再会
飛季は、綾香家を訪ねなくなっていた。実富が家にいないのならそうなるし、上からの指示でも「綾香さんについては保留にしておきましょう」と言われた。派遣事務所は、綾香家には関わることなく、中学の卒業式が過ぎればいいと思っているようだ。
実富の母親が、だいぶ学校側に迷惑をかけているうわさが聞こえてきているせいもあるだろう。いてもたってもいられなくなった彼女は、学校に通いつめ、実富の担任にひどく当たり散らし続けたらしい。挙句、飛季も会ったことがある気の強くなさそうな担任教師は、ストレスで休職に追い込まれた。
そんな母親に、実富の失踪は、姉同様の家出ではないかと警察は見始めているそうだ。母親が娘たちにヒステリーを起こしていたのではという推理だろう。それを知った母親は、また癇癪を起こし、いよいよ飛季の職場にも電話をかけてくるようになった。
さいわい、飛季本人を出したら逆に厄介だからと、飛季は対応しなくてよかった。しかし、こちらが切るわけにもいかない中、夫が帰ってくるまでまくしたてる実富の母親の電話に対応する同僚は、何度も見た。もっと捜索に協力すべきだとか、桐月先生なら何か知ってるはずだとか、自分は娘をちゃんと愛しているだとか繰り返すらしい。
「一応訊くけども、桐月先生は綾香さんに気づいたこととか……あるいは、おかあさんに何か感じたことは?」
さすがに疲弊した顔を見せる主任講師に問われた飛季は、実富とはあたりさわりない話しかしなかった、それこそ母親も承知しているような話題だけだったと答えた。それを確認した上で、事務所は母親のことを警察に通報した。
気違いじみた電話は、ようやく落ち着いた。一度だけ、実富の父親から謝罪の連絡が入った。そのとき飛季は事務所にいたので、父親が飛季と話したいと言ったのを断れなかった。
『娘の勉強を見てくださっていたのに、ご迷惑をかけて申し訳ありません。僕も、新しい職場に必死でなかなか家庭内に構えずにいて……反省しています』
父親の声はかすれ気味で疲れ果て、娘の失踪に加え、嫌疑をかけられるほどの妻の暴走に振りまわされている様子だった。飛季は相槌を打ちつつ、何となく、この父親は実富のグルではなさそうだなと思った。
二月下旬になっていた。飛季は、そんな騒々しい毎日を、ぼおっと眺めている感覚しかなかった。いそがしいとか、癪に障るとか、そういうものを感知するものが死んでいる。実富の母親の迷惑な行動も、父親の詫びる言葉も、飛季の頭には入ってこなかった。
日が長くなってきたと感じはじめても、夜は冷えこむ。白い息が見取れるくらい夜が更けてくると、飛季は防寒して街に出かけ、獣欲に駆られるまま少女たちに実摘を求めた。
以前、殴って放置した少女に逢うこともあった。彼女らのほとんどが、飛季を怨んでいなかった。あんたはそういう目をしてるとか、だいたいがそういうことを言った。また誘ってくる少女すらいたが、それは断った。
飛季は毎晩、新しい少女と交わっては、実摘を捜した。血と精液は加速している。
その日も、飛季は街に行った。刺さる視線は無視し、実摘がいないか、みずから目を走らせる。
栗色。潤む。まばたき。柔らかい。しっとり。桃色。曲線。白い。ほっそり。小さい。かたちのいい──
実摘から連想されるものを、ひとつでも持っている少女がいたら、飛季はその子のところに行く。
人格が変わっていた。見ず知らずの人間に声をかけるなんて、怖くてできなかった。実摘が絡むと、飛季は突き動けるようになっている。
そのときも、街の中のどこかの店にいた。実摘の部位を目に引っかけようと、躍起になっていた。だから、声をかけられたことにもしばらく気づけなかった。
