闇夜へ走る
寂れたビルに入ると、ブラックブルーの髪の少年とは、入口で別れた。彼は熱狂的な実富の崇拝者らしく、実富と連れ立って歩く飛季に、異様な嫉妬を向けてきた。
実富に奥へうながされ、飛季は彼女を追う。そっけない灰色のコンクリートの壁の廊下には、薄暗い明かりがついていた。しんとして肌寒く、向こうにエレベーターホールが覗けている。
高速道路を降りて、ガソリンスタンドで聞こえた言葉は、方言とまではいかずとも微妙に抑揚が違った。車が停まったのは、閑散とビルが並ぶ薄暗い通りだった。その中の高さのあるビルに、飛季はこうして案内されている。
「ここにあの子がいます」と実富は車を降りた際に言った。窮屈な車に縮まっていた軆をほどいていた飛季は、浮かれるのも癪なので、ただうなずいた。
夕闇の中のビルを仰ぎ見る。十五の子供が、どうやってこんなビルの一部でも私物にできるのか。エンジンを止めている少年を置いて、実富はビルの入口へと歩き出す。
飛季は彼女に並び、少年はあとを追いかけてきた。犬みたいだな、と所感していると、「ここには」と実富が説明する。
「おとうさんが勤める会社の子会社が入ってるんです。名義は会社の役員さんになってます。私のお願いはだいたい聞いてくれる役員さんですけど、もちろんおとうさんには内緒です」
「はあ」と返すしかない。飛季の予想より遥かに、彼女はその後光を利用しているらしい。
空気が蒼ざめた静かなエレベーターホールに着くと、実富は『△』のボタンを押した。ボタンの横には階それぞれの案内があり、確かにビル全体が実富のものではないのが分かった。
実富が飛季の隣に立つ。彼女はこちらに微笑した。飛季は目をそらした。
「これは、私には賭けなんです」
響き渡る外とは違い、ここは声が跳ね返る。
「約束、守ってくださいね。苦しむのはあの子ですよ」
「………、分かってる」
「良くも悪くも、あの子を楽にするのは先生だけなんです。それは私も認めました。でも、つけあがるのは許しません」
飛季はうつむいた。自信はなかった。飛季が彼女の申し出を拒否しなかったのは、実富のあざとい悪知恵もあったが、ただ誘惑に勝てなかったのもある。
──日中、後部座席に乗った実富と対峙した飛季は、乗車をうながされ、この先に実摘の何かがあると確信して、実富の隣に乗りこんだ。
平凡な、狭い車内だった。実富は含み笑いをし、運転席の少年に発車を命じる。車は走り出した。
車は居心地悪かった。普段がオートバイなので、車のにおいや密室状態が神経に障る。もう堅苦しい必要もないだろうと、ワイシャツのボタンを緩め、鬱屈そうに前髪をかきあげる飛季を眺めて、実富はくすりとした。
「髪のセット、崩れましたよ」
「え、ああ──」
「髪をおろすと、ますます若いですね。大学生みたいです」
「……そうかな」
「先生って、おいくつでしたっけ」
「………、二十六」
「見えないですね。童顔でもないのに」
飛季は仏頂面をした。なぜ、実富とこんなあたりさわりのない話をしなくてはならないのか。飛季の不愉快を気取ると、実富はにっこりとした。
「綺麗な顔ですよね。あの子が夢中になるのも当然です。あの子、面食いなんですね」
顔だけという意味だろうか。実富と会話していても不快しかないので、飛季は窓を向いた。景色は、オートバイとは違ったふうに流れていく。
車は市街地を抜け、高速道路に乗った。景色はますます飛んでいった。周囲の車も、追い越したり越されたりを競い、タイヤでアスファルトを裂いていく。
窓の向こうで、抜けてきた市街地のビル群は、箱庭のように見えた。ぼうっとそれを眺望していると、「先生」と実富が声をかけてくる。
「先生は、だいぶんあの子に信頼されてるんですね」
あの子。実摘。
飛季は現金に実富を見た。
「私のところに帰ってきても、あの子は先生の名前ばっかりわめいて、本当にうるさいんですよ。ことあるごとに、先生に会わせろって」
とっさに、どんな表情も作れなかった。実摘は飛季を忘れていない。実富に順応していないのだ。嬉しい以上に、ほっとした。
「先生は、あの子をどう想ってますか?」
「え」
「あの子は、先生は自分の恋人だって言い張ってます」
「………、恋人だよ」
「あの子は未成年ですよ」
「覚悟してる」
実富は、こちらの癇に障る咲いをした。
