陽炎の柩-57

いびつな微笑

 軆全体が、鈍重で意識も重たかった。背中には柔らかいベッドの感触があって、脳みそがふやけた頭は、ふかふかとまくらに沈んでいる。
 まぶたを押し上げると、すぐ左は壁に接していた。上部に質素な時計がかけられ、閉ざされた窓もある。エアコンの温風も額にそそいでいた。右手を見やるとドアがあり、床には起毛の白い絨毯が敷かれている。ほぼ正方形の部屋だ。
 実摘は狼狽えた。ここはどこだ。こんな場所は知らない。
 自分は飛季の部屋にいた。飛季が哀しくならないように、ちゃんと部屋で彼を待っていた。なのに、なぜこんなところにいるのか。
 起き上がろうとした。腹が腫れぼったい痛みを発した。ついで、こめかみもずきりとして、実摘はシーツに倒れてしまう。
 おとなしく、痛みが引くのを待った。おさまると、慎重に起き上がる。それでも傷みはまといついたが、激しくはなかった。
 頭はともかく、腹の痛みは身体的だ。実摘は腹の服をめくった。目を開いた。飛季の口づけの痕以外では白かったそこが、青黒く変色している。
 どう見ても殴られた痕──そうだ、と実摘はやっと記憶を掘り当てることができた。
 飛季の部屋にいた。飛季を想っていた。昼食を食べて、クローゼットに閉じこもった。鍵を開ける音がして、飛季が帰ってきたと思って出たら、伊勇が──。
 めくっていた服を戻した。そういえば、着ていた飛季の上着を剥ぎ取られている。
 伊勇に誘拐されたとなれば、ここは伊勇の部屋だろうか。いや、違う。伊勇のあの酒臭い汚れた部屋と違い、ここは清潔だ。しかし、伊勇に連れてこられたのは間違いない。
 伊勇。以前にもこんな拉致をされた。あのときも今も、あの男が実摘をさらう理由は──
 鳥肌と共に、実摘は事態を悟った。伊勇は奴隷だ。伊勇が実摘をさらうとしたら、命令に決まっている。ここは実富の縄張りだ。自分は実富に連れ去られてしまったのだ。
 ベッドを降りた。縛られていないのがさいわいだった。軆は重かったが、飛季と離れてしまうことには代えられなかった。実摘には飛季が要る。飛季が哀しむのは嫌だ。そばにいてあげなくてはならない。こんなところで、実富のおもちゃになっているヒマはないのだ。
 時計を見直すと、十一時──いや、おそらく二十三時だろう。とっくに飛季は部屋に帰っている頃だ。きっと、実摘がいなくて心配している。自分も帰らなくてはならない。
 こんな場所にはいられない。いたくもない。実摘はドアに飛びついた。
 ドアは室内にふたつあった。ひとつは近くで見て触れると、ぶあつくて、鍵もかかっていることに気づいた。たたくと、その音はこもった。かなり頑丈な証拠だ。
 あきらめて、もうひとつに行った。こちらはあっさり開いた。向こう側にあったのは、磨かれたクッションフロアの小部屋だ。左にふたつ、正面にひとつ、ドアがある。
 左から順に、開くかどうかを試していった。ひとつめのドアは鍵がかかっている。丈夫そうで蹴破れない。ふたつめは、芳香剤まで置かれた綺麗な洋式トイレだった。窓があったものの、人が通れる大きさではない。最後のドアにも鍵があった。このドアには、すりガラスが入っている。ガラスに顔を押しつぶしてみても、奥が何なのかは分からなかった。
 実摘は、素足がぺたぺたする床にうなだれ、元の部屋に戻った。無人のままだ。部屋をきょときょとして、次は窓に駆け寄った。
 カーテンを開けると、雨戸を閉められているのがあらわになる。その隙間にも光はなく、夜が更けているのが窺えた。
 上下式の鍵があったので、開けようと指をやり、眉を顰めた。その鍵は、針金でがちがちにロックをロックされていた。それでも実摘は、針金に爪を引っかけようとした。徒労に躍起になりはじめたときだった。
「やめなさい」
 びくっと、手が止まった。軆が無意識に硬直した。
 背後を強い気配が襲う。実摘の存在を踏みしだく、あの神々しい光が。
「無駄だから。そんなものより、こっちに来て」
 実摘は動けなかった。軆の奥がおののき、膝が崩れそうだった。窓の枠にぎゅっとつかまった。すぐ汗ですべりそうになる。
