涙が飛季の手の甲に触れる。
「飛季、何でそんなに僕が分かるの。僕も一緒なの。飛季がね、好きすぎてよくあつかえなくてね、こんなになるの。でも、そんなん飛季には言い訳に聞こえると思って」
飛季は実摘に近づいて、頬にある手をにらにもぐらせ、後頭部に移した。実摘の髪は飛季の指を愛撫する。
「思って、言えなかったの。飛季、代わりに言っちゃった。僕、飛季が好きなの。あんまり信じてないけど、好きなの。好きだからね、実富に取られたら怖いよ。実富は僕から全部取っちゃった。飛季だけは取られたくないの。飛季を取られなかったら、いいの。でもね、僕がそんなに飛季を好き好きって思ってたら、実富は絶対飛季を取ろうとするよ。飛季が好きになるほどね、実富が怖くなる」
飛季は腰を上げて、実摘の隣に座ると、彼女を抱いた。実摘は飛季の胸に頬擦りをする。飛季は、にらに包まる実摘をさらに包む。
「実富にはね、僕がいなくちゃいけないの」
「え」
「でも、それって、僕だからじゃない。自分のために、僕がいるの。実富は、僕がいて本物の完璧になるの」
飛季の脳裏に、憶測であった実摘と実富の関係がよぎった。本当にそうなのか。実摘は実富の歯車にされていたのか。
「実富は自分のことしか考えてないの。僕、知ってるの。ずっとそばにいたの」
実摘は飛季の服を握る。ワイシャツに皺が折り重なる。
「僕は、いたくなかったよ」
「……うん」
「僕は、僕を僕って、見てくれる人が欲しかった。ひとりはにらがいてくれるしね、そんなに何人もいらなかった。あとひとりでいいの。欲しかった。花畑の人に逢えればよかった。あの人とにらがいればよかった。それで、実富の隣を死ぬ気で逃げたの」
実摘の鼻が飛季にこすれる。飛季はにらに包まれた実摘の頭を見る。開いた瞳孔に暗闇に目が慣れてきた。
「逢えたよ」
「うん」
「飛季は、僕を僕だってしてくれるの。初めて、そんな人と会ったよ。初めて──」
実摘の細い腕が飛季の軆に絡まる。飛季も手伝って彼女を強く擁す。
「飛季が、大切なの。飛季は僕のなの。僕がここにいるのを一番教えてくれる。僕には、飛季じゃなきゃいけないのがたくさんあるよ」
にらのパイル生地に頬を当てる。実摘は身動ぎして肩をもごもごさせ、飛季に密着した。ふたりの体温は、挟まれたにらにも浸透していく。
「飛季」
「ん」
「ときどき考えるの」
実摘の呼吸が肌を暖かくする。真っ暗な部屋に息遣いが這い、寒い室内に体温が際立つ。
「僕、飛季の中で眠れたらいいのに」
【第四十八章へ】