陽炎の柩-5

雨に誘われるように【2】

 ため息が出る。変な子だ。あつかいにくい。
 正直、彼女の容姿には心がざわめいていた。明るい場所に連れてきて感じた。ぱっと見た印象は病的だったが、よく見ると綺麗な子だ。
 この部屋は、飛季の聖域だ。そんな場所に他人である彼女を招けたのは、あの容姿のためかもしれない。彼女が不細工だったら、無視していた気がする。
 複雑な想いで、電気をつけて洗面台の前に行く。途切れない雨音が聴覚に触れた。髪に櫛を遠し、セットをほどくと前髪が視界を閉ざしてくれる。ワイシャツのボタンを外して、洗濯籠に放る。
 そろそろ、コインランドリーに行かなくてはならない。そう思いながら、スラックスのファスナーをおろそうとしたときだった。
 ドアの開く音がした。はっと振り返ると、彼女が入ってきていた。ぽかんとしたあと、慌ててファスナーを上げる。
 足音をぺたぺた言わせ、彼女は飛季のかたわらにやってくる。
「な、何」
 思わずどもった。彼女は答えず、さらされる飛季の肉体を眺める。そして、突然ひざまずいた。先が読めなくてとまどうと、白い手は飛季の股間に伸びた。
 驚いて後退る。洗面台が腰に当たる。彼女は飛季に首を折り、怪訝そうにかたむけた。彼女の乾いてきた前髪は、さらりと額を流れる。
「何」
 スラックスのフックも留める。彼女は、飛季の反応に不審そうにしている。
「俺のここに、何か」
 狼狽して早口になる飛季に、彼女の長い睫毛は、ゆっくりしばたく。
「お礼」
「は?」
「お礼しなきゃ」
 彼女は、飛季のファスナーをおろそうとする。洗面台で行き止まって後退れない飛季は、その手を止めた。
「いらない」
 彼女の澱みが、不可解な色をたたえる。飛季は、彼女の手を丁寧に押し返した。
「いらないから」
 見つめあった。飛季の言葉が本気だと悟ると、彼女は鈍重に腰を上げた。無言できびすを返し、バスルームを出ていく。
 ぱたん、とドアが閉まると、飛季は息をついた。
「何なんだよ……」
 つぶやいてしまう。鏡を向くと、暗い瞳には、めずらしく感情が浮かんでいる。
 お礼。何をしようとしたかは分かる。見ず知らずの男に、なぜ当たり前のようにそんなことを言い出せるのか。
 着替えると、部屋に戻った。彼女はベッドサイドの床に尻をつき、投げ出した脚のあいだに置いたリュックをあさっていた。飛季には注意せず、無心にかきまわしている。
 一心不乱な手つきを傍観していたが、ふと彼女があさっているのが、カーキのリュックではないと気づいた。飛季の黒のデイパックだ。
「何」
 彼女に駆け寄る。彼女はひたと手を止め、こちらを向く。
「俺の──」
「先生なの」
「え」
 唐突な質問に、デイパックに伸ばそうとした手が止まる。
「学校の」
 思わずうつむく。教師では、ない。しかし、こんな自分が子供に何か教えているなんて、恥ずかしい。
「……ただの家庭教師だよ」
 そう言って、飛季は無理やりデイパックを取り上げた。唸って取り返そうとする彼女に、いつだかと同じく高く持ち上げた。彼女はデイパックを睨み、あきらめるとうなだれた。
 デイパックの中はぐちゃぐちゃに入り乱れていた。彼女に危懼のある飛季は、財布が無事か確かめた。底のほうにあった。開かれた様子はない。ファスナーを閉めたデイパックは、ベッドの奥のほうに放る。
 彼女は首を垂れ、スープを舐めている。
 飛季はコンビニのふくろを取ると、あいだを置いて彼女の隣に腰をおろした。弁当の蓋を開けると、彼女の視線がそそがれてくる。彼女を一瞥し、弁当に目を落とした飛季は、訊いてみる。
「食べる?」
 彼女は即座にかぶりを振った。髪がばさばさと乱れた。激しい拒否に、「あ、そう」としか言えなかった。
