陽炎の柩-61

欠け落ちる理性

 数ヶ月来なかっただけで、すっかり感覚が凡人に還っていた。
 けばけばしいネオンはまばゆく、入り混じる匂いにむせそうになる。話し声や音楽が染みる熱気に、冷たかった鼓膜や肌は、何だかかしこまる。派手に着飾った少年少女がすれちがっていく。人いきれで、この真冬に吐く息が白く染まらない。
 夜が更けるほど、季節感を失くしていくこの街は、今が冬だと忘れそうだ。不安に尻込みしかけながらも、部屋に帰るつもりはなかった。
 この街は危険でも、なじんで目立たなければ、他人に無関心だ。大丈夫だ、と飛季は自分に言い聞かせ、歩調を保つ。
 年が明け、新年がやってきた。飛季は、雑煮や汁粉を作って、部屋で実摘を待っている──という事態にはおちいっていなかった。
 実摘があの部屋に帰ってくる可能性は、おそらく低い。飛季はついにそこを認めた。そして、自分で動くしかないと判断した。
 実摘は譲れなかった。彼女のためなら、暗く地味に生きるという信念も曲げられた。
 かくして飛季は、この街にやってきた。ここで何をどうするのか、よく分かっていない。街を歩き、実摘がいそうなところはどこかと、一応考えてみる。やはり、連れていかれていた店のあたりか。ほかは浮かばない自分に情けなくなりながらも、飛季はそこに向かうことにした。
 人を縫って歩いていると、この空気も思い出してきた。慣れると、ますます部屋に帰るのが億劫になる。
 この街で実摘が見つからなかったら、次はどうするのか。そんなことを考えつつも、正直なところ、飛季がこの街に踏み出せた理由は、実摘捜しではなかった。
 部屋にいるのが苦痛になったからだ。捜しにきたなんて、綺麗ごとだ。鬱蒼としたどんづまりを逃げだしたくなって、ここに来た。ひとりでうずくまっているのは、もう耐えられなかった。
 実摘を待つばかりで、うじうじしている自己嫌悪もあったし、実摘がいなくなった事実を突きつけられるのも嫌だった。実摘が欠けて、その欠落を鬱屈で埋めている空間にいたくなかった。
 あの部屋にいると滅入る。実摘の不在が身に染み、飛季は幻覚を生み出してしまう。幻視や幻聴にのめりこみかけ、はっとして幻だと気づくと、ひどい疲労感に襲われる。
 実摘という存在をもがれて広くなった部屋は、飛季を孤独でさいなんだ。たまらなかった。部屋を離れたら、それらが薄らいで気が紛れるのは確かだった。
 ひとりでいるのが安らかだったくせに、現在の飛季は、誰もいない場所が怖かった。ひとりでいると、心はそれを孤独に変換する。人がいる場所にいたかった。
 それで候補にあがり、最終的に選んだのが、実摘がひそんでいるかもしれないこの街だった。
 この街は、熱気はあっても活気がない。今の飛季には、ちょうどよかった。生気のなさが心地いい。この街の狂乱には、終わってしまい、腐っていくだけになった、一種の気楽な優しさがある。
 実摘を捜そうとは思う。思う、けれど、どうすればいいのかは分からない。どこかの店に行って、さりげなく実摘──ミミを見かけなかったかと訊くくらいなら、害はないだろうか。まずは、そのへんからやってみるしかない。
 飛季は、人混みを泳いで息をつく。それでも、何となく気づいている。実摘はこの街にいない。なのに、なぜここに来るのか、飛季にもよく分からなかった。
 実摘の幻影でも求めにきたのか。かもしれない。実摘に会いたいと思う。だが、もう会えない気もしている。
 壮絶な過去を残して、実摘は蒸発した。都合がよすぎる。実摘はただ、みずからの地下室にこもっていた飛季を、衝撃で引きずり出した夢だったのではないか。
 実摘の感触や匂いが遠かった。だから、いますぐ欲しかった。その欲望が、潤いを失わせる。実摘が乾燥するほど、実は彼女は内なる自慰の産物だったのではと懐疑する。
 実摘へ捧げる愛情は確実でも、それも夢想への不毛な愛ではと考える。消える直前に過去を語られたのも、あんまりよくなかった。実摘がそばにいないと、どうもあの狂気じみた話には、現実味が欠けてくる。ますます、実摘に実体がなくなる。
 しかし、そこに実富というふたごの妹を持ってくる。皮肉にも、彼女が、実摘を苦しめた狂人が、実摘はいたと現実的な確信を持たせた。
