陽炎の柩-70

君が楽になるのなら

 パーキングエリアに入った。そこでも働くのは少年だけで、飛季は窓から暗くなっていく空を見上げた。蒼白い月が細かな星を連れている。
「先生」
 飛季は実富をちらりとする。彼女の顔は、薄暗くて判別しにくくなっている。
「そろそろ、本題に入りましょうか」
 本題──そうだ。頼みがあるとか、電話でも言われた。実富はパーキングエリアで少年が買ってきたハンバーカーの包みを開ける。
「もうひとつありますけど、食べますか?」
「いや」
「私、食べますね」
「本題って」
 ハンバーガーをひと口食べた実富は、それを飲みこんで、「お願いがあるんです」と言った。
「お願い」
「先生にしかできないことです」
「………、俺にしか」
「あの子に関して」
 彼女はハンバーカーを食べる。本当は飛季も空腹だったが、緊張に喉が開くか分からなかった。
「先生とあの子が、どんなにつながっていたか、先生のお話で分かりました。私はそれを断ち切りたかったんですけど、無理みたいですね」
 実富は食べ方も上品で、口内に何かあるうちは黙っている。車内に、てりやきの匂いが満ちていく。
「あの子は、先生に依存してます。私が何を言っても、先生を信じてるんですよ。今は少し落ち着いてますけど、すぐ戻るでしょうね」
「……何かしたのか」
「はい?」
「今は落ち着いてるって」
 実富は微笑み、何も説かなかった。飛季は実富に刺々しい殺意を抱いた。彼女はハンバーガーを飲みこむ。
「先生とあの子の絆は、本物だと思います。切ろうとするだけ無駄なんですね。この三ヵ月で、私も認めました。だったら、そのつながりを生かそうと思って」
「生かす?」
「本物であるほど、効果的な方法を考えたんです」
 嫌な予感がした。はっきりとつかめなくとも、もやもやするものは黒かった。
「私は二度と親と先生には会わないつもりでした。だけど、これには先生の協力がどうしても必要で」
 飛季は喉を詰める暗雲にひそみをした。実富はハンバーガーを食べた。ふくろが空になると、彼女はたたんでゴミ箱に突っ込み、次はシェイクに口をつける。
「協力って」
「先に言っておきましょうか。もし私の頼みを飲んでくれたら、先生はあの子に会えます」
 飛季は目を開いた。
 会える。実摘に会える!
「断ったら、すぐに放り出します」
 すぐ。百キロ近くで車が飛んでいるここで、ということだろうか。断るなと言っているも同然だ。
「私は、先生とあの子を会わせるのは嫌です。でも、やるからには私情は捨てます」
 戻ってきた暗雲に、実摘に会えるかもという感動が埋もれる。
「言いましたよね。あの子は先生を信じてるんです。先生の言葉なら妄信するでしょう。そして、信頼する先生にそう言われたら、あの子は私のものになるほかなくなります」
 実富はシェイクをすすった。飛季は彼女を凝視した。外は真っ暗になっている。
「ひと言でいいんです」
 実富は悠然と微笑んだ。
「あの子に、『お前なんか嫌いになった』と言ってあげてください」
 エンジンの音が、通り抜けた。黙然とした。隣の車線の車が、すごい勢いで走り抜けていく。
「『いなくなって清々してる』と言ってあげてください。『帰ってくるな』でも、『二度と会いたくない』でもいいですよ」
 飛季は、苦くすりつぶすような感情に唇を噛んだ。
「冗談じゃな──」
「断るなら降りてください。あの子にも二度と会わせません」
「そんなの言えるわけ、」
「言えますよ。言うだけです。仮面をかぶって、嘘をつけばいいんです。先生、得意じゃないですか?」
 実富は笑った。この小娘は、いったい何度死ねばいいと思わせるのか。
 そんな言葉、言えるわけがない。実摘には嘘をつきたくない。
「あの子を救ってあげられるのは、先生ひとりなんです」
 飛季は実富を見る。
「それは、言い換えれば、あの子をどん底に突き落とせるのも、先生ひとりだってことです」
「俺はそんな──」
「あの子を絶望させてあげてください。そしたら、あの子は救われます。苦しまなくなるんです。あの子を助けてあげてほしいんです」
 飛季はうなだれた。
 言えるわけがない。飛季に実摘を突き落とせる力があるのは真実だろう。だが、飛季はそんな力を使う気はない。断ったほうがいい。どんな骨折りであっても、実摘を傷つけるよりいい。二度と会えないと決まってもいない。実摘は実富を逃げ出し、飛季の部屋に帰ってくるかもしれない。
