陽炎の柩-6

砂のおばけ

 翌朝、ごそごそと何か引っかきまわす物音で目が覚めた。何だ、とまくらに伏せっていた潤びた頭を上げる。目をこすって部屋を見まわし、飛季は動きを止めた。
 フローリング一面に、服が散らかっていて──クローゼットの前で、小柄な背中が座りこんでいる。
 泥棒、ととっさに思った。いや、違う。昨日、自分にまといついてきていたあの少女を、この部屋に泊めたのだ。
「ちょっ……君、何、」
 ろれつのまわっていない飛季に、彼女は首を捻じってくる。下半身に、昨日貸したタオルを巻きつけている。
「何で、俺の服、」
「着替えるの」
「え」
「濡れたの」
「だって昨日、」
「夢見たの」
「は?」
「だから始まったの」
 始まった──。彼女が横たわっていた部屋の隅には、夕べ貸したジーンズと下着が放られている。その下着が、赤い。
「あ」と口の中でもらし、その理由に思わず狼狽える。白いナプキンをかたわらに置く彼女は、なおもクローゼットの中の棚を探ろうとする。
 飛季はふやける頭の眠気をはらって、彼女に歩み寄った。散らかる服を拾い集め、「この服は気に入らないの?」と問うと、彼女は首をかしげる。
「分かんない」
「は?」
 昨日から、何回こう訊き返したか分からない。
「着てもいいの?」
 右手の服に目を落とす。飛季は左のこめかみを揉んで、常識を捨ててみた。彼女の視点に添って、短絡的な解釈をしてみる。これは、どうも─―着てもよさそうな服を探している、彼女なりの遠慮なのか。
 飛季は持っている服を確かめ、下着とパンツをさしだした。
「着ていいよ」
 彼女はそれを見て、飛季を仰ぐ。
「それね、お洗濯した匂いがしたの」
「いいよ。あの──別に、何着てもいいよ。ワイシャツとスラックス以外なら。ただ、今度からは散らかさないでくれる?」
 今度などないだろうが、そう言っておく。
 こくんとした彼女は服を受け取り、躊躇いなくタオルを剥ぎ取った。彼女の陰毛が視界に入りかけ、飛季は慌てて後ろに下がる。
 彼女は飛季を振り向く。飛季の動揺した面持ちに、彼女は口を開けて、楽しげに笑い出した。返り血を浴びるような哄笑は、たっぷり十秒間ぐらい続いた。そして、ぴたっと無表情に戻る。彼女は、のろのろと下半身を布で包んでいく。
 飛季は動けず、彼女がトランクスにナプキンをくっつけ、柔らかそうな尻が包まれていくのを視界に入るのを許してしまった。
 やっぱりこの子は、どこか頭がおかしい。
「おにいさん」
「えっ」
 ぶかぶかのパンツの腰まわりを引っ張りつつ、彼女は飛季を見つめる。その瞳は分裂していた。
「お腹空いた」
「……はあ」
 何なんだよ、とまた独白したい衝動に駆られつつ、飛季はさっさと朝の習慣を済ました。
 飛季がバスルームにいるあいだに、彼女はベッドサイドに腰かけて、リュックを抱いていた。神経質に左肩を隠している彼女に、あの傷が思い返る。
 冷蔵庫にあったもので簡単な朝食を作った。トーストとスクランブルエッグ、インスタントのスープ。ミニテーブルに並べると、彼女はリュックを連れてやってくる。
 床にぺたりと座った彼女は、スープの入ったコーヒーカップを取る。飛季は彼女の正面に腰を下ろし、フォークでスクランブルエッグをすくう。ちなみに、スプーンは彼女の皿に添えた。
 沈黙が流れた。
 自分が何をしているのか、よく分からなかった。普段のあの無感覚ではなく、今、自分がしていることが本当に不可解だ。見ず知らずの子供を部屋に連れこみ、ひと晩過ごし、朝食を作って。この子の親に見つかったら、訴えられてもおかしくない。
 ぽろぽろとクズをこぼしてトーストを食べていた彼女が、こちらを見つめているのに気づく。「何?」と問うと、彼女はまばたきをする。女の子なら誰もが羨みそうに、その睫毛は長くくるんとしている。
「行く」
「え」
「仕事」
「………、は?」
「今日」
 断片的な言葉をモンタージュして、今日は仕事に行かないのか、という質問かと推測する。
「休みだよ」
 彼女はうなずき、トーストを食べる。口を離さず、もぞもぞと蝕むように食べている。
「先生」
「えっ」
「何で」
「……何」
