陽炎の柩-55

優しい夢が終わるとき

 背中に降りそそいでいた光が、柔らかくなっていた。実摘は軆を起こし、窓辺に這っていった。レースカーテンをめくると、太陽は空の真ん中に届きそうになっている。
 お昼、と思った。実摘はカーテンをつかんで立ちあがると、キッチンに行く。しゃがんで冷蔵庫を開けると、昨日飛季が作った豚肉の生姜焼きがあった。
「おいしいの」と言いながら電子レンジに入れた。炊飯器の釜は洗われていて、ごはんは茶碗に盛ってある。水滴のついたラップを剥がすと、ゴミ箱に捨てた。そのあいだに一分経った。ほかほかになった皿と冷や飯を見較べ、お肉あったかいからいいや、と座卓に着いた。
 ペットボトルのジュースも並べ、ひとりの昼食が始まる。飛季の料理はおいしい。が、飛季との食事もおいしい。飛季がいないと、飛季の料理は寂しい。
 この頃、飛季はいそがしそうだ。帰ってきても、仕事をしているときもある。冬休みになったらと思い、実摘は耐えている。飛季も同様らしかった。
 先日、「初詣行かない?」と飛季に誘われた。休日の昼下がりで、何もせずに並んで、ベッドサイドの床に座っていた。実富との鉢合わせが脳裏をかすめ、実摘はうつむいた。察した彼は、オートバイで遠くに行けばいいと提案した。
「実摘は後ろに乗って。怖いかな」
 かぶりを振った。飛季のオートバイには乗ってみたかった。
「実摘、ずっとここにいるし。滅入ってない?」
「それは大丈夫なの」
「そっか」と飛季は息をついた。
 飛季と初詣。行きたかった。オートバイだったら、飛季の背中に顔を伏せていれば何とかなる。あの家は初詣は近所で済ますほうだったし、遠出すれば問題もない。何より、飛季と手をつないで、お参りしたり屋台を覗くのは楽しそうだ。
「あのね」と実摘は飛季を振り返らせる。
「行きたいの」
「え」
「初詣」
 飛季は実摘を見つめ、微笑むと、「じゃあ、行こうか」と言った。実摘はこっくりとした。「約束なの」と取りつけると、飛季は実摘の頭を撫でた。飛季と並んで外を歩けるのは、久しぶりだ。「屋台で何か食べたい」と甘えると、飛季はうなずいた。
「飛季は、毎年初詣行ってるの」
「いや、行かないよ」
「どうして」
「………、行く意味なかったし。実家に帰ったら、引っ張っていかれてたかな」
 実摘は鼻白んだ。実家。そうだ。飛季にも家族がいるのだ。何だか、実感がない。
「帰らなくていいの」
「いいよ。いつも、できれば帰らないようにしてたし」
「おうち、嫌なの」
「俺、親の言う通りにしてきてこんなになったんだよ」
「飛季はこんなじゃないよ」
 怒った実摘に、飛季は困った笑みをした。飛季の指が髪のあいだを通るのは気持ちいい。
「そろそろ結婚しろってうるさいよ」
「僕と結婚する」
 飛季は実摘を見て咲っていた。理由はよく分からなかった。親の言いなり。実摘は、飛季がどういった過去を作ってきたか知らないのに気づいた。問うと、「普通だよ」と返された。
「普通」
「平凡だった。何にもなかった。当たり障りなくて」
「つらいよ」
「………、たぶん、実摘にしたら贅沢じゃない?」
「つらいつらい」
 飛季は実摘の肩に腕をまわし、抱き寄せた。
「実摘に逢って、全部変わったよ。実摘が俺といると落ち着いてくれるみたいに、俺は実摘がいると冴えてくるんだ」
 実摘は飛季を見た。飛季は照れ咲いをした。実摘は飛季に寄り添い、にこにこした。飛季に愛情のこもった言葉をもらうのは嬉しい。
 飛季とのやりとりを回想していると、自動していた手と口によって、無事食事を終えられた。
