心をつなぐ想い
昨夜泣きすぎたせいで、まくらにカビが生えていた。
頭はずきずきするし、目も腫れぼったい。実富は取り換えのまくらを持参してきた伊勇と部屋を出ていって、実摘は広い部屋にひとりだった。ベッドに横たわり、鼻をすすって小さく息をついている。
昨夜、実摘は実富のおもちゃになったあと、ベッドに伏せって積もる心身の苦痛に嗚咽をもらしていた。実富はその背中を慰撫して、そのかたわら、実摘の耳元に甘い声で誹謗を垂らした。
実富の言葉の羅列は、すっと刺しこめるナイフというより、じっくりとえぐっていくへらのようだ。実富に触られる嫌悪と、しっとりした暴言に、実摘は長らく泣きやめなかった。実富が実摘の痙攣に飽きて眠り、やっとぐずぐずと泣きやんだ。
何十分間か死に物狂いで脳を回転させ、かろうじて飛季の名前を見つけると、不快感は落ち着いた。実富は眠っているし、実摘は飛季をたっぷり想う。
すると、また泣けてきた。こちらは大切だから、ともなう痛みも受け入れられた。飛季の残像は、生身ではなくなっている。とはいえ、実摘は彼への想いに胸を疼かせて、泣きながら何とか眠った。
そして今朝、まくらのカビを発見した実富は、肩をすくめていた。
「先生の夢でも見たの」
実摘はかぶりを振った。本当だった。それぐらい見てもいいのに、見れなくなってきている。心に映す飛季のすがたの輪郭も、ぼやけてきている。
「先生ね、元気そうだよ」
実摘は実富に顔を上げた。
「飛季に会ったの」
実富は笑顔を作った。実摘は彼女に激しく嫉妬した。
「会ったの。ダメだよ。飛季は僕のだよ。あげないよ」
「いらないよ。私は会ってない。家にも帰ってないもの」
実摘は首を垂れ、嫉妬を鎮火させた。
「ちょっとね、知り合いに聞いたの。前と変わらないって。あなたがいた頃とね」
実摘はほっとした。飛季。そうか。元気なのか。よかった。飛季を優先した心理で、実摘が安らいだところを、実富はにっこりと踏み躙った。
「あなたがいなくても、先生は平気ってことだよね」
「えっ」
「だって、そうでしょう。あなたが大切だったら、いなくなって平然としていられるわけない。あなたみたいにね」
実摘は、実富を見た。実富は咲っている。実摘は目を彷徨わせた。
実富にしては、正論だった。飛季は元気にしている。それを受けると、実摘がいなくても平気だ、という解釈は難なく成り立つ。
「で、でも、まだ」
「まだ?」
「まだ、そんなに時間が」
実富はくすくすとして、携帯電話を手の中でもてあそぶ。
「そんなに経ってないから耐えてるってこと? 二月に入ってだいぶ経ってる。あなたと先生が離れて、二ヵ月かな。ほら」
実富は携帯電話をさしだした。二月十四日。最後に飛季の部屋にいたのは、すくなくとも十二月だった。
思いがけない現実に、実摘は茫然とした。そんなに経っていたのか。知らなかった。クリスマスも正月も、とっくに過ぎている。飛季と過ごす約束も、そっくり破ってしまった。
実摘が消沈するさまを見届け、実富は満ち足りた顔になる。
「分かるでしょう。先生に執着してるのは、あなたのひとりよがりなの。先生はきっと、あなたがいなくなってせいせいしてる。だから、元気なの」
実摘は苦しくなった。何を言われるよりもこたえた。飛季に自分は必要ない。それほど恐ろしいすりこみはない。
「先生も気づいたんだね。あなたが『いない』ことに」
「飛季は、」
「先生は、あなたを何とも想ってない。勝手にぼろぼろになってるのは、あなただけ。先生は、あなたがいなくたって生きていける」
実摘は喘いで、ベッドに伏せった。実富は、実摘の痩せ細った背骨をさする。
「先生のためにも、いい子になって消えようね。先生にも、しょせんあなたは見えてなかったの」
実摘はわなないた。実富は実摘を愛撫しながら、メールを打った。
丸まる実摘におおいかぶさった実富は、物柔らかな詛詈をささやく。実摘は弱々しくかぶりを振った。その力のなさは、本音では信じられていない証拠で、実富は満足そうだった。
伊勇が来ると、実富は実摘の耳たぶを舐めて、透明な空気を刹那強く発散し、まくらを取り換えて部屋を出ていった。
実摘は泣いていた。飛季に自分は必要ない。そうなのか。ひどい。こちらはボロ切れ同然になっているのに、飛季は変わりないなんて。一緒に苦しんでいると信じていた。嘘つきだ。裏切りだ。あの冷たい仮面で、みんなのことを騙して──
ここで、実摘ははたとした。仮面。そうだ。飛季は仮面をかぶる。