 飛季の頭の中は、現実と非現実が交錯していた。こんな混乱は、かつてなかった。
 実摘と再会するのは不可能だ。それはかろうじてつかんだ、ひとまずの答えだ。
 自分は弱い、と思う。意気地なしだ。実摘に依存されることに依存していた。
 だが、仕方ないのではないか。飛季は実摘に全霊をかけ、ほかには絶望していた。そんな存在を乱暴に奪われたら、誰だって茫然とする。飛季は実摘を信じ、すべて預けていた。実摘が消えることは、飛季が消えることにつながる。
 ゆいいつ残ったのは、彼女を信じさせた愛情だ。実摘を失くして、その想いは、甘い陶酔感ではなく拷問の虚しさを放っている。
 実摘が欲しかった。この想いをどうにかしたかった。実摘にまた会えるとも思えないのに、欲しくてたまらない。あの栗色の髪を撫で、温柔な軆を抱きしめ、壊れそうに犯したかった。頭が変になりそうだ。もうダメだと絶望すればするほど、実摘が欲しい。
 脚に任せている自分に気づいた。迷子、という二文字がよぎった。顔を上げて、杞憂だと悟る。そこは、実摘によく置き去りにされた通りだった。
 飛季はあたりを見まわした。実摘はいなかった。無論、四顧で足りる短い通りでもない。飛季は歩いた。
 実摘がいるとしたらどこか。店で男をあさっているのか。
 飛季は、実摘の話を思い出した。夢に出てくる男の話だ。
 実摘は、彼を捜すために男を渡り歩いていた。やっと見つけた、飛季だった、と実摘は言った。ならば、実摘には男をふらつく理由もない。
 飛季は首を垂れる。またもや、実摘がこんな街にはいない可能性を発見してしまった。
 それでも飛季は、適当な店に入った。地下に降りる廊下では、かわいい少女にも美しい女にも目配せされた。飛季はぎこちなく避けていく。
 目の前に扉がある。その扉を、息を吐いて開けた。
 数ヵ月ぶりの光景が、視界に飛びこむ。人があふれかえっていた。跳ねる音楽が染みこむ空気には、独特の匂いがした。
 刺さってきたいくつかの視線も感じた。飛季はどれにも目を上げずにいた。自分が欲しいのは実摘だ。
 後退りはせず、金をはらうと脚を踏み出す。混み合う人をかきわけていく。
 実摘を想った。ここには、たくさん女がいる。実摘はいないだろうか。こんなにいると、あの小さい軆も混じっていそうに感じる。公然で腰をこすりつけあい、フェラチオまで始める輩を横目に、飛季は壁際を行く。
 中央に混じり、音楽と共に踊り狂う気はなかったが、ここにいるのは悪くなかった。あの部屋よりはいい。ひとりじゃない。話し声がして鬱に集中しなくていいし、シーツの冷たい匂いに顔を埋めなくていい。
 あの静かな部屋にいると、虚しさが限界になった。騒々しいほうが気分も紛れて、少し楽になれる。飛季は壁にもたれ、漫然と乱痴気騒ぎを眺めた。
 自分はここでどうするのか。何を埋めるのか。いや、実摘だ。飛季は実摘がいないのが我慢できないのだ。
 そう、ひとりは嫌だ。床で水たまりみたいになっているのも嫌だ。毎晩腕が空っぽなのも嫌だ。あんな虚しさはない。
 飛季には、実摘が必要なのだ。実摘を捜さなくてはならない。あの子がいないと、発狂してしまう。実摘を埋める。虚しさを埋める。でも、どうやって──
 突然、胸に熱っぽい軆がしなだれてきた。どきりと目を下げた。至近距離に、濡れきった異様なきらめきの瞳があった。その輝きは、明らかに薬物の効果だ。
 暗がりに目を凝らすと、中学生ぐらいの少女がいた。知らない顔だ。小柄な軆で飛季に体重をかけている。
「何……?」
 飛季は間の抜けた声で言った。彼女はにやにやとして、軆をこすりつけてきた。
「いくら?」
 騒音を縫って声がする。この少女の声らしかった。
「何が」
「あんた」
「俺?」
 飛季が把握できずにいると、「あんただったら金出してもいいよ」と彼女は言う。
 飛季は困惑した。金。少女が男に。そんな価値が自分のどこにあるのか。飛季は実摘がくれた褒め言葉しか信じられない。金が絡むのも面倒だ。とりあえず、かぶりを振った。
 彼女は一瞬つまらなさそうにして、ならば誘惑しようという魂胆か、ジーンズの上から飛季の股間を撫でた。飛季は腰を引いた。