 実摘は口をもごもごさせた。マスカットジュースをひと口飲み、冷蔵庫にしまう。シンクで口をゆすいだ。皿も洗っておく。飛季が褒めてくれる。
 実摘は突っ立った。室内は明るい。喉を剥いて天井を仰ぐと、明かりは消してある。実摘は部屋を歩いた。飽きるとテレビの前に座った。映画を観ようと思い、二秒で気が変わる。トイレに行ったり、バスルームを覗いたりした。飛季は帰ってこない。実摘は床に転がった。数分、そうしていた。また飽きてしまい、たたずんできょときょとする。
 クローゼットを開けた。そこには、飛季の服に混じって実摘の服も置かれるようになっている。実摘はそのことに悦に入って、ほくそ笑んだ。
 クローゼットの中にいることにした。実摘はハンガーかけの下に侵入し、軆を縮める。中から完全に扉を閉めるのはむずかしい。光芒は瞑目で許して、実摘は暗闇と防虫剤の匂いに溺れた。
 飛季を想っていた。彼にもらった言葉や仕種、綺麗な顔や軆を心で味わった。気分の悪いときにこれをすると、狂おしい欲望に悶えても、いいときにすると柔和な気持ちになれる。
 いい傾向だ。帰宅した飛季に心配をかけずにすむし、懸念のない彼の笑顔も見られる。飛季が素直な笑顔を見せるのは、実摘ひとりだ。外では仮面をかぶっている重荷も、実摘には素顔を見せられることで軽くなっているようだ。
 飛季の笑顔が、安心しているのは好きだった。実摘が元気だと飛季は安心してくれるし、実摘はなるべく元気でいたい。飛季を想っていると、実摘は元気になっていく。うまい関係だと思う。
 クローゼットに沈んで、実摘は長らく飛季への想いに浸っていた。眠たくなってきていた。鈍くうごめき、「寝る」とつぶやいてクローゼットを這い出ようとする。
 そのとき、かちゃかちゃという音がした。鍵を開ける音だ。実摘はぱっと喜色した。
 飛季だ。帰ってきた。
 眠気も忘れ、急いでクローゼットを出る。思わず立ちすくんだ。部屋は陰っていなかった。電気も必要ないほど明るい。いつもはすっかり陽が落ちた頃に帰ってくるのに。
 鍵が開く音がした。この部屋の鍵を持っているのは飛季しかいない。
 やっぱり飛季だ。そう思って納得した。ドアが開く音がして、実摘は満面に笑んでそちらに駆け寄った。
「飛季──」
「よお」
 実摘は、はっと足を止めた。飛季の口調ではなかった。煙草の臭いが強くした。笑顔が硬直した。代わりに相手が嗤った。
「久しぶりだな」
 酒と薬物につぶれた、低い声だった。痩躯の軆は、アーミーグリーンのナイロンのオーバーを羽織っている。色褪せたジーンズには見憶えがあった。煙草が玄関のコンクリートに落ち、その火を躙ったスニーカーはぼろぼろだ。
 鋭い眼がゆがみ嗤う。ブラックブルーに染められた、長い前髪の奥で。
「お前のゲロ、腐って大変だったんだぜ」
 伊勇だった。
 実摘は目を剥いて後退った。実摘の反応に伊勇は薄笑いし、部屋に上がりこんでくる。
 実摘の中が破裂した。ここは飛季と自分の聖域だ。
「入るなっ」
「ここが飛季って奴の部屋か。できちまったのか」
 実摘はベッドに後退した。ベッドスタンドにあったもの──時計、リモコン、本を伊勇に投げた。伊勇はかわして近づいてくる。
 まくらを投げた。伊勇は一歩踏みとどまる。ついでブランケットを投げると、それは彼の頭をおおった。にらは投げずに部屋を見まわす。
 腕力で勝てるとは思わなかった。武器。包丁。しかし、キッチンは伊勇の背だ。はさみ。どこにやったかきょろきょろするあいだに、伊勇はブランケットを剥いで、床に捨ててしまう。
 実摘はクローゼットに逃げる。伊勇は投げつけられた本を拾った。表紙を眺め、放る。参考書だ。