「今日もうわさの狼さんは、とりこを増やすの?」
飛季は、声のほうを見た。途端、喉がすくんで動けなくなった。
飛季の顎の高さで、綺麗な二重まぶたのくるくるした瞳が笑んでいる。丁寧な脱色の茶髪と、惹きつける明るく綺麗な顔立ちと、すらりとしたしなやかな体質。
飛季はやっとまばたきをした。
彼女の口元には、笑みが似合う。
「久しぶりだね、ロウ」
柚葉、だった。
飛季が茫然していると、彼女はくすりとして、壁にもたれた。こちらに顔を向け、あの変わらないほがらかな笑みを向けてくる。飛季の頬はこわばり、その反応に彼女は一瞬哀しそうにしたが、すぐに咲った。
「久しぶり、って言ってるんだけど」
「あ、……うん」
「挨拶ぐらいしてよ」
「………、久しぶり」
「そうそう」
満足そうにうなずき、柚葉は正面を向いた。飛季は彼女の横顔を見つめた。
まさか、また逢ってしまうとは。柚葉。とっくに忘れていた。思い出そうとしても、記憶がかすれている。最初に逢ったのも、最後に会ったのも、確か去年の夏だ。実摘と疎通して、ここに通わなくなって、飛季は彼女と簡単に縁を切った。
柚葉のいる記憶を何とかたどり、飛季はばつが悪くなる。そういえば、彼女と最後に会ったのは彼女の想いを告白された日だ。返事を迫られ、迷って、そこに実摘が乱入して──
実摘は、柚葉に嫉妬や引け目をやたらと感じていた。自分と柚葉を比較しては、自分が劣っていると自棄していた。
だが、飛季は柚葉ではなく実摘を選んだ。実摘のほうが飛季を揺さぶった。柚葉も好きだったけれど、命をかけるほどではなかった。実摘には命をかけられた。
そう、飛季は実摘を愛した。予想以上にのめりこんだ。飛季は実摘を自分のすべてにして、したところで、それらを残らず持っていかれてしまった。
何だか、こみあげるような感覚に急に泣きたくなった。自分に甘えてきていた実摘や、彼女が消えた現実が生々しくなる。
実摘。そうだ。いなくなってしまった。あの子がいなくなった。なのに、何で自分はこんな──
「荒んでるね」
柚葉を見る。彼女は静かなまなざしをしていた。
「どうしちゃったの」
どきっとした。なぜだか、その言葉に取りつきたくなったのだ。
柚葉は心配そうな瞳をしている。見ていられないと言いたげな表情だ。
飛季は口を開きかけ、どう言えばいいのかが分からず、つぐんだ。柚葉はこちらを窺っていたが、飛季が黙ってうつむくと、不意に壁にもたせかけていた腰を離す。
「あ、」
柚葉は振り返る。頭の中が混乱した。自分はどうしたいのか。ただ、何となく、この柚葉との再会は逃してはならない気がした。
飛季の正面に来た柚葉は、そっと手を取ってくる。飛季の冷たい手に反し、彼女の手は熱かった。その指先には、飛季への思いやりがある。
飛季は、彼女の息絶えない想いを悟った。
「どうしたの」
柚葉は、ゆっくりと繰り返した。飛季は自分の気持ちをつかんだ。どうしたのか──自分は、こんなふうに、誰かに訊いてほしかったのではないか。彼女なら信頼も持てる。飛季は柚葉を正視した。
「……実摘が、いなくなった」
柚葉は飛季を見つめた。やや怪訝そうな顔になって、確認してくる。
「ミツミ、って、ミミだよね」
「えっ。あ、……うん」
「………、そっか」
柚葉は飛季の手を握った。
「振られたの?」
飛季は彼女を見た。柚葉は悪戯っぽく咲った。きちんと分かっている笑みだ。飛季もわずかながら咲ってしまう。
短い沈黙ののち、柚葉は飛季の手を引いた。
「ちょっと、歩こうか」
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