目の匂い
テーブルに教科書やノートを開き、持ち帰っている仕事に取りかかる。連休が明ければ、中間考査の対策が始まる。受け持つ生徒ひとりずつに合わせた授業内容を組むことに集中していると、くいと服の裾を引っ張られた。
はたと振り返ると、そこには実摘がいた。すぐ背後でハムスターのように丸まり、上目遣いをしている。
「何?」
声をかけられると、実摘は床に顔を伏せ、むずがゆそうに軆をよじらせた。行動の意図が読めずにいると、実摘は顔を上げ、テレビを指さした。観てもいいかと訊きたいらしい。
飛季は肩をすくめ、「構わないよ」と答えた。実摘はまばたきをし、無表情にうなずく。彼女はテレビの前へもごもごと蠕動していく。変な子、としつこい感想がよぎっていく。
軆を起こした実摘は、リュックに右手を突っ込み、一本のビデオテープを取り出した。テレビの電源を入れて、デッキにビデオをセットする。何となく興味があって、仕事に戻れない。
実摘はリュックを膝に置いて抱きしめ、テレビの前に尻をつけて座る。一メートルも離れていない。下がったほうが、と保護者じみた忠告をしかけ、やめておく。
閑散とした、人気のない都会の通りが映った。映画。邦画ではなさそうだと思っていると、やはり出てきたのは欧米人だった。聞こえてくるのは英語で、字幕が出ている。
彼女が映画を観るなんて、少し意外だ。彼女は画面を眺め、目を開いている。その瞳には異様な輝きがあった。本気で映画が好きなようだ。
飛季はノートに向き直った。飛季は芸術に心をかたむけるのが分からない人種だった。映画にも音楽にも興味がない。なくても生きていけるものは、特にいらない。
突然、実摘が悲鳴を上げた。ぎょっと顔を上げると、実摘は手足をばたばたさせて、歓喜をたたえていた。
「すごいよ、おにいさん」
「え……」
「食べてるよ。おいしいよ。すごい」
何だ、と画面に目を移し、心に嫌悪が芽吹いた。そこでは、顔がつぶれた人間が人間の喉を食いちぎっていた。
「血がいっぱいだよ。観て。すごい。食べてるよ。お腹いっぱいだよ」
実摘は笑い声をあげ、唸るような悲鳴を上げた。飛季は彼女を凝視する。彼女の手はリュックにさしこまれている。画面の中では、顔のつぶれた人間たち──ゾンビが生身の内臓を食い荒らしている。
前後に揺れた軆に、実摘の服がずれて肩が剥かれる。南中の光が、赤黒い傷口をさらした。彼女の儚げな声の高笑いは、耳鳴りのように響いた。
画面が切り替わった途端、実摘の高笑いはぴたりとやんだ。無造作に肩も隠す。茫然としている飛季のほうへ首を捻じってくる。その瞳は澱み、ぐらついていた。
「匂いがしたよ」
「えっ」
「おにいさんの目の匂いがしたの」
彼女は無表情だ。
「おいしい?」
何も返せなかった。彼女の言葉の意味もつかめなかった。
匂い。目の匂い。──おいしい?
実摘は、その映画に陶然とした。むごいシーンのたびに、歓喜の悲鳴を上げた。飛季は仕事に集中できなかった。
実摘に奇妙な恐怖感が生まれていた。本気でイカれているのではないかという畏怖だ。飛季は彼女を被害者だと思ったが、どうなのだろう。あの傷が、たとえば誰かを襲おうとして、抵抗されてつけられたものだとしたら。
彼女があのゾンビさながらに覆いかぶさってきたら? 体格や体力は飛季が勝るだろう。けれど、発狂したら信じられない怪力を発揮したりとか──
ボールペンを握った。息を吐く。バカバカしい。スプラッタ映画で喜ぶなんて、誰だってやっている。
実際問題はある。彼女が何か仕掛けてきて、やり返したとする。しかし、十五歳の少女を部屋に連れこんだ時点で、不利なのはこちらなのだ。
現実が迫る。かなり危うい状況だ。追い出すべきなのかもしれない。それとも、家について無理やり訊き出すか。しかし、家庭の話を出して返ってきた、彼女の病んだ反応が思い返る。
ノートの空白を睨んで考えこんでいると、突如、背中に何かがあたった。はっと振り帰る。実摘が飛季の背中にすりよってきていた。
「な、何──」
実摘は応えず、服越しにぴったりと肌を寄せ、飛季の脇腹に頭をもぐらせてくる。彼女の体温が伝わる。飛季の心臓はすくみ、その直後、決壊した。実摘は喉の奥を鳴らし、飛季に軆をこすりつけてくる。
突き放さなくてはと思った。拒否しなければならない。手出ししたらおしまいだ。密着した軆を剥がし、断りを諭してやらなくてはならない。ついでに、ここを出ていけと──
映画は終わっていない。悲鳴が聞こえている。
腕になめらかなうなじが口づけ、栗色の髪が揺れる。飛季はボールペンを取り落とした。白い紙面に無意味な線が描かれる。
実摘はくすくすと笑い、飛季の腹に顔をすりつけた。めまいがした。実摘の、彼女の、少女の体温を感じる。
身をかがめれば柔らかい髪の匂いが嗅げそうだ。すぐにでも、まといつく軆をきつく抱きしめられる。荒くなりかけた息遣いをやっとで飲みこむ。
彼女の軆が、飛季の軆をうごめく。息苦しい。理性がはりつめる。何年も抑えて殺してきた欲望が、理性を引きちぎろうとする。