実富の知り合いとやらが、どうやって飛季を観察したかは知らないが、まさか接触して飛季の生活に忍びこんでいる存在ではないだろう。仮によく接する相手でも、飛季は他人にあっさり心を開くことなんてない。だからたぶん、変わりない飛季の様子は、偽られた飛季だ。
本物の飛季は分からない。部屋に帰ったら、ひとりで苦しんでいるかもしれない。そういえば、実摘には実富が飛季を非難するのも理解できなかったが、よく考えたら、彼女は仮面をかぶった飛季しか知らない。報告されたのも、実富が貶しているのも、偽物の飛季のことなのだ。
飛季も言ってくれたではないか。実摘だけには本物をさらせると。つまり、実摘以外は偽物の顔をして心から締め出している。はたから見て元気なら、本心は逆だとしても過言ではない。
飛季は元気じゃないかもしれない。みんなの前の飛季こそ、嘘つきだ。部屋での飛季は、孤独にのたうっている。実摘の不在を哀しんでいる。仮面が崩れていないのは、やっぱり頑張って耐えているからだ。
飛季は苦しい。実摘と同じように。飛季には実摘が必要だ。飛季自身、そう言ってくれた。実富の言葉など信じてどうする? 実摘は飛季を信じる。
想到した実摘は、安息を得た。大丈夫だ。実摘はきちんと飛季を信じられる。愛している。そして、飛季も実摘を愛している。
ベッドにうつぶせになり、新しいまくらに頬を乗せた。いろいろ思っていて、ちょっと自分を立て直せた。腰や全身の痣は痛んでも、心が元気だとマシだった。
実摘は、回復した心で飛季を想った。飛季を心地よく想えるのは、この地獄では救いだ。
しかし、飛季と離れて二ヵ月なのか。予想外の時間の流れはショックだった。彼との数々の約束を破ったのが心苦しい。あの部屋に帰れたら、いっぺんにやりたい。ケーキを食べて、雑煮を食べて、汁粉も食べる。何より、ずっと一緒にいる。
帰れたら、飛季の胸で眠りたい。離れずにそばにいる。実摘がそばにいたら、飛季は喜んでくれる。飛季が喜ぶのは実摘も嬉しい。あの部屋に帰ったら、実摘は飛季をいっぱい味わって、ずっと一緒になろうと思う。
飛季を想っていると、あんがい早く実富が帰ってきた。実摘の気持ちは暗転した。実富は着替えを抱えている。
実摘の精神の濁りが取れているのを見取った実富は、短く冷めた目をした。実摘は反射的にこわばった。実富は何もせず、風呂に入るのを命じてくる。
実摘はベッドを降りようとしたが、骨と分離しそうな軆が重くて力が入らない。実富は仕方なさそうに歩み寄ってきて、実摘を抱き起こそうとした。
「いいよ」と慌てて言うと、実富は「遠慮しないで」と実摘を抱いた。彼女には、実摘が自発的に動けないのはいいことなのだ。彼女の澄んだ肌や息が触れ、実摘は鳥肌を立てた。もがいたけれど、ほぼ無力だった。実富は特に抑えつける所作もせず、ベッドからおろした実摘を引きずっていく。
「最近、考えるの」
彼女の腕の中で、実摘は上目をした。実富は微笑した。
「私、ずっとこの部屋にいたほうがいい?」
「えっ」
「あなたは、思ってたより、ずっと悪い子になってる。私がいつもそばについていてあげないと、どうにもならないみたい」
実摘は目を剥いた。実富は愉しげに咲った。おろおろしているうちに、クッションフロアの小部屋に連れこまれた。ここには、着替えを入れておくかごや、まっさらなタオルがある。
狼狽える実摘に、実富は愉快そうだ。実富が始終そばにいる。実摘は泣きそうになった。そんなのは嫌だ。実富は実摘の泣き面に窃笑している。
実摘の自律を奪うことにかけて、実富は天才的だった。実摘はあっという間に、彼女の提案に心をかきみだされて動けなくなった。
実富は、実摘に澄んだ口づけをする。離れた顔は、毒の瞳だった。実富は実摘の服に手をかけ、「検討しておくね」と口元を笑ませる。実摘は自意識を破壊され、虚空の混沌に突き落とされる。
それでも実摘は、飛季を想い、落とし穴を振りはらった。頭が壊れそうだ。でも、飛季ともう一度会うためには、壊れてはならない。飛季への依存を糧に、実摘は実富の光の影に制圧されるのをからがら逃れつづけた。
飛季とは絶対に会える。実摘はそう思っている。どう会うのは分からないが、会える。自分と飛季だ。ふたりでひとつだ。この信念は失くしてはならない。
甘さを抜きにしても、飛季は実摘の要になっていた。実富に犯され、罵られるほど、実摘は後悔や不安や猜疑に押し流されそうになる。
そもそも逃げなければよかったのか。自分は実富のおもちゃだ。誰の目にも映ることができない。
