陽炎の柩-54

なだらかな心

 飛季が出勤すると、実摘は部屋ににらとふたりきりになる。
 閉まったドアと、かちゃっという鍵の音をしばし惜しみ、実摘は何とか飛季をあきらめた。にらをかぶるままでベッドサイドを動かず、着せられた飛季の大きな上着に身をひそめる。
 静かな室内には、冬の柔らかい朝陽が満ちている。床に伸びる光はもろげに暖かそうで、実摘はその中を踊る金色の微粒子に目をこらした。ベッドやテレビにもその光は伸びていて、反射させるものをそっと白光させている。
 実摘は、ガラス戸に顔を向ける。頬に光が当たった。目をつむっても、まぶたを通り抜けて光は眼球を襲う。まぶたが赤い。実摘は待った。何にもなかった。仕方なく、自分でうなだれる。飛季の軆に光を遮ってほしかった。
 さっきまでこの部屋では、飛季がばたばたしていた。実摘はふとんに包まって、飛季を見つめていた。飛季を見つめながら飛季を想うのは、ささやかな贅沢だ。
 飛季はワイシャツを着てスラックスを穿き、まだ髪はおろしていても、出逢ったときのすがたをしていた。何だかどきどきする。実摘の中で、飛季はこの部屋でいっぱいかわいがってくれる人になったから、外では今もあの淡白なふりをしているのは変な感じだ。
 実摘が目覚めているのに気づくと、飛季は微笑んで実摘の恋人の顔に少し戻った。抱き起こしてくれた彼に、甘えてしがみつく。飛季は苦笑して口づけてくれた。
 唇をちぎると、朝食を食べるかを問われる。実摘はうなずいた。寝起きでまだ食欲は眠っていたが、飛季と食べたかった。たまご焼きと味噌汁とごはん、飛季の料理はおいしい。食後にコーンスープを作ってもらい、実摘がそれを舐めているあいだに、飛季は洗面所に行った。
 残された実摘は、彼がもうすぐいなくなることに胸を痛めた。近頃、飛季は毎日遅い。実摘はベッドにいるにらをたぐりよせた。戻ってきた飛季は、「先生」になっていた。
 不安げな実摘に、困ったように飛季は咲い、上着を着せて抱きしめてくれる。実摘は飛季のワイシャツに頬を押しつけた。飛季の匂いがした。その匂いで存分に肺を満たし、実摘はおとなしく軆を離す。飛季は実摘の頭を撫でて、食器を洗いにいった。
 実摘はにらをかぶり、飛季の広い背中を見ていた。やるべきことを済ますと、飛季はぎりぎりまで実摘のそばにいてくれたが、ほどなくして立ち上がった。実摘はかろうじて咲った。彼は一度実摘をぎゅっとすると、部屋を出ていった。
 飛季がいなくなると、この部屋は急激に虚しくなり、光景に成り下がる。
 部屋に眼球を走らせた。空っぽだ。飛季がうろうろしなくて、光は遮断されずに蔓延している。
 実摘は泣きそうになった。飛季の上着の中に縮まった。上着なので、頻繁に洗濯しないそれは、飛季の匂いがする。実摘の喉が甘く詰まった。
 飛季だ。飛季の匂いがする。実摘は彼に抱きしめられている気分になり、その匂いを嗅いだ。けれど、匂いに抱きつこうとしたら空振り、実摘は床の上に転んだ。
 にらが腰に落ちる。実摘はぺたんと座っていた。
 突然、哀しくなった。飛季の匂いがするのに、飛季がいない。実摘は涙をこぼした。飛季、と呼びそうになって、唇を噛んだ。返事がなくてつらくなるのは、何度も経験している。
 明るい部屋を這いずりまわった。途中でにらが軆を落ちて、かぶりなおした。しがみつく飛季の軆は見つからない。
 上体を起こし、実摘はかぶるにらを膝におろした。抱きしめて顔面をうずめた。にらは、日向とホコリが混じった匂いがする。飛季への胸の痛みがやわらぐまで、実摘はその匂いを無心に吸った。
 いつだか飛季に、酸素吸入みたいだと比喩された。実際、実摘にはにらの匂いはそのようなものだ。飛季の不在や、ぱっくりした傷に息が苦しくなると、にらの匂いは実摘の幼い心をなだめてくれる。
 飛季への鮮烈な想いを、にらに絡めてなだらかにすると、実摘はベッドサイドに四つんばいで帰った。シーツに頬を当てた。切られていない電気毛布が暖かい。
 背中にあたる陽光を感じながら、実摘はぼんやりとしていた。呼吸の軆の上下と、まばたき以外には動かず、脱力する。意識が揺蕩い、睫毛を浅くおろした。息遣いが深く、重たくなっていく。
 昨夜、実摘は飛季に埋葬しようとしていた記憶をさらした。飛季はまじめに聞いてくれた。間違えるとお笑いになりそうなこの傷口を、共に静かに覗いてくれた。
 泣きたくなくて、実富として成長していた人格を使った。なのに、最後に話が飛季にたどりついた瞬間、自分に還って泣いてしまった。飛季は抱きしめてくれた。
 今の自分には、抱きとめてくれる人がいる。その事実に心からほっとした。話し終えても、飛季は不用意な言葉は贈ってこなかった。それも実摘を楽にさせた。飛季はただ実摘を抱きしめて、「愛してる」とささやいてくれた。じゅうぶんだった。
 犯された、と飛季には語ったけども、それは少し違う。実摘は犯されてなどいなかった。目が見るように、耳が聞くように、実富は実摘で自分を愛した。それだけだ。
 あれがそこまで凄絶だったのか、正直、断言しかねる。ただ、あのふたごの妹にされた行為に、自分は傷ついた。言い切れるのは、そのひとつだ。心身も、命も、存在も。ずたずたにされた。無傷だったのは、あの夢の心象ぐらいだ。
 あの夢が、実摘の支えだった。むせかえりそうな花畑で、自分を殺してくれる “彼”が、実摘の心臓を守っていた。あの夢がなければ、実摘は絶望して死んでいた。あの夢と、その夢を包んで守ってくれていたにらが、実摘が実摘としていられるのを救っていた。
 実摘は身動ぎした。膝に座っているにらに触った。にらへの愛情があふれた。撫でると、にらの生地は手のひらに心地よい。
 にらは大切だ。飛季がいても大切だ。にらと飛季は天秤にかけられない。実摘はにらを抱き上げると、腕にかかえた。くんくんとして、いい匂いに笑みをもらした。ぬくぬくしているベッドに広げてみる。にらの緑は色褪せている。
 にらという名前は、夕食にレバニラが出たとき、嫌な顔をしている実富に気づいてつけた。韮に限らず、にんにくやキムチや、臭気の強い食べ物を実富は嫌っていた。実摘は食べられても、「食べたくない」と実富が言えば、「私も」と嫌いなふりをしなければならなかった。
 実摘はにらに頬擦りをした。にらが愛情表現を理解してくれるとやめた。ほつれた裾に頭を乗せて、再度脱力する。
 飛季を想ったり、あの告白を思ったりしていた。気持ちは穏やかだった。

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