悪夢の開花
「ずっと学校行ってないのに、受験なんて受かるかな」
すっかり窓の向こうが暗くなったことに気がつき、飛季は腕時計で時刻も確かめ、今日の勉強を切り上げることにした。今日は、月水金の午後に見ている女子生徒の日だ。教科書をしまいはじめながら、彼女はふと不安そうに尋ねてきた。
窓枠が音を立てるような風が、外では唸っている。この部屋には暖房が効いているが、帰り道はだいぶ冷えこみそうだ。
本当はさっさと帰りたかったものの、「通信は面接のほうが重要だから」と飛季はこれも仕事だと思い、閉じた参考書をデイパックに入れながら言った。
「通学したいって気持ちを伝えたらいいと思うよ」
「……私、通学したいのかな。おかあさんたちが言うからってだけかもしれない」
「………、だったら、その不安も面接で伝えればいい」
「そんなことしたら──」
「同じ不安を抱えてる生徒は、多いと思うよ。そして、その不安はケアしてもらっていいものだから」
飛季は彼女の手元のノートを見て、「君が勉強では遅れを取らないように、ずっと見てきたし」と静かに続ける。
「勉強の心配はしないで」
「うん……」
「どうしても通学できなかったら、それでもいい。おかあさんも君を苦しめてまで登校させる方ではないから」
「そう……かな」
「それに、きっちり三年で卒業する必要もない。君のペースで決めていいんだ」
彼女は飛季を見つめると、「先生ともお別れだよね」と首をかたむけた。
「俺は中学講師だからね」
「そうだよね……」
「高校で、もっといい先生に出逢えるよ」
彼女はうつむいたけど、こくんとして、「でも、先生に見てもらえて、中学はそれが一番よかったと思う」と言った。飛季は何も言わず、ただ少し微笑むと、荷物をまとめて立ち上がった。
彼女の母親とも玄関先で軽く話をした。高校生になったら、通学が負担になっていないか気をつけてほしいと伝えておく。「高校に進むことにしてくれただけで、前進ですから」と飛季が言うと、母親は首肯して、「見守りたいと思います」と噛みしめるように答えた。
十二月は、下旬にさしかかっていた。オートバイでやっと帰路につきながら、あと数日耐えれば、実摘と一週間ぐらいじっくり過ごせることを心の糧にする。
きんとした空気が停滞していた。昼間の太陽の弱さで、夜はぐんと寒さが厳しくなる。日も短くなった。十七時には夕暮れになる空は、十九時にはとっくに濃紺だ。風を切ってオートバイを走らせながら、軆の端々が凍り、服の下で肌も冷気を警戒しているのを感じる。
クリスマス間近で派手な通りを抜け、飛季は部屋のあるマンションの敷地内にすべりこんだ。オートバイを降りて、ヘルメットを脱ぐ。暗い空に吐く息は、くっきり白かった。
飛季はちらりとマンションを仰ぎつつ、荷物を肩にかける。今日は買い物をしてこなかったので、デイパックのみだ。オートバイに盗難防止を仕掛けると、早足に正面にまわる。
エレベーターで六階に着くと、大股で玄関の前に向かった。無造作にさしこもうとした鍵が合わなくて、目を凝らすと、鍵穴の向きが開けるときでなく締めたときになっている。
開いているのか。今朝、鍵をかけていかなかっただろうか。いや、締めた。締めて、実摘を想って切なくなった記憶がある。実摘が開けたのだろうか。いや、でも、あの子は閉じこもっているはずで──
疑問が行き詰まると、首をかしげつつ、飛季はドアを開けた。
真っ先に、鼻腔に細く煙たい臭いがした。訝って明かりをつけ、視界に飛びこんだ光景に、飛季は目を開く。
時計やブランケットが、玄関の床に散らかっている。何だ? また実摘に発作が起きたのか。
足を踏み出すと、何かを踏んだ感触がした。足を退けると、なぜか煙草があった。これが煙たさの犯人か。
でも、飛季は煙草を吸わない。実摘も吸わない。ほかに飛季の日常にいる人間は、いない。
胸騒ぎがした。部屋に駆けこんだ。
めちゃくちゃにされた室内に、一瞬立ちすくんだ。部屋じゅうに服や本、生活品や電話までもが散乱していた。
飛季は荷物を床に落とした。部屋に入り、きょろきょろした。クローゼットは開きっぱなし、ベッドの上はふとんだけになり、メモ用紙や電話帳もつぶれたように倒れている。転がった電話の受話器が、低い発信音で静寂を際立てていた。
飛季は自失するまま、腰をかがめて受話器を戻す。いつもと違う、と思った。いつもの実摘の荒らし方と違う。
実摘。そう、彼女のすがたがない。名前を呼んだ。返事はない。部屋を探しまわった。ベッドの足先やベッドの下。いない。トイレ、物置。いない。ふとんの中、風呂。だんだん焦ってくる。浴槽、ベランダ。見つからない。