「嫌?」
 飛季は口ごもる。彼女を見た。美少女ではなくも、ブスではない。好みではない。抱きたいとも思わない。もともと、そんな気分ではない。
 押しのけようかと思ったとき、ふと空中を踊る光が彼女を通った。途端、飛季は目を開いた。彼女の髪は、栗色だった。
「髪……」
 無意識にかすれた声が出た。飛季の筋肉質な胸を探っていた彼女は、上目遣いをした。「髪?」と彼女は眉を寄せる。
「その髪、染めてる?」
 飛季のうわずる声に怪訝そうにしつつ、彼女は自分の髪を引っ張り、「別に」と彼女は答えた。
「ああ、でも、よく訊かれる。地毛だよ。色味、綺麗でしょ」
 飛季はうなずいた。その髪に触れた。彼女は受け入れる。撫でてみた。実摘ほど、なめらかで潤ってはいなかった。ぱさついて荒れている。
 しかし、色は悪くない。栗色だ。実摘のような明るい栗色ではなくても、飛季のように真っ黒でもない。飛季は彼女の髪を見つめた。
「髪フェチなの?」
 不審そうに問われ、飛季は慌てて首を横に振る。手も離した。うつむいて恥じ入る飛季に、彼女は再度にやにやした。
「やり手の顔と、やらしい軆してるくせに、うぶなんだね」
 彼女はささやき、背伸びして飛季に口づけた。飛季は抵抗しなかった。首に彼女の細い腕がまわる。
 飛季は眼前をちらつく栗色に目を剥き、心を奪われていた。栗色。実摘。実摘の髪だ。何度も愛撫し、口づけたあの髪だ。ここに実摘の欠片がある。あの大切な女の子が宿っている。
 飛季は急に欲情した。彼女が欲しくなった。彼女が実摘を埋める気がした。受容の印に、飛季は彼女の腰に腕をまわす。
 口づけが深くなった。飛季は、彼女の舌に舌を絡め返した。彼女が喉で笑ったのが聞こえた。飛季と彼女は、唇と舌をむさぼりあう。
 彼女は飛季の腰に、ミニスカート越しの腰を押しつける。飛季は勃起していた。髪を見つめながら、勃起していた。
 唇を離すと、唾液が伸びる。彼女は唇を舐めた。飛季がぼんやりしていると、こちらの唇も舐めて唾液をぬぐう。
 ジーンズの下で苦しむ飛季の性器を、彼女はあおる手つきで撫であげた。飛季は息を吐いた。彼女は、飛季の性器をジッパーを下ろして解放した。尻ポケットを探りながら、うやうやしくひざまずく。ポケットから出したものを口に含むと、彼女はあらわにした飛季の性器を、一気に飲みこむ。
 脈打ちに熱い粘液が絡みつき、飛季は唇を噛む。彼女の歯がさりげなくコンドームをかぶせた。彼女は飛季の性器を喉までふくむ。
 舐める舌、甘咬む歯、吸いこむ喉、揺り動かす頭。飛季は、下肢に集まる熱に息を荒くした。巡る血液がそこを腫れ上がらせ、動悸が高まる。頭の揺すりに合わせて、彼女の栗色の髪が揺れている。
 飛季をそれを凝視した。快感に切なさが混じる。軆を重ねるのに焦って、あまり回数はないけれど、実摘は飛季の性器を口で愛撫するのが好きだった。
 飛季を食べるのはおいしい、と実摘は言った。はにかんで咲い返すと、実摘も咲って飛季の欲望に口づける。飛季は実摘の頭を撫でた。実摘の舌が這うと、飛季は素直に育って貪欲になる。
 実摘は顔を離してそれを眺め、何だかにこにこした。「何?」と飛季が照れ隠しに訊くと、「おっきいの」と実摘は言った。
「そう、かな」
「うん。これね、飛季の気持ちでしょ」
「え」
「飛季が僕のこと好きだから、ぱんぱんにおっきくなるの」
「ん、まあ」
 実摘は嬉笑して、先走っている先端を撫でた。飛季は不覚にうめく。いっぱいになった飛季の性器に、実摘は頬擦りをする。
「これ、飛季の気持ちだよ。おっきいね」
 彼女が愛おしくなった。飛季は懇願したいのをこらえ、実摘の栗色の髪を梳いた。実摘は上目をし、飛季が苦しんでいるのを知ると、急いで口にふくんでくれた。
 実摘はかなりうまい。飛季が爆ぜると、精液もあまさず飲んだ。「にがい」と彼女はときどきつぶやいた。飛季が謝ると、実摘は首を横に振り、抱きついてきて一緒にベッドに倒れこむ。
 ふたりは愛しあった。終わると、にらとふとんに包まった。実摘が眠りにつくまで、飛季は彼女の髪を撫でていた。さらさらした、綺麗な栗色の髪──

第六十二章へ

error: