もう一度
帰宅しても、飛びついてくる実摘も隠れている実摘もいないことに、だいぶ慣れつつある。胸の疼きに虚しさはあっても、もしかしたら、という期待はなくなった。これは現実を受け入れたのか、単なる自己防衛なのか──。
鍵をかけ、明かりをつける。放った荷物は、デイパックとコンビニのふくろだ。実摘がいなくなって、また出来合いに頼る日が増えた。実摘がいつ帰ってきてもいいように、食材は揃えてあって、古くなったものの処理にときおり料理はする。
脱いだ上着をハンガーにかけた。濡れていた。三月が近く、冬が春になろうとしている雨が続いている。髪のセットをかきあげて崩し、長い前髪をおろした。軽装に着替えると、飛季は放った荷物のところに戻る。
床に座ると、ため息が出た。心身がだるい。今日も夜は長そうだ。部屋は静かで、雨音が澄んで聴こえる。冬が春になる。春といえば、実摘に出逢ったのも春の霖雨の時期だった。
あの子に出逢って一年近くが経つ。コンビニの軒先での突飛な出逢いを思い返すと、飛季は苦笑したくなった。変な子だと警戒していた彼女に、こんなに入れこむとは、あのときは思ってもみなかった。
実摘は、ごっそりと飛季の中枢を奪った。飛季は彼女に夢中になった。すっかり、ただの恋煩いの男になっている。
弁当を開くと、ベッドにもたれて食しはじめる。ぼうっと食べていると心に悪いので、コンビニで買ってきた新聞を読んだ。
新聞など興味はなかったが、実摘に関する記事がないかと、ここのところ読むようになった。あの子であれば、何を起こしても、何が起きてもおかしくない。飛季は箸片手に新聞をめくる。
実富も行方不明のままだった。実富の母親は、うわさだと精神科に入院したという。家出と見られて実富の捜索も打ち切られるらしく、残った父親はそれに異議を唱えることもないようだ。確かに、母親の激昂に反し、父親には言い返したりわめいたりする気力がなさそうだった印象が、飛季の中にも残っている。
実摘に語ってもらった実富の壮絶な性を思うと、飛季は憂鬱だった。揃って消えて、これだけ経った。あのふたりが一緒にいるのは確実だ。だとしたら、実摘は実富の反射鏡にされている。実摘はぼろぼろになっているに違いない。飛季のことを憶えているかも分からない。
実富を絡めると、どうも実摘には死がつきまとう。実摘らしき少女の記事がないか、慎重に新聞を読み進める。何もないと、安堵と消沈が綯い混ぜになる。今日もそうだった。飛季は薄い夕刊を置くと、食事に没頭した。
何も考えずに黙りこんでいると、心は妄想や悪い予断にさいなまれた。どのぐらい待ち続けるのか、実摘の心とは疎通し続けているのか、自分はあの子に再び会えるのか──。
出逢った頃の、実摘の分裂状態を思い返す。接するのも忍ばれるほど、彼女は破砕と化していた。実摘は今、刻々とあの自我の欠けたでたらめな“もの”にされている。
いたたまれなかった。何もできない自分が悔しい。どうすればいいのかなんて、突きつめるほど無駄だと気づかされる。あてもないし、実摘との関係を公にもできない。
捜すために、全部捨てていいのかも決めかねる。もし実摘がここに帰ってきて、飛季が職も部屋も引きはらって放浪に出ていたら、完全な間抜けだ。結局、飛季ができるのは、ここで実摘を待ち詫びることだけだった。
夕食を終えても、雨はやんでいなかった。飛季は空の弁当箱を片づけ、コーヒーをすすった。カーテンの閉まったガラス戸を見やる。実摘もこの雨音を聴いているのか、雨が降るこことは遠いところにいるのか。雨にさらされ、風邪をひいていないといい。
コーヒーカップを座卓に置くと、ゆいいつの実摘の痕跡であるカーキのリュックを見つめた。しとしとという音が静寂に触れている。飛季はそのリュックを、そっと優しく抱きあげた。さほど親しくなかった頃の、いつもこれを背負っていた実摘がよみがえる。
飛季はリュックを開いた。中身は変わっていない。飛季が買ってあげたコーンスープもある。腐っていないのか。実摘には腐る腐らないの問題ではないのだろうが。生活用品や、髪を切るはさみや、ビデオテープもある。