冷静さが欠けてきて、明らかにいない場所も探した。服をほとんど奪われ、空状態のクローゼットを隅々まで覗く。最近は使用していて、入りこむ隙間のないキッチンの戸棚を開ける。膨らんでもいない服やブランケットを、無闇にめくる。
部屋はさらに荒れた。
実摘はいなかった。
あちこち見まわって、にらもいなくなっていることに気づいた。一気に、不安が恐怖に変わった。部屋の鍵が開いていた。にらもいない。まさか、実摘は出ていったのか。
にらがいないとなると、大いにありうる。ベッドの脇で、飛季は実摘の服の上にへたりこんだ。すると、尻に何か当たった。腰を浮かし、実摘の服に隠れているものを引っ張り出す。
カーキのリュックだった。これは置いていったのか。一応、中を覗いてみても、にらはいない。以前ベッドに羅列してもらったものばかりだ。飛季は、リュックを抱えて茫然とした。
部屋は、ますます乱れていた。どこの扉も開きっぱなしで、しまわれていたものは放られている。服はばらばらに部屋に散らかり、耳を澄ますと、また受話器が外れたのか、電話の発信音がしていた。
いろんなものが入り混じっていた。でも、肝心な実摘はいなかった。
実摘がいない。気配もない。悪戯ではない。本当にいない。今日の朝までは、確かにここで、自分と一緒に暮らしていたあの子が。いなくなってしまった。そんな──。
視線を落とした。リュックの肩紐を握りしめた。
こんなのは、いきなりすぎる。朝、彼女に何か変わった様子はあったろうか。いや、なかった。
では、昨日か。昨夜、実摘は飛季に過去を打ち明けた。あれに何か関係があるのか──。
飛季は心の受動になる脳を断ち切り、冷静になろうと努めた。
ひどくなった部屋に顔を上げた。そして、気がつく。この状況で、出ていく以上にありうる不安要素は──実富だ。
リュックをそっとベッドに置くと、部屋を歩きまわった。煙草の臭いが鼻をつき、そういえば、とその存在を思いだした。煙草。飛季も実摘も吸わないものだ。実富は知らない。実富のものなのだろうか。
違う気がした。昨日の実摘の話の様子では、煙草で肺が汚れることすら、彼女は嫌忌しそうだった。
では、何だろう。部屋をぐるぐるしていると、転がっていた時計が爪先に当たった。手に取ると、針が止まっていた。朝は動いていたし、投げられた衝撃だろう。止まっている時刻は二時半──おそらく昼のことなので、十四時半か。
実富は、学校にいた時間帯だと思う。だとしたら、誰だ。やはり、正気を見失った実摘の自発か。しかし、この煙草は外部から侵入があった痕跡だ。
そこで、実摘の話がよぎった。奴隷。そう、実富の崇拝者の仕業ならありえる。
主観と客観にはさまれて部屋を歩きまわり、何かを拾っては、くだらない推理をめぐらせた。とりあえず、部屋からでも落ち着けよう。そう思い、引きずり落としたふとんやブランケットをベッドに上げ、服をかきあつめた。食べ物を保冷に戻し、物置やトイレのドアも閉める。拾っては捨てたものを拾っていった。
服に埋もれていた電話も戻し、電話帳の折れたページも戻す。黙々と片づけるあいだに、うるさい呼吸や泳ぐ目は落ち着いてきたが、心はさざ波立って、脳も凪いでくれなかった。そんな自分の状態に焦燥していると、突然、電話が鳴った。
服をハンガーにかけていた飛季は、手を止めた。眉を寄せ、そこに歩み寄る。実摘だろうか。実摘に電話番号を教えた記憶はないけれど──。
飛季は、受話器を取った。
「もしもし」
感情を抑えた飛季の応対に返ってきたのは、『桐月先生ですか』という意気ごむ男の声だった。実摘の儚い声ではない。がっかりと肩が落ちる。聞き憶えのある──塾の主任の声だ。
『ずいぶん長電話をしてましたね』
何やら、彼の声は怒っている。受話器が外れていたんです、とも言えず、飛季は「はあ」と返した。
「何か御用でしょうか」
彼は咳払いした。そして、『先ほどなんですが』といやにまくしたててくる。
『綾香さんのおかあさんから、電話があったんです』
彼の言葉に、飛季は顔を顰めた。綾香さん。実富。飛季は部屋の現状を一瞥し、喉元に黒雲を覚える。
「綾香がどうか」
『先週の綾香さんの様子とか、憶えてますか』
「先週……は、別に、普通でしたが」
彼の息遣いは荒かった。『連絡をいただいたあと、何も報告がないので、状況は変わってないと思うんですが』と彼は言う。続いた言葉は、飛季には悪夢の通告に聞こえた。
『綾香さんが、金曜日の下校途中から行方不明で、まだ帰宅してないそうなんです』
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