夢の人
服が湿った。飛季は実摘の肌に体温を送る。実摘は嗚咽をもらした。肩を弱く震わし、感情を瞳で絞っていく。飛季は、細い背中を壊れないように撫でた。
飛季の中で、すべてが透徹になっていった。実摘の心が透けていった。奇妙な行動も、意味深な言動も、癒えきれない傷も。存在感の希薄さ、自分のものへの執着心、死への真摯な憧れ、なずんでいたいろんなものが、急速に昇華していく。
ほどけていくごとに、苦しくなった。彼女の心に共鳴する飛季の心は、深くえぐられ、その傷が植えつけられる。察せなくて当然だ。あまりにいびつで、陰惨すぎる。聞いただけだったら、信じられなかったかもしれない。
いや、信じたくなかった。けれど、何ヶ月もこの子と過ごした飛季は確信できる。実摘が光に消滅する砂であるのも、その肩から存在が血にもつれて流れ出たのも、飛季はよく知っている。この子の話は、誇張も虚言もない、冷たい事実だ。この子は、十数年も多くの人間にないがしろにされ、そばにいてくれると信じた片割れにはおぞましい自慰行為の道具にされていた。
この子は、殺されるために生まれてきたようなものだった。生きてそこにいる限り、呪縛を逃れられない。その顔を、その軆を、その細胞を所持している限り、自分自身にはなれない。
実富が実摘に行なった行為は、すさまじい存在否定だ。抜け殻あつかいの肉体に、自慰の道具として転がっていろと侮辱を担わせる。
実摘は、そうして自分自身を消し去られていった。心がなくて、傷つくことさえはばかられていた。ひとりぼっちですら、なくなっていった。
「僕は」
はっとして実摘を覗く。実摘は飛季の服をびしょびしょにしていた。
「僕は、僕自身が存在否定だった」
「実摘──」
「だって僕、生まれてないもん。実富のおまけで、ただの細胞分裂のかたまりだったの。なのに、えらそうに考えたり悩んだりしてね。僕はそうやって、自分がここに存在してるっていう証になることが存在否定だった。実富のおまけとして、何も感じちゃいけなかった」
実摘の腕が背中にまわってきた。飛季は実摘の髪を見る。栗色の髪は、ベッドスタンドのライトに艶めいている。だいぶ長く話を聞いていた気がするが、まだ一緒に風呂に入ったまま濡れているのだ。
「めちゃくちゃだよ」
「……うん」
「ずっと、めちゃくちゃだった」
沈黙になる。実摘は自分の涙と飛季の匂いを嗅ぐ。
「でも、飛季に逢った」
「……俺」
「夢の人、いたの」
飛季は、実摘の髪に指を通した。澄んだ髪の湿り気が、指のあいだをひんやりとさせる。
「飛季に逢って、僕、やっと生まれたよ。軆ができて、十五年もあとに、心も生まれたの。誰にも抑えつけられない、僕は僕になれた。飛季の隣で、僕の命も起きたよ。飛季、僕をいいこいいこってしてくれる。僕を抱いてくれるし、僕を見てくれる。実富を知ってもね、やっぱり僕を見てくれるの。飛季の中では、僕は実摘としていられるの。すごいの。飛季の目も透明──だけどね、実富とかとは違うよ。飛季は透き通らずに、綺麗に水を張って僕を映すの。初めてだよ。そんなの、飛季だけなの。飛季は僕を許してくれる。飛季も僕といると生き生きってするよ。目が血じゃなくなって、僕を水に映してほっとしてくれるの。僕、それ見るの好き。飛季の目の匂い、変わったよ。この部屋にも、血の匂いしないよ。誰かを殺すより、僕といるのがおいしいってしてくれるの。飛季の目には僕が映ってる。飛季の心に僕がいるってことでしょ。飛季、もう仮面かぶってないよ。この部屋、飛季のそのままの匂いがしてるの。僕が飛季に逢って生まれたみたいに、飛季も僕に逢って剥き出しになれたの。そうでしょ。僕、間違いしてないよ」
仰いできた実摘に、飛季は笑んでうなずいた。実摘は嬉しそうに咲った。
「僕は飛季のでね、飛季は僕のなの。僕ね、飛季のために生まれたと思うの。だってね、飛季も僕のために生まれたんだもん」
飛季はただうなずき、彼女の頬をさすった。残っていた涙が手のひらに広がった。実摘は、飛季の手のひらに頬にすりよせる。
「ずっと、飛季を捜してたよ。飛季がいたから、あの家で死ななかったの。飛季は僕の柩なの。僕ね、陽炎みたいだったよ。実富のそばいる頃も、陽炎だった。ゆらゆらしてて、触れなくて、いるか分かんない。僕ね、そんなの終わりにしたかった。陽炎じゃなくなって、僕は僕になって、柩の中で眠りたかった。飛季は僕の命を起こして、陽炎を殺したの。僕を僕にしてくれたの」
飛季は実摘を抱きしめた。彼女の顔は飛季の胸に押しつけられる。濡れた服が肌に冷たい。
「僕ね、誰かに『実摘』って呼んでほしかった。『実摘が好きだよ』って言ってほしかった。飛季が初めて言ってくれた。それでね、それは飛季しか言っちゃいけなかったの。だから僕、つらかったけど、許していいよ。誰にも愛してもらえなかったの、許せるよ。だってね、僕を愛していいのは、飛季だけだもん」
「実摘──」
「飛季といると、僕、生きてるの。どきどきする。けど、すごくほっとする。死んだみたいに、全部なくなって眠れるの」
飛季は、実摘の首筋に顔を埋めた。喉が締まる。何だか泣きそうだった。
「飛季」
実摘の儚い声が耳元に響く。
「愛してるよ」
「……ん」
「ずっと一緒にいてほしいの」
何度か頭を上下に振って、呼吸を整えた。実摘は飛季の胸に収まっている。飛季は彼女に耳打ちした。
「実摘」
「ん」
「俺も、実摘を愛してるよ」
「……うん」
「ずっと、俺の中にいて」
実摘は飛季の服を握りしめた。飛季は実摘を腕に包みこむ。実摘の鼻をすする音がした。
深い息遣いが床を這う。「おやすみ」と実摘の声がした。飛季は実摘の肩から背中を撫で、「おやすみ」と返した。実摘は幸せそうな咲い声をこぼし、飛季も口元をやわらげる。
ふたりは軆を埋めあい、ゆっくり、体温をシーツに溶かしていった。
【第五十四章へ】