これからはふたりで
飛季の部屋に足を踏み入れ、実摘は歓喜して跳ねまわった。早朝だったので、飛季は鍵をかけると、彼女を抱き上げて落ち着かせてやった。あまりに軽い軆に胸が痛んだが、飛季の首筋に鼻をこすりつけて歓ぶ実摘に微笑んでしまう。
「おうちなの。僕のおうち」
「うん」
「帰りたかったよ」
「うん」
「ただいま」
飛季は実摘の頭を撫で、「おかえり」と返した。実摘は喜び、飛季の軆に手足を巻きつけた。
部屋には朝陽が満ちていた。カーテンも閉まっておらず、きらきらとまぶしい。明け方の肌寒さが、暖められていく最中だ。
飛季は実摘をベッドサイドに座らせ、改めてその顔や服装を確かめた。着替えさせたほうがいい。風呂はどうだろう。傷に染みるだろうか。
「実摘」
飛季の髪を引っ張って遊んでいた実摘は、瞳を向けてくる。
「風呂、入れる?」
実摘は喉を剥き、脚をばたばたとさせた。否定かと受け取ろうとしたところで、「入る」と実摘は断言した。
「傷、痛くない?」
「平気なの。飛季も入るの」
「うん」
「入る入る」
歌う実摘に、飛季は微笑し、着替えを選んでバスルームに行った。
実摘の痩躯は、相変わらず見るのもつらい。実摘は気にせず、それよりも飛季がそばにいる嬉しさのほうにいそがしいみたいだ。もちろん、彼女のそんな心理は飛季にも嬉しい。
飛季は薄い肩を抱くと、実摘をバスルームに連れていった。
──あの部屋でさんざん愛し合って、飛季と実摘は、しばらく絨毯で死体と化していた。
先に動いたのは、飛季だった。実摘はぐったりしていて、飛季は罪悪感に駆られた。彼女の体力がなくなっているのは分かっていたのに、今までで一番激しく抱いてしまった。
飛季は、実摘を丁寧に抱き起こした。飛季の体温を感知すると、実摘は剥いていた目を慌ててまばたかせ、視覚を起こした。
大きな瞳に、飛季が映る。飛季は謝りたいのをこらえ、そこに笑みをそそいだ。すると、実摘も咲った。手を伸ばして飛季の頬をさすり、「夢じゃなかったの」と彼女は言った。
口で後始末しあって服を着ると、ここを出ようとふたりは判断した。飛季は実摘を抱き上げて出ていこうとしたが、鍵が開かなかった。「中から開けられないの」と実摘が言った。いつもどうしていたのかを訊くと、実富が人を呼んで外から開けていたという。
飛季は実富の死体を盗み見た。死体を目にするのは初めてだった。気味が悪いので、進んで近寄りたくはないが──。
ふたりは悩み、いちかばちかの一計を案じた。
まず、実富の携帯電話を奪った。次に、遺体をベッドに乗せてふとんを被せる。実摘もそこに入り、栗色の頭がふたつ出るようにする。飛季はドアの影に隠れる。実摘がメールで誰かを呼ぶ──
たぶん来るのは伊勇だと、実摘は予測した。イユウとは、例の目つきの悪い側近少年のことらしい。そして、やはり来たのは彼だった。
伊勇はベッドの光景を見て、案の定、嫉妬を見せた。その隙に、飛季は彼の後頭部を殴った。
うまくいった。さすがに、飛季はこんなやつれたガキよりは腕力がある。ぐらついた彼の腹も砕いて、顎を壊し、しゃがんだところで肩に蹴りを落とした。飛季は、彼を素早く廊下で昏倒させてしまった。
伊勇を足蹴でうつぶせにすると、ポケットを探った。カードがあった。飛季はそれで部屋の鍵を開け、動かない彼は部屋に蹴りこんでおいた。
実摘はベッドを這い出て、ドアのそばに来ていた。成功したのを悟ると、笑顔で飛びついてきた。「飛季強いね」と目をぱちぱちとさせる。あの街で、すがる少女たちを暴力で断ち切っていたのを応用しただけの飛季は、曖昧に咲った。
部屋を出る前に、実摘に開けたドアを抑えさせて、伊勇のポケットを探りなおした。車のキーがあった。盗んでおく。彼は死んでいない。もし目覚めて、車で追いかけられたら終わりだ。
携帯電話も取り上げた。これは、外部を絶ち切るささやかな復讐だ。ほかに害のあるものはなさそうだった。
そうして飛季と実摘は、自分たちを苦しめた悪魔を密室に閉じこめ、逃亡した。
実摘には実富の靴を履かせ、ビルは無事に出られた。ここで、またも問題が発生する。道が分からなかった。歩くのは無理だ。飛季は、手中の車のキーを見下ろした。
実摘は、ビルをかえりみてそわそわしている。飛季は実摘を駐車場に連れていった。あの地味な車があった。
「これを使おう」
そう言った飛季に実摘はびっくりして、「運転できるの」と訊いてきた。一応、普通免許は持っているのでぎこちなくうなずき、「何がいつ来るか分からないし」とつけたす。
ふたりは車に乗りこんだ。飛季は生唾を飲みこんでエンジンを入れる。飛季のデイパックを抱きしめる、助手席の実摘は心配そうにしている。飛季はうろ憶えで車を発進させた。
道が暗い。ヘッドライトのつけ方も分からない。適当にやると、ワイパーが動いた。実摘が隣から教えてくれた。飛季は言う通りにしてライトをつけ、車の知識があるのかと彼女に訊く。
「家族で出かけたら、おとうさんの運転見てたの。……お話、入れてもらえなかったから」
飛季は実摘の頭を撫でると、慎重に車を道路へ走らせていった。道筋は来たときの不確かな記憶をたどるしかなかった。閑散として、誰も何もないのがさいわいだ。電柱やガードレールにたまにぶつかり、対向車線にそれたりしながら、大きな事故は起こさず明るいところに出ることができた。
誰も追ってはこなかった。
息が切れて