「お前、あの男が先公の真似事してるって知ってんの?」
「何、何しに来たんだよっ。何で、どうしてここ、」
 伊勇はあの不愉快な冷笑をした。
「まだ気づいてないのかよ。お前を逃がしてやったのは、罠なんだよ。鍵忘れるなんてバカ、やるかよ。切羽つまらせて、わざと置いていったんだ。お前をねぐらに帰らせる作戦だったわけ。家出してあんなに経ってたんだ。そういう場所を見つけたんだろうって読んだんだよ。もちろん──」
 クローゼットは開きっぱなしだ。実摘は服をつかんだ。
「あの人が、だぜ」
 実摘は、飛季や自分の服を闇雲に伊勇に投げつけた。
 腕が震えていた。彼の話など耳に入っていなかった。実摘の頭にあるのは、この男が“あの人”と通じていることだけだった。あの悪魔と。実摘を殺しても殺しても飽き足りない、愛を悪食する狂人と。
 この男は、あの悪魔にひざまずく邪教の使徒だ。
 伊勇は鬱陶しそうにかかった服をはらうと、大股に近寄ってきた。実摘は部屋の奥に逃げた。
 チェストにあった電話を投げつけた。伊勇はよけて、受話器が外れた電話は床に壊れる。
「あの人は、お前のことなんか何でもお見通しなんだ。お前の財布や性格を計算して、俺はこのへんに派遣された。それでほんとに見つけちまった」
 怖くて目をつぶった。耳鳴りがしていた。電話帳やメモ帳や、手に触れたものは何でも伊勇に投げつけた。けれど、壁に追いつめられてしまう。
「何にでも引っかかりやがって。お前は本物のバカだな」
 ガラス戸のほうへ逃げようとした。伊勇の骨ばった手が腕に食いこんだ。実摘は暴れて、唸り声を上げた。
「あの人と正反対だ」
 実摘は激しく震駭していた。膝や腰は崩れ落ちそうだ。
「離せ、」
「顔はこんなに同じなのにな。俺も、お前には軽蔑しか湧かねえよ。飛季って奴の気が知れねえな」
「飛季の悪口言うなっ」
 壁に押しつけられながらも、実摘は伊勇を睨めつけた。伊勇は喉で嗤笑した。
「まあ、そうだな」
 伊勇の息は酒臭い。
「あの人の代わりにされてるだけなんだろうよ」
「何にも知らないくせにっ」
「知らなくても分かるさ。お前には、それ以外の価値はないんだ」
「飛季は、」
「お前はあの人の代わりだ」
 吐きそうなめまいがした。こめかみががんがんした。
 あの声がした。
 いない。あなたなんていない──
 実摘は悲鳴を上げた。伊勇の笑い声がした。実摘は暴れた。飛季を呼んだ。口を塞がれ、その手を咬んだ。腹に鋭く鈍痛が打ちこまれる。うめいた。誰かの腕に倒れこんでしまった。
 それでも抵抗して、逃げ出そうと、飛季の元に帰ろうとした。飛季の名前を叫ぶ。呼んでも呼んでも、飛季は来ない。
「来ないぜ」
 耳元にしゃがれた声がする。
「誰がお前なんか気にするんだ」
 実摘は喘いだ。声がわんわんしている。
 あなたはいない。いい子だから消えて。あなた自身でいたって──
「邪魔なんだよ、お前は」
 かぶりを振った。声を追いはらい、飛季を取り戻そうとした。飛季はささやいてくれた。いっぱい。何度もささやいてくれた。その言葉を思い出そうとした。
「お前はクズだ」
 飛季の名前をささやいた。忌ま忌ましそうな舌打ちがした。腹に刺さった痛みが軆を痺れさせる。
 飛季。
 彼を想って耐えようとした途端、腹の鈍痛に衝撃が重ねて打ちこまれた。意識がぐにゃりとくらつく。
「飛季……」
 さらに拳は腹をえぐった。胃物が逆流しそうな不快な感覚がした。
 つかみかけた飛季の言葉が揺れる。
 瞬間、実摘は真っ暗になった。

第五十六章へ

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