飛季は二本あるビデオテープを取り出した。ひとつは白いケースに黒いマジックで『たべるひと』とある。ゾンビのことだろう。もうひとつは何もない。死体が腐る映画だ。ゾンビのテープはリュックに戻した。
腐る映画のテープを眺めた。「腐れるのは幸せだよ」と実摘は話していた。腐るのは生きていた証拠だと。生きていて、それがなくなったからこそ、腐っていく。それは命の証明だ。
そして、こうも言っていた。──僕は腐れるかな。
飛季は無造作にビデオテープを裏返した。観ようかな、と何となく思った。観てどうにかなるものではなくても、これは実摘が愛した映画だ。実摘に浸れるかもしれない。仕事もしたくないし、気晴らしだ。気晴らしになる映画かは分からないが。
飛季はリュックを丁重に戻すと、テレビの前に行った。実摘がいなくなって放置され、テレビにはホコリが溜まっている。ここのところ、掃除自体なまけている。
テレビの電源を入れると、ドラマが映った。興味がないのでさっさとビデオチャンネルにし、テープをセットした。画面は白黒のブレのあと、あの映画を上映しはじめる。
その奇妙な映画に、飛季はまばたきも惜しんだ。初めてこれを観たときほどの嫌悪はなかった。実摘もこの映画を、狂喜の声もあげずに食い入って見つめていた。
さまざまな死が繰り返される。服毒、銃殺、首吊り。その切れ目に、男の死体が腐敗し、壊れていく映像が挿入される。飛季は蛆虫が涌く大写しも正視した。
実摘を想っていた。彼女は死にたがっていた。この死体のように腐り、壊れる命があると証明したがっていた。陽炎のようにつかみどころがないのを殺し、眠れる柩を探し求めていた。彼女は飛季を見つけた。やっと見つけた。なのに。
飛季は腐る男を見つめる。殺しておけばよかった、と思った。そうだ。殺しておけばよかったのだ。実摘を殺し、この腕に永遠に収めておけばよかった。
実摘もそれを望んでいた。鼓動や体温に執着したところで、どうなるのか。殺せばよかった。実摘のあの夢を叶えてやればよかった。この手で、実摘の心臓をつらぬいていてやれば。
そうすれば、離れずに済んだ。そばにいられた。ずっと一緒だった。飛季だって、実摘とずっと一緒にいたい。こんなことになるのだったら、本当に、殺しておけばよかった。
実摘に会いたい。彼女の不在が息苦しい。二ヵ月も抱いていない。顔も見ていない。耐えきれない。つらすぎるのも限界だ。寂しくてたまらない。
なぜこんなことになってしまったのか。実摘と飛季は、一緒にいられたらバカみたいに満足だった。たったそれだけも、阻まれ、引き裂かれなくてはならないのか。まるで、飛季は実摘を愛してはならないようではないか。
でも、飛季は実摘を愛してしまった。実摘もそんな飛季に依存した。引けなかった。実摘と飛季は、関係を契るにはどうすればよかったのか。
殺すべきだった。そうとしか思い当たれなかった。実摘の夢が正しかった。実摘の軆を冷たくし、腐れる命を抱きしめてあげればよかった。
実富が家に帰ってこないまま、実摘も飛季の元に帰ってこないまま、中学校は卒業式や終了式を迎え、例の通信制高校を志望した女子生徒も合格通知を受け取った。彼女にも、その母親にもお礼を言われて、「君の力だから、おめでとう」とか言いつつ、飛季はまったく彼女の門出を祝う気分ではなかった。この子のことも、すぐに顔も思い出せないくらいに忘れるのだろうと思った。
三月も下旬になり、気候には陽気が出てきた。桜もつぼみをつけ、植物が鮮やかになっていく。花をちぎって色彩をもぎとり、あたりを新緑に染める初夏へと移りかわる霖雨が来たら、飛季は実摘と出逢って一年となる。再会が相成る気配はなかった。
実富と女子生徒の授業がはずれたまま、飛季は新しく午後に受け持つ生徒が決まらなかった。それでも事務所には来て、午前に見ている生徒の進みをまとめたり、ほかの講師のプリント作成を手伝ったりする。事務所に来るだけでは給料にならないので、なかなか家庭教師として指名されないままなら、児童相談所などに通う不登校生徒の勉強を見ることも検討していた。
その日も事務所で、講師を受けられそうな仕事はないか、ファイルをめくって探していた。不意に電話が鳴って、担当の事務員が受話器を取る。