「未成年で、先生といた頃は義務教育中でした。完全に親に守られてる立場です」
「実摘は何も守られてなかった」
実富は目を眇めた。飛季は睨み返した。
実富はシートにもたれる。
「あの子は、どのぐらい先生にしゃべったんですか」
「全部聞いたよ」
「全部ですか」
「全部だよ」
「私のことも」
「聞いた」
「訊き出したんですか」
「実摘が聞いてほしいって言ってくれた」
実富は息をつき、「悪い子」とつぶやいた。悪びれない彼女の様子に、飛季は苦々しく歯噛みする。
「私のこと、どう思いますか」
「狂ってるよ」
運転する少年が、凄絶な殺意を刺してきた。実富は彼をなだめた。
「あの子にも言われますよ。変態とか。私は、自分がおかしいとは思いません」
「だからおかしいんだよ」
「誰だって、自分が一番かわいいです。半端な自己愛で、羞恥心を優先させるほうが情けないんじゃないでしょうか」
「羞恥心があるほうがマシだよ」
「ないとはいってません。優先させるほうが厚顔です。自分をさらす自信がない言い訳ですよ。仮面をかぶって嘘をついて、愛想咲いばっかりして。最低です」
飛季を指しているのか、大衆を指しているのかは読めなかった。どちらもなのかもしれない。
「それに、私は自分を愛してますけど、他人に押しつけてはいません。私の自信が反感を買うなら、それでいいんです。人に好かれたくて自分を曲げるなんて、したくありませんし。私は、勝手に群がってきて好きだと言ってくれる人にしか甘えませんよ」
「実摘には押しつけてる」
「あの子は、私の一部です。何か食べたいからって口を使うのは、押しつけじゃないでしょう?」
「実摘は実摘だよ」
「あの子に、そんな資格はありません」
「君がそう決めつけて──」
「じゃあ、あの子は何のために私と同じ顔をしてるんですか」
「ふたごだから当たり前、」
「何で、ふたごじゃなきゃいけなかったんでしょう」
飛季は彼女を睨めつけた。実富は嗤った。
「全部、私のためなんですよ」
何か言おうとした。やめた。この少女は頭が変だ。何を言っても、猿知恵の理屈をこねてくる。
「ごめんなさい、話がそれましたね。とにかく、先生とあの子はずいぶん結びつきが強いんですね。そこを確かめたかったんです」
「………、ああ」
飛季の無愛想な答えに、少年は殺気立っている。この少年は、実富の性を理解した上で崇拝しているのか。自分は気違いふたりと高速道路で車に閉じこめられている。把握すると、ぞっとした。
いつのまにか、周囲の景色は都市の箱庭ではなくなっていた。トンネルが頻繁に現れ、続く橙々色の電燈が目にはひとつの線に映る。トンネルの合間に覗ける空は、青い。
「先生も勇気がありますよね」
保たれていた沈黙を、実富がふと破る。
「大人が子供に手出しするのは、条例違反ですよ」
「覚悟してるって言っただろ」
「ばれたら大変でしょうね」
「構わないよ」
実富は、初めて拍子抜けたまばたきをした。
「構わないんですか」
「俺は変態あつかいされてよかった。実摘を君のところに帰したくなかった」
実富は余裕を取り戻して微笑んだ。
「私とあの子の関係が気にいらないんですね」
「実摘が苦しんでるのは分かってないのか」
「分かってますよ。あの子が悪いんです」
「は?」
「あの子が勝手に、すべてを苦しみだと取ってるんです。感情なんて持たないでって言ってあげてるのに。私の言う通り、空っぽでいれば、苦しみなんてそもそもありません」
飛季は実富は見つめた。実富は柔らかに微笑する。
「私もあの子には苦しんでほしくないんです。自分の一部ですからね。あの子が私の一部じゃなくて、苦しめても苦しくないなら、生身でしてますよ。私の言うことを聞かずに、自分の存在にすがりつくので、あの子はみずから苦しんでるんです」
飛季は生唾を飲みこんだ。彼女は本気で言っているようだった。どうかしている。
飛季は実富に恐怖と嫌悪を感じ、口をつぐんだ。話したくなかった。話すほど、その無神経が信じられず、同時に、三ヵ月もそんな彼女の餌食にされてきた実摘が心配になる。
沈黙になった。今度は長く続いた。空もかたむきはじめる。トンネルは順調に増え、長いものになっていく。飛季はシートにもたれ、半眼になっていた。考えごとをするのもだるい。空が紺色に食い殺されていく。
【第七十章へ】