彼女はこわばる飛季をちらりとして、猫の瞳で笑った。白い手が飛季の脚を這う。臑、膝、腿と移動し、その指は内腿に微妙に食いこむ。綿布をすべった手が、飛季の股間に入りこむ。飛季は息を詰めた。零下になったこめかみが、一瞬で熱に腫れあがる。
追いやろうとした。理性を利かせなくてはならない。こんな、たった十四、五歳の少女を犯すのか。そんなことをしたら──
彼女の指が、性器のかたちをたどる。かすれた声がもれそうになり、唇を噛みしめる。いつかの彼女の言葉が脳に流れてくる。
『僕のは、すごくいいんだよ』
すごく、いい──
「おにいさん」
飛季の服にくぐもる、彼女のもろい声がした。
「おにいさんは、ひとりぼっちの匂いがするよ」
瞬間、心が冷たくなった。彼女は笑っていた。陶酔しているのが、突然恥ずかしくなった。
実摘を押しのける。彼女は抵抗も反動もなく、べたっと床に崩れた。飛季は乱れた呼吸を整え、一回、深呼吸する。
実摘が首をぐにゃりと曲げてくる。澱んで裂けた視線が顔に当たる。かたくなに見つめ返すと、彼女はがっくりとして、四つんばいでテレビの前に戻っていく。
「俺は、君の期待には応えられないよ」
彼女の動きが静かに止まる。
「俺とどうかして金をもらおうと思ってるなら、それはできない。俺が応えられないのが困るなら、さっさと出ていったほうが──」
彼女は飛季を無視した。テレビの前、リュックのかたわらに座りこむと、ビデオを止めて巻き戻さずに取り出す。ケースに収めると、リュックに押しこんだ。
ブラウン管には、休日の異様なノリの番組が映る。実摘は部屋を出ていこうとはせず、その番組を無表情に観はじめる。その無表情は、弛緩ではなく硬直だ。顔も軆も動かさず、バカ笑いするタレントを冷然と見つめている。
飛季は、小さなため息をついた。軆を正面に戻し、ノートに落ちたボールペンを拾う。何となしにページに伸びた線をこすった。乾いているだろうと思ったのだが、その線はすうっと伸びた。冷や汗をかいていた指先が、インクを湿らせたのだ。苦笑いしてしまった。
飛季の空気と実摘の空気は分解され、部屋には沈黙が停滞した。笑いつづけるテレビのみ、乾いた自己主張をしていた。
実摘の存在感は消え失せ、飛季は拒む発言をしたくせに、たまに後ろを一瞥してしまう。彼女の硬直した無表情は、弛緩の無表情になっていた。やがて飛季は仕事に集中し、彼女を気にする回数も減っていった。
さしこむ光がオレンジがかってきた頃、空腹を覚えて顔を上げた。部屋に笑い声はなく、安っぽい二時間ドラマが流れていた。
実摘はいる。最後に盗視したときと、位置も体勢も変わっていない。
飛季は教科書とノートを食い合わせて閉じた。
実摘に目をやると、彼女はこちらを向いていた。暗く、なずんだ瞳だ。
「お腹、空いた?」
彼女は、かすかに首を横に振った。
「そう──」
口ごもる。どう続けよう。彼女をこの部屋にひとり置いていくのは躊躇われる。しかし、追い出す言葉は言いづらい。一緒に連れていくのはもっと厄介だ。
飛季はデイパックを取り、財布をつかみだした。
「俺、食べ物買ってくるけど」
数秒考え、仕方なくこう続けた。
「すぐ、帰ってくるから」
実摘はうなずいた。飛季ははっきり言えない自分に舌打ちを噛みながら、彼女を置いて部屋を出た。すぐ帰ってきたらいい。大丈夫だ。自分にそう言い聞かせていたが──
やはり、甘かった。
帰ってくると、締めたはずの鍵がかかっていなかった。ドアを開けると目に入る、ミニテーブルがない。目を落とすと、実摘の靴もない。実摘の耳鳴りのような高笑いの幻聴に眉を寄せつつ、心をくくって中に入った。
部屋はぐちゃぐちゃに荒らされていた。服が散乱し、テーブルはベッドの脇で引っくり返っている。はがされたシーツとブランケットは絡まり合って──皿が割れたりとか、テレビが投げ出されたりとか、それほどではない。しかし、迷惑は迷惑だった。
部屋で休ませたり、食事を作ってやったのは、飛季が勝手にやったことで、引き合いには出したくない。が、お返しがこれかとつい思ってしまう。実摘よりも、甘く無防備だった自分が憎らしい。
空腹より、部屋を片づけることにした。ベッドをどうにかしようとして、シーツの上にノートが置かれていることに気づく。荒れた部屋の中で、妙にきちんと置かれている。嫌な予感がして、手に取ると開いてみた。
『つめたい
くらい』
ぱらぱらとめくっていくと、白紙ページの中に、黒マーカーの弱々しいそんな筆跡が見つかった。
もちろん、飛季が書いたものではない。実摘だろう。冷たい。暗い。誰をさしているのかは明らかだった。
ノートを置いた。忘れよう。今度彼女と顔を合わせても無視する。あんな気違いの相手をしても、ろくなことにはならない。
黙々と部屋を片づけた。朝陽の下で、儚げに座りこんでいた実摘がよみがえる。砂のおばけ。その通りにしてやる。部屋中の彼女の痕跡を正して、飛季は実摘の匂いを削ぎ落としていった。
【第八章へ】