 目をつぶったとき、近づく足音がした。どうしよう、と考え、考えた隙に肩に手が乗った。実摘は息を飲んだ。
「こっちに来て、って言ったの」
 頭が真っ白になった。軆を返され、まぶたをつぶした。
 視線が刺さる。あの視線だ。透き通った、澄んだ、毒の瞳がこぼすおぞましい視線──。
 頬に手のひらが触れた。ふくらみを包みこむ愛情が伝わった。実摘はすくみあがった。含み笑いがした。
「どうして、目をつぶってるの?」
 しっとりした声だ。実摘には同じに聞こえなくとも、実摘以外の人間には宛然としているらしい。
「目を開けて」
 首を動かした。かぶりを振ろうとしたのだが、うまくいかなかった。鼓動がめちゃめちゃになっている。下手な早鐘に息はつづまり、血の気が引いていく。
 仕方なさそうなため息が聞こえた。まぶたに指を添えられ、優雅な手つきに反して、無理に眼球を剥かれた。実摘は思わず、その手を振りはらった。手首に、相手の手の熱が走る。
 白い絨毯と、自分の素足と、黒い靴下の足が視界に入った。まぶたで視覚を守る前に、素早く顎をつかまれた。顔を上げさせられ、実摘は目を開いた。
 そこには鏡があった。直後に、鏡ではない真実に愕然とした。引き攣る実摘の頬に、眼前の顔は微笑む。
 ──実富だった。
「久しぶり」
 脳が激しくまたたいた。実摘は後退ろうとした。後ろは壁だった。冷えこんだ喉に呼吸が凍り、息ができなくなる。
 実富はこちらに一歩近寄り、実摘の震える軆を抱き寄せた。実摘は彼女を押し返そうとした。筋肉が痙攣していて、できなかった。実富の顔が、うなじに埋まる。体温が移る。実富の甘い匂いに、実摘は吐き気と悪寒をもよおした。
「ねえ」
 陶然とした吐息が肌を這い、耳たぶを熱くかすめる。
 違う、と思った。違う。実摘が欲しいのは、こんなのではない。こんなか弱そうな軆なんか欲しくない。実摘が欲しいのは──
「会いたかった」
 飛季!
 実摘は、実富を乱暴に押しのけた。よろけた実富を誰かが支えた。そこで初めて、彼女の背後に人がいることを知った。
 実富をぞんざいにしたからか、ものすごい敵愾心をたぎらせてきたのは、伊勇だった。実摘は唇を噛み、彼を睨み返す。実富は伊勇の腕に手を置き、「ありがとう」と優雅に体勢を立て直した。
 実富にそそがれた伊勇の瞳には、崇敬が満ちていた。実摘には犬に見えた。
 背筋を伸ばした実富が、こちらに微笑んでくる。伊勇の鋭い眼にはやり返せるのに、実富のおっとりとした笑みには、実摘は萎縮してしまう。
「いい子にしてなきゃ、ダメでしょう」
 硬化した筋肉が、畏怖のあまり顫動していた。軆が圧縮されるような錯覚がした。頭が縮む。肩が狭い。足元が近づく。細胞が麻痺していく。
 実富は満足そうに微笑すると、伊勇をかえりみた。
「あなたはもういい」
「え」
「ひとりになりたいの。下がって」
 伊勇は後退した。実摘は、顔面に彼の嫉妬が刺さるのを感じた。バカだと思った。この女の本性を知らないのか。実摘がこの悪魔に、何度惨殺されてきたことか。
 そうだ、また殺される。なくなって消えてしまう。自分が何なのか分からなくなる。
 動悸が壊れていく。脳は記憶に発光しかけ、死んだ細胞には懾服が増殖していく。
「そうだ」
 実富の声に、伊勇は足を止めて振り返った。実富は彼ににっこりとした。
「言ってなかったよね。この子を見つけてくれて、ありがとう」
 実摘は手を握りしめた。ただよう空気が毒になったように、すべて苦しい。胸元が黒く塗りつぶされていく。暴れる心臓は窮屈だ。
 怖かった。死ぬほど怖かった。
 遠くにドアが閉まった音がした。室内にいよいよ不純物はなくなる。実摘は実富の視線を浴びた。
『いい子にして』
 記憶がぎしぎしいった。はらいおとしたくても、頭も振れない。
『あなたは私のものだから』
 幻聴に耳を犯される。
『あなたに、自分自身を持つ資格はない』
 実摘は呼吸を荒げた。
『消えて。あなたは私』
 頭が痛い。耳鳴りがする。
『あなたなんかいない』
 唇に指が触れた。実摘は顔を上げた。
 自分にそっくりの顔がある。
 鏡か。幻か。夢なのか。いや──
 実富は上品に微笑んだ。
 現実だ!
「分かってる」
 実富のしなやかな指が、頬をなぞった。実摘の自意識は、ぶちぶちと切断される。
「あんな人と一緒にいたんだもんね。安心して。私が元通りのいい子に戻してあげる」
 実富の愛撫には、情愛があった。その手つきは透明だ。肌をすべる手に、実摘は鳥肌を立てる。この手は実摘の肌を這いながら、実摘の肌をなぞっていない。
 実富はこちらに目を向けた。見ているのに見ていない。実富はそこに、実摘ではなく自分を見ている。
「大丈夫」
 実富は淑やかに一笑した。
「先生のことは、私が忘れさせてあげる」
 先生?
 混乱した。先生、って誰。先生。実富の先生。実富は自分だ。先生。自分にはそんな人はいない。
 笑い声がする。頭がぐらぐらした。体内から自尊心が排出されていく。築きあげた自己が削げていく。
 怖い。いや、怖くない。何も感じない。
 壊れていく。消えていく。そして、この細胞は自分でなくなって──
『実摘……』
 実摘は、はっとした。心が跳ねた。
 実摘。そう、実摘だ。自分は実摘だ。実富じゃない。そう気づくと、流出しかけていた自我をつかむことができた。
 ダメだ。失くさない。失くしてはならない。実摘は、実摘でいなくてはならない。そうでないと困る人がいる。実摘のまま。自分は実富ではない。
 実摘がいい、と言ってくれた。実摘のそばがいいと。実摘を愛していると。でも、誰が──
 唇をふさがれた。口の中に、熱いぬめぬめが侵入してきた。実富だ。実摘は怖くなった。その感情に、ちょっとほっとした。恐怖は“実摘”が残っている証だ。
 いつのまにか、実摘は実富の腕に抱きこまれいた。もがいた。実富は腕に力をこめた。そして、深く口づけてくる。唾液の味と香りが喉に伸びる。実富はむさぼる。舌を絡め、歯形を確かめ、身勝手で、こちらの息を苦しませる口づけをする。
 実富は実摘など構わない。彼女は実摘でなく自分自身の唇をすすっているのだ。彼女には、実摘の苦痛は無でしかない。意思を殺した実摘を媒体に、実富は自分自身に愛を捧げている。
 実摘の搏動は、再び乱れはじめた。実摘。自分の名前を、心で何度も叫んだ。
 そうだ。自分は実摘だ。実富じゃない。実摘なのだ。実富のおもちゃでもない。飛季の恋人だ。
 飛季……?
 ──飛季!
 実摘はつながった重要な思考回路に、目を開いた。飛季だ。そう、飛季がいる。自分には飛季という恋人がいる。そうだった。実摘には、飛季という大切な存在価値がある。
 実富が唇を離した。唾液が太く糸を引いた。実富の瞳は、陶酔に泳いでいた。飛季によってやわらぎかけた心臓は、簡単に居すくまる。実富は、ひとつの顔に欲望と理性を混在させながらささやいた。
「綺麗……」
 実摘は慄然とした。実富は実摘の頬を手でおおって支え、じっくりと実摘の顔を見つめた。実摘の顔で自分自身を見つめた。実富の吐息は恍惚に震えている。
「すごく綺麗」
 全身を締めつける恐怖に、実摘は動けなくなる。実富の瞳はねじれている。幾重にもかさなり現実をゆがませた鏡の瞳に、もう彼女には本気で実摘は実富だ。自慰行為のため、細胞がかたちづくった、自分自身だ。
「ほんとにいい子」
 実富は、痺れたような忘我した笑いをもらした。実富の潤む瞳に実摘がいる。怯える実摘が見せる実富。しかし、彼女の視覚は怯えるさまは知覚しない。彼女には、視覚は現実ではない。
 実富は、唾液のしたたる唇を舐めた。
「服、脱げるよね?」

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