陽炎の柩-50

病【1】

 どんなに着こんでも寒さが肌に刺さり、体内を麻痺させる風が吹き荒れる中、カレンダーは十二月に突入した。太陽の効力も浅くなり、きんとする空気がこめかみに響く。朝方には、息が白く色づいた。
 夏から一歩も部屋を出ていない実摘は、毎日電気毛布でぬくぬくとして、飛季を待っている。そんな彼女が、帰宅した飛季の軆の冷たさにびっくりするほど、季節は冬になっていた。
 実富の模試の結果は完璧だった。完全、ではなく、完璧、だ。全教科、全問正解ではない。誰もがつまづきそうな場所で、都合よく間違っている。おそらく、計算した間違いだ。ケアレスミスはひとつもなかった。
「受験、これなら安心していいと思う」
 実富に励ます言葉をかけるなど心外だが、仕事だから仕方ない。目を合わせずにそう言った飛季に、実富は見透かして嘲るようなあの瞳を浮かべた。
 脅迫の手紙は、実富に呼び止められた日以来、なくなっている。実摘は安堵せず、かえって変化に怯えている。
 実富は飛季を憐れんで嗤う。実摘を失って、抜け殻になった状態を透視しているかのように。屈辱であっても、何を返せばいいのか分からない。心に実摘がくれた言動をよみがえらせて味わい、神経を自慰するだけだった。
 実富のほかにも受験生の生徒はいるし、そうじゃない生徒も見ているし、現在、飛季は平日はフルで家庭教師をやっている。ときおり、土日さえ事務所で働くこともある。実富の接近に重ね、飛季との時間を削がれて、実摘が穏やかでいられるはずがなかった。
 実摘は頻繁にひずんだ亀裂におちいり、泣き出したり鬱にこもったり、狂暴にならないのが救いでも、心を傷ませていった。治癒しかけていた彼女の傷口は、再び黒血にねばつきはじめている。
 稀にのんきにベッドに横たわっている日もあるが、だいたいは部屋のどこかで、にらと共に心の瓦礫の下敷きになっている。クローゼットや浴室、ベッドの下、真っ暗なベランダの手すりにふたつ折りになっていたときは、一瞬心臓が止まった。
「実富」といううわ言が増えたのも、飛季をえぐった。飛季はせくぐまる実摘を抱きしめ、根気よく彼女をあやした。だんだん、“実富”が“飛季”に鎮まっていく。
 飛季の冷えこんだ軆がほぐれた頃になって、実摘は「おかえり」とささやいた。飛季は微笑み、「ただいま」と彼女に口づける。実摘は静穏とした飛季の胸にすがりつき、無音で泣いた。
 そんな生活が続いた。狼狽えているあいだにも、時間は過ぎ去っていく。飛季と実摘には、年末年始という光が芽生えはじめていた。「ずっとそばにいるの」と訊く実摘に、飛季はうなずいた。帰郷など、もってのほかだ。
「お雑煮食べたいね」と言う実摘に「作るよ」と飛季は約束する。「お汁粉も」と欲張る彼女に飛季は咲い、そちらも約束する。実摘は幸せそうにしていた。年越しにはその安定を保たせて、憂悶した生活を少しでも埋め合わせたかった。
 飛季と実摘は、いつも深夜にベッドにもぐりこむ。その日は一緒に風呂に入り、湯気にまみれて、タイルの上で愛し合ったあとだった。相変わらず、飛季と実摘はふたりで一緒に風呂に入るのが好きだ。狭苦しくても、そのぶんこすれあう肌が刺激だった。
 冬はバスタブにも浸かる。これも狭いので、実摘は飛季のあぐらに座る。実摘が背中をもたせかけてくると、濡れた髪が喉元にくすぐったかった。実摘は、水中で飛季と自分の指をもつれさせて遊ぶ。
 のぼせながら風呂を上がり、軆を拭きあって髪を乾かしあう。歯を磨いて──相変わらず、実摘はしゃがむ──部屋に戻ると、すでに電気毛布がほどこされたベッドにすべりこんだ。飛季と実摘は脚や腕を絡ませ、お互いの体温を湯たんぽにする。
 歯を磨いているときに、飛季は実摘の以前の行動を嚥下した。実摘は自分の顔は呪われていると語っていた。ちょうど実富と同じくらいの髪の長さのときに鏡に映り、ひどい痙攣を起こして自失したこともある。そして、はさみで髪を切り落としていた。あの激しい反応は、実富と瓜ふたつである事実に怯えていたのだろう。
 腕の中の実摘が、もごもご動いた。飛季は彼女を覗きこんだ。背中を撫でてやると、実摘は軆を静止させて、顔を上げてくる。「何?」と飛季が問うと、実摘は言いよどんだのち、「あのね」と口を開く。
「飛季は、僕の大切な人なの」
「えっ」
 唐突な言葉に面食らった。けれど、もちろん「俺も実摘が大切だよ」とささやきかえす。実摘の瞳は潤んだ。飛季は肘をかがめ、手探りで実摘の頬のふくらみに親指を這わす。
「飛季」
「ん」
「僕、考えてたよ」
「え」
「僕ね、飛季に隠してることがあるの。そのこと考えてたの」
 明かりは消していて、実摘の表情は分からない。とりあえず、彼女の目元に添えている飛季の指は濡れない。
「僕も飛季も、離れたらびくびくになるでしょ。僕が全部お話して、透明になってつながったら、そうならなくて済むのかもって。お話すれば、僕、飛季を信じられるかな。全部見せてないから、そこがばれたら嫌われるって思ってるから、僕はしくしくするのかな。飛季にお話したら、僕たち、強くなれるかな。考えるの」