その渦中に身投げしたほうが、たぶん楽なのだろう。死んで麻痺して、何も分からなくなる。
しかし、実摘はそうなるわけにはいかなかった。実摘が実摘でなくなったら、飛季が哀しむ。飛季だって、自分をさらせる実摘を大事にしていた。実摘を失ったら、飛季はひとりぼっちになる。
彼が実摘にそそいでいた安堵と幸福が調和した視線に、実摘は自害を踏みとどまれた。実摘にはしなくてはならないことがいっぱいある。飛季に会って、抱きしめてもらって、今度こそずっと一緒にいると伝え、彼が咲ってくれるのを見る。
実摘は、飛季をひたすら想った。すりきれそうに脳を回想にまわし、心を銀幕にした。
飛季を想って心に血がかようと、実摘は泣いた。良い涙だった。飛季に入れ込んでいる証拠だ。飛季を想っても泣けなくなったら、彼をあきらめたという実摘のおしまいを意味する。
だから、実富は実摘のその涙を憎んだ。実摘が泣いていて、それが飛季への想いの疼きだと感づくと、彼女は実摘を殴りつけた。
腫れあがる頬は、何も感じられなくなっていた。血の味にも慣れた。実摘はうめきも上げられずにベッドに崩れる。実富は実摘を床に引きずりおとし、背中や肩、頭を砕く勢いで踏みつけた。
知覚はとうに死んでいた。痛覚だった肌は、痛みを超越して無感覚に達している。骨も何本か折れているかもしれない。実摘は目をつぶり、飛季を想って実富の憎しみに防壁を張った。
実富はそれを打ち壊すように実摘に暴力を振るった。足蹴で仰向けにした実摘に馬乗りになる。実摘は混迷し、視界もぼやけていた。実富が笑っているか怒っているかも分からない。かすれた鳴き声がもれた。
「飛季……」
突如、首がぎゅうっと絞まった。実摘を目を開いた。反転した眼球で、視界が真っ暗になった。ひしぐように喉が痛む。視界が滲んだ。痛みが呼吸を吸収して、息ができなくなる。血脈もとどこおり、こめかみが熱く膨張した。
実摘は手足をばたつかせた。実富は手を緩め、実摘の軆に上体を折る。
「ねえ」
実富の声は、甘さに蕩けそうだった。
「私は、あなたの命に用はないんだよ」
実富は実摘の服を引き剥がし、痣だらけの軆で、自分の肉体をまさぐった。実摘は微動もできなかった。実富の指や舌の透明さも分からない。
どんなに食べ物をもらっても、精神的な憔悴が実摘の軆をやつれさせている。がりがりの軆が紫の痣に腫れまくっているのは、自分で見てもむごかった。
ふっくらした軆に、飛季の口づけの痕が残る肌を思い出す。あれはよかった。
腰をかかえられ、性器に拳をひねりこまれた。ねじれた内臓に実摘は悲鳴を上げた。
飛季。飛季に抱かれたい。こんなのは嫌だ。おもちゃにはなりたくない。飛季に愛されたい。
下腹部を圧迫する鈍痛に、実摘は泣いた。拒否して逃げようとする。実富は実摘の腰を抑えつけた。
「いや」
振りすぎる首に、顔全体に涙が醜く広がる。実摘は構わず哭泣した。
「飛季。助けて。怖いよ。飛季。飛季──」
いきなり腰を解放されたかと思うと、顔面に何かぶちまけられた。小便だと理解するのに、しばしかかった。理解しても、最早顔を背けたりできなかった。ただ浴びた。
叫んで大きく開けられていた口から喉へ、生温い液体が降りそそぎ、流れこんでいく。実摘は脱力した。実富は、実摘の喉元をまたいでしゃがみこむ。
「その名前、二度と出さないでね。吐きそうなの」
実摘は片目を薄く開けた。睫毛の向こうで、実富の瞳は透けている。彼女は気違いだ。頭が狂っているとしか考えられない。彼女こそ空っぽなのだ。
実摘ははみでていた舌を整え、口を開いた。
「飛季に会いたい」
瞳が瞳を殴った。それを最後に、実摘の意識は切れ切れになった。むちゃくちゃに殴打された。息ができなくなった。実富の病的な興奮がはじける笑い声がしていた。実摘は気を失った。
以降、どんな侮辱をされたかは分からない。目覚めたとき、絨毯が赤く染まっていたのが、凌辱の痕跡をしめしていた。
脇にいた実富は、実摘が起きたのに気づくと、微笑みかけてきた。膝まくらで頭を撫で、優しく髪を梳く。
実摘は彼女を見つめた。彼女もこちらを見つめた。見つめあっている印象はなかった。実摘は睫毛を伏せる。
実富は腰をかがめ、実摘の耳たぶに口づけた。実摘はまぶたを震わせる。実富の唇に、実摘の大粒の涙が染みこんでいった。
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