「楽しい」
 彼女はこちらに上目をしている。先生。何で。楽しい。再び、モンタージュ作業をする。なぜ家庭教師をしているのか、楽しいのか、という質問に行き着く。
 答えられなかった。うつむき、きつね色のトーストを見つめる。だんまりになった飛季の心情を察したのか、彼女は返答を求める視線を消した。もう何も言わず、飛季も黙って朝食を進めた。
 朝食が終わると、彼女は床に転がった。出ていく様子はない。リュックの蓋を開け、中にぼそぼそと話しかけている。ときどき咲ったりするので、何かいるのかと本気で思う。
 そんな彼女を横目に、飛季は食器を片づけたり、脱ぎっぱなしの服を洗濯籠に放ったりした。
 下着には確かに血がこびりついていて、何とも言えない気持ちで水洗いした。自然現象だと分かっていても、何も、他人の下着を着けているときに始まらなくても──。
 部屋に戻ると、彼女は窓際に座りこんでいた。今日はよく晴れていて、レースカーテンに漉された光の粒子が、彼女の顔を照らしている。
 物思いにふけっているらしい彼女の瞳は、重たく虚ろだった。白い肌は、光に当ててはならないような秘めやかな艶をたたえている。彼女がうつむくと、栗色の髪がさらりと揺れる。うなだれた彼女は、とても小さく感じられた。
 突っ立って見蕩れかけていると、突然、彼女がこちらを向いた。飛季はどぎまぎと身を硬くする。
「僕、砂のおばけなの」
「え」
「まぶしいとね、さらさらって消えちゃうの」
 飛季が何も返せずにいると、彼女は首を垂れた。飛季は彼女に近づき、カーテンを閉めてやった。彼女は飛季を見上げる。飛季は部屋の中に行くのをうながした。
 彼女はベッドの脇に這っていった。飛季は彼女の隣に腰を下ろした。彼女は膝を抱え、リュックを強く抱きしめる。飛季の盗視に気づくと、眉を寄せて見つめ返してくる。飛季は目をそらし、伸ばした脚の上で両手を握った。
「悪いことなのかもしれないけど」
 彼女は自分の膝に頬を乗せ、飛季の顔を覗きこんでくる。
「君、家は?」
 聞いているのかいないのか、彼女は飛季の顔を観察している。
「このへんの子? いくつ?」
「十二」
 急に答えられたのと、予想外の幼さに彼女を凝視した。
「………、小学生?」
 彼女はかぶりを振り、リュックに顔を埋めて唸った。
「十二歳で止まってるの」
「止まってる」
「三年ぐらい止まってるよ」
 三年、というと、十五ということか。何だ、と息をつきそうになったが、未成年に変わりはない。
「止まってるって」
「死んだの」
「は?」
「僕、僕じゃなくなったの。最初から違ったんだけど、もっとそうなった。終わったの」
 飛季は口ごもる。よく──いや、ぜんぜん分からなかった。
「名前は」
「忘れた」
 あんまりな回答に唖然としていると、彼女はリュックを開けて中に頭を突っこむ。もごもご言っている彼女に、ため息が出た。
 この子はどこかおかしい。さらにその所感を強くしていると、彼女は頭を引き抜いた。
「みつみ」
「え」
実摘みつみだって」
「………、あ、名前」
 彼女はこくんとする。
「じゃあ、家は」
「ない」
 両断な即答に、言葉に詰まりかける。
「親、は。家族とか」
「いらない」
 いらない──。
 家出、だろうか。普通、十五歳の子供に、帰る場所がないわけがない。
 実摘はリュックを抱きこみ、床に転がってうずくまった。周囲の空気と自分の空気を分離させ、かけはなれた空気を強める。悪い線に触れてしまったようだ。謝ったけれど、無反応だった。
 床に流れた栗色の髪が、南中に届こうとしている陽の光にさらされる。砂のおばけ。ブランケットをかけてあげたくなったけれど、彼女の背中は他者の気配を拒絶していた。
 この子が心を病んでいるのは、精神科医でなくても分かる。あの大きな肩の傷口は、精神的どころか、肉体的にも彼女が平和ではなかったことを物語っている。
 そっとしておくことにした。痛々しい殻を尊重したのもあったし、引っかきまわしてもどうにもしてやれないのもあった。

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