 割った箸でハンバーグを一口大に裂いていると、彼女は床を這いずった。放置していた自分のリュックをたぐりよせている。その拍子に、飛季の大きな服がずれて、彼女の左肩が剥けた。
 飛季は一瞬、手を止めた。彼女のその左肩には、大きな傷痕があった。刃物をかざしたような、ぱっくりとした傷痕が。さすがに生傷ではないが、かさぶたにもなりきっていない。
 彼女は眉を寄せて、服を引っ張り上げた。飛季の目には怒ったふうにそっぽを向いた。気まずくなって、顔を伏せる。
 生々しい裂け目は、しっかり眼球に焼きついた。なめらかな白皙を犯し、肩甲骨に及びそうに走っていた。どう考えても、人につけられた傷だ。
 彼女はリュックを開き、その中に頭を突っこんでいる。息苦しそうにうめき、何かぶつぶつ言っている。何と言っているかは聞き取れなくも、たまに楽しげな笑い声が混じるのが不気味だ。
 何だろう、と改めて思う。彼女のその分離した空気は、何かしら病んでいる。少なくとも、平和に暮らしてきた子ではなさそうだ。
 白熱燈を受ける彼女のうなじは、艶めいている。だぼだぼの服に、彼女の軆はますます小さく映った。白い手はカーキの綿布を愛撫し、儚い声は笑っている。雨音と混じるその窃笑には、どことなく張りつめた印象があった。
 不覚にも胸が痛み、飛季は前髪で顔を隠す。短い吐息をつくと、夕食に集中することにした。
 雨がやんで、軆が温まれば出ていくだろう。そう思っていたのだが、彼女は、夜更けになっても部屋を出ていこうとしなかった。ようやく思い出して閉めたカーテンの隙間には、蒼白い月もあった。
 彼女は、部屋の隅──テレビの乗ったチェストのそばに横たわり、死体になっている。まばたきもしない瞳はまっすぐ伸び、けれど何も捕らえていない。腹にはリュックを抱きかかえている。フローリングがじかに骨にあたって痛いだろうに、表情は弛緩している。
 そろそろ寝るかという時間になっても、彼女は部屋に転がっていた。
 こちらが誘いこんでおいて、追い出すのも気が引ける。飛季は彼女のそばにかがみこんだ。顔に影がかかった彼女は、目玉のみをきょろっと動かした。
「俺、寝てもいいかな」
 彼女は、静かに睫毛を上下させた。
「まだ休みたかったら、いていいよ。ただ、出ていくときには起こして」
 彼女は飛季を見つめ、うなずくと、まぶたをおろした。リュックを抱いて胎児のかたちになる。寒いかを問うと、彼女は頭を左右に揺すった。
 飛季は立ち上がって、明かりを消すと断っておく。彼女は反応しなかったが、それが了解なのは分かった。
 ベッドにもぐり、目覚まし時計に手を伸ばそうとした。が、明日は休みだ。時計には触れず、リモコンで明かりを消す。飛季は非常燈も残さない。部屋は真っ暗になる。まくらに頬を埋め、前髪が撫でていったまぶたを伏せる。
 彼女の気配がただよってきた。暗闇の中では、希薄だった彼女の気配が、異様に濃くなった。彼女は飛季を気にしておらず、それが気配の強調になっている。飛季は落ち着かず、軆をこわばらせる。
 シーツに軆を沈めると、心臓が高鳴っているのが聴こえた。
 バカバカしい。子供相手に何を緊張しているのか。大人の自覚を持とうとしても、シーツは鼓動を反響させる。彼女のしんとした気配に、不安の混じった昂揚を覚える。彼女の気配には、遊離した凄まじい孤立がこもっていた。
 呼吸を飲みこみ、意識が暗くなるのを待つ。寂然した空気を、彼女の弱い息遣いが震わせている。ベッドをきしませるのが怖くて、寝返りも打てない。喉を詰める発熱の中で、飛季はそれでも何とか眠りに落ちていった。

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