受け答えした彼女は、突然「えっ」と声を上げてこちらを見た。何だ、と飛季が眉を寄せていると、彼女は何だかおろおろした対応したあとに、飛季に内線をまわしてきた。
「誰ですか?」
受話器を取る前に確認すると、彼女は躊躇ったあとに、「藤巻くんです」と答えた。誰、というのが顔に出てしまったのか、「万引きや恐喝で問題のあった……」と補足され、飛季はやっと昨年の夏まで受け持っていた男子生徒を思い出す。
「桐月先生と話したいって言ってるんです」
飛季はいぶかしく思いつつ、「分かりました」と内線を取った。「もしもし」と硬い声を心がけて呼びかけると、あまり静かではなさそうな場所の物音が聞こえてきた。
『出るの遅っせえし』
「……久しぶり。どうかした?」
『何だっけ……あー、ミツミ? だっけ』
「……は?」
『そいつのことなんだけどさー』
「な、何で君が、……その子のことを」
『お前、気づいてないの?』
「気づいて……って、」
『俺のあとに、都合よく「あの人」が来たってのに、ほんと気づいてないんだ』
言葉を飲んだ。この少年のあとに──来たのは、そう、実富だ。
急激な混乱に思わず目を剥く。指先が震え、こらえるようにぎゅっと拳を握った。
「今、どこにいる?」
『俺? さあな』
「みつ……あの子のいる場所は知ってるのか」
『あー、話それだったな。「あの人」の側近やってる人が、俺のチームのボスなんだけど。お前のこと迎えに行くから』
「迎え?」
『「あの人」があんたに頼みがあるらしいぜ? 表出ろよ、俺のボスがもう行ってる』
「何──」
『立てこもったり、サツ呼んだりして、逃げんじゃねえぞ? そしたら、ミツミって奴がどうなるか分かってろ』
ぶつっと電話は切れた。飛季は受話器を見つめ、息遣いを震わせる。
迎えに来る。実富の側近が迎えに来る。実富に──たどりつける? そこから実摘は行きつける保証はないが、それでも……
「桐月先生、藤巻くんに何か──」
「すみません、戻って説明します。緊急なので」
飛季は口任せにそう言うと、受話器を戻し、デイパックを乱暴に取って事務所を出た。
分からない。実富にとって、飛季は最も実摘に遠ざけておきたい人物だろう。頼みなんて、得体が知れない。罠かもしれない。
それでも、飛季は賭けたかった。待つのはたくさんだ。実摘に会いたい。もちろん、会えるかどうかは分からない。あくまで会うのは実富か──もしかしたら、言伝を預かった側近とやらだけかもしれない。
けれど、実摘のことが何か分かるかもしれない。皆目分からなかった、実摘の今の状態が。その結果が喜べるものか苦しむものか、それも保障はないけれど。
「桐月飛季か」
不意にしゃがれた低い声がして、飛季は振り返った。眼つきの悪い少年がいた。髪をブラックブルーに染め、飛季よりは低くても長身で、不健康に痩躯だ。目元や顎に鋭い印象がある。
なぜ──見憶えがあるのだろう。眉間を寄せて考え、突然思い出す。そうだ。いつだったか、マンションの駐車場にいた少年だ。
「実摘のこと──」
「ロリコンとか、こっちはマジ気分悪いから、黙ってついてこい」
彼は身をひるがえして歩き出した。飛季が面食らって突っ立つと、面倒そうに睨んでくる。飛季は仕方なくついていった。こちらの質問は、聞く気もないようだ。
飛季はデイパックのストラップを握る。彼の染められた髪はぼさつき、荒れている。この少年が、「チームのボス」で、「実富の側近」ということだろうか。どこに連れていかれるのだろうと、こちらがずいぶん大人なのに不安になっていると、角を曲がってすぐに、路上駐車する冴えない白い車があった。
彼は飛季に後部座席をしめすと、さっさと運転席に乗りこむ。飛季は狐疑した。電話といい、この少年といい、こんなガキどもを信じていいのか。どこに連れていかれるか知れたものではない。まずは、本当に実摘と実富につながっているのか、やはり確認しないと──
そのとき、機械的な音を立てて後部座席の窓が開いた。飛季は大きく目を見開いた。
そこにあった顔は、飛季の大切な恋人とそっくり同じ、なのに何より飛季の憎悪をかきたてる、あの美しい顔立ちの笑顔だった。
「久しぶりですね、先生」
あの見透かす瞳をして、実富が優雅に微笑んでいた。
【第六十九章へ】