 飛季が口を開きかけたとき、実富の言葉が重なる。
「もし受け入れたたら、あの子に会えるんですよ」
「俺は、」
「断っても、ただではおきません」
 飛季は怪訝に眉を顰める。
「断ったら、先生とあの子の関係を公表します」
 心臓がさっとすくんだ。実富の口元は笑っていた。
「マスコミにはおいしいでしょうね? 少なくとも、私の親は黙ってませんよ。あの子の状態は、先生の監禁のせいとでも何とでも言えます」
「何で──」
「先生への復讐ではなくて、次の手段なんですけどね。あの子に吹きこむんです。あなたが近づいたせいで、先生は犯罪者になったんだよって」
 飛季は息を詰めた。実富の非道な知恵まわりに吐き気がした。次から次へ、どうやってそんなことを思いつけるのか。
「そして、私がいろいろ追いうちをかけてあげます。ふふ、あの子は死ぬまで後悔で苦しみますよ? 自殺するかもしれませんね」
「君は実摘が死んでいいのか」
「保存できればいいです」
 さらりと言う実富に慄然とし、飛季は膝に目を落とした。知らずに手を握りしめていた。汗をかいている。
「私は、それでもいいんですよ。ただ、あの子が可哀想じゃないですか。なるべく苦しまないようにしてあげたくて、それで先生です」
 飛季は彼女に横目をする。
「先生に『嫌いになった』って言われたら、強烈でしょうけど、一撃です。決定的ですからね」
 飛季に睨まれても、実富は意に介さず笑う。
「言ってあげてください。あの子が私の元に置かれていることは、もう変えられません。どんな手を使っても、私はあの子を離しません。あの子を愛してるなら、どれが一番楽か、考えてあげてください」
 返事を思案するあいだに、高速道路を降りていた。
 暗くて、街燈も心許ない場所だった。見知らぬ土地に、さすがに飛季も不安になる。一度明かりのある通りに出て、ガソリンの給油をしたものの、満タンになった車はまたも暗い道を進む。
「先生」
 実富の声は焦ってもおらず、落ち着いていた。
「先生も、あの子を解放されなくちゃいけません」
「……俺も、って」
「あの子を愛していても、どうにもなりませんよ。先生は見かけも綺麗ですし、愛した人には真剣になれます。ほかにいい女の人がいますよ。あんな子に執着して、どうなるんですか」
「俺は実摘じゃないと、」
「あの子は私のものです。泥棒は先生ですよ」
 実富は外を見た。ビルが入り組んで、人通りも対向車も後続車もなかった。
「どうしても嘘をつきたくなければ、本当にすればいいんです。あの子を嫌いになってください。それがあの子を楽にします」
「そしたら実摘の気持ちは、」
「あの子には、誰かを愛するなんて重圧すぎるんですよ」
 飛季は歯軋りしそうになる。前髪が頬をかすった。
 それは否定しがたかった。確かに実摘には、存在をかけた絶対的なこの愛は重たくもある。彼女は飛季を愛しすぎるあまり、飛季を信じられないぐらいだった。
 車は閑散とした通りに出た。明かりのついているところもあるが、だいたいのビルはシャッターが降りている。
 実摘を解放する。待っていても、しょうがないのか。
 もともと、実摘と飛季は立場的にも結ばれてはならなかった。飛季は実摘を嫌いにはなれない。飛季は彼女以外の人間は愛せない。飛季はそれでよくても、実摘にはどうだろう。そんな支配的な愛は、重荷かもしれない。
 たとえば、何年も経って実富の元を逃げ出したとき、実摘は何のためらいもなく飛季のところに直行するだろうか。自分など飛季には厄介かもしれないと不安がって、躊躇うことはないと言い切れるだろうか。
 実摘を楽にする。実摘の意志を自由にする。
 嫌いになった、と、ひと言、嘘をつけば──
「言ってくれますね」
 実富は予断した声で言った。飛季は息を止めた。
 実摘。苦しめたくない。ここで断れば、実摘はもっと苦しむ。飛季が自分を殺して、彼女を突き放したほうがマシだったら、飛季はそうするしかない。
 そうすれば、実摘にひと目会えるのだ。飛季は息を吐いた。静かにうなずいた。実富はにっこりした。
 やがて、車は停まった。

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