 実摘の瞳は、まっすぐだった。暗闇でも肌で感知できた。飛季は彼女の心を測りかね、背中を撫でる。
「でもね、お話は怖いよ。僕、思い出すと、ずきずきするの。忘れようとしてるよ。でも、み、実富が来て、どんどん戻ってきてるの。飛季のぬくぬくが一番だったのに、実富に取られそうだよ。怖いの。飛季も、そのお話を聞いたら、僕を嫌になるかもしれないし──」
 ここは断言しておかなくてはならなかった。
「嫌になんてならないよ」
「……なるもん」
「なれないよ」
「でも」
「それに、実摘が嫌だったら、その話はしなくてもいいんだ。話せるようになったときでいい。ずっと一緒にいられるんだから」
「飛季……」
「無理しないで。俺も──隠しごとされるのは哀しくても、実摘が無茶して話して傷つくのはもっと嫌だ」
 実摘の小さい手が、飛季の服を握った。飛季は彼女の背中をとんとんと安んじる。
「ずっとそばにいるよ」
「………」
「大丈夫だよ。俺は実摘が好きだよ」
 実摘は、飛季に抱きついた。軆同士をぶつける強い抱擁だった。飛季は実摘を見おろす。
 実摘は深呼吸した。その息は震えていた。
「実摘──」
 話さなくていい、と制そうとした。実摘は意志を保とうとする表示か、肩を張りつめさせた。気迫におされて、飛季が口をつぐんだ刹那に、実摘はたたみかけて口火を切った。
「私は実富の言いなりだった」
 飛季は息を詰めた。
「包丁を持ってのしかかられたときも、何にもできなかった」
 背筋に鳥肌が走った。口調が違う。実富のあの明晰な口振りだ。
「実摘──」
「お願い聞いて」
 実摘だ。飛季はおとなしく沈黙した。実摘は呼吸を整える。
「私と実富が生まれたのは、十二月のなかばで寒い時期だった。もし夏だったら、私はとっくに死んでいたかもしれない。毛布を色違いにしなくたって、私の肩にあったほくろで、見分けがついただろうから。冬は厚着しておかなきゃいけないでしょう? しょっちゅう軆を剥き出しにして、風邪を引いたら大変だし、私たちは毛布が色違いになった。私は緑で、実富は赤。私と実富の違いは、その毛布の色と、肩にほくろがあるかどうかだった。あとは、そっくりそのままだった。実富には、それで都合がよかった。自分と同じ私は、実富には理想的なおもちゃだった。私は実富の立体的な鏡だった。私は自分の容姿が嫌いだった。私と実富だったら、先に目につくのは実富。どんなに綺麗な容姿でも、私は実富の模造品だった。個性と呼べるものは、実富にいってしまって、私は二番煎じだった。容姿はそっくりでも、私たちの中身はぜんぜん違った。それも悪かった。私は何も実富に勝てなかったし、ほかに目立てるところもなかった。完璧な実富が隣にいたせいで、私の平凡は落ちこぼれに見えた。周りの人は、実富ばかりかわいがった。おとうさんとおかあさんも、誕生日は実富にしか何が欲しいかを訊かない。プレゼントは必ず同じもの。私は毛布みたいなものが欲しかった。実富と違うものなら何でもよかった。それこそ、くれないほうがマシだったくらい。両親は、私の気持ちなんかちっとも構わなかった。眼中にあるのは実富だけ。ほんとは実富しかいらなかったんじゃないかな。私なんていなくてもよかった。卑屈じゃなくて、私、あのふたりの愛情を感じたことがないの。本人たちは愛してるつもりだったのかもしれないけど、それなら、私が受け止める前に蒸発してしまうぐらいにそれは薄かった。実富は、愛情をいっぱいに浴びてた。いつも頭を撫でられるのは実富で、そんな実富と較べられて、しかられるのは私。私だって、頑張ってたんだよ。なのに、怒られてばっかりで。すごく哀しくて。泣いてもみんな無視。実富だけが、私をなぐさめた。私は実富にしか心を開けなかった。だから、実富の言いなりになった。実富の言うことなら何でも聞くようになった。でも、だんだんよく分からなくなってきた。何で私は、この子の人形みたいになってるんだろうって。けど、怖くて言えなかった。実富が、私の肩のほくろが邪魔だって言って、包丁でえぐってきたときも。痛かった。神経が狂いそうなくらい、ずきずきした。頭が真っ白になって、感じられないぐらい痛かった。実富はあっさり、私の肩をえぐった。包丁でほくろを削ぎ落とした。血が背中にも喉にも垂れてきて、脂汗があふれた。痛くて、肩自体を取り外したかった。悲鳴は、口にまくらを突っ込まれて出なくて、息もできなかった。家にはふたりきりだったんだけど。涙がぼろぼろ流れて、塩からかった。私のほくろを取り覗いたら、実富は私を仰向けにして、にっこりした。まくらを取られても、息が苦しかった。くらくらして、血がいっぱい出てた。死ぬかもって思った。『これであなたは消えた』って実富は言った。今年の春の始めだった」
 実摘は息をついだ。
 飛季には、その話がいまいち理解できなかった。実富が実摘の肩を裂く理由が分からない。
 彼女は少し黙りこみ、飛季に寄り添った。“実摘”の動作だった。落ち着かせてやったほうがいいのか。飛季は、実摘のこめかみに口づけてみる。実摘のため息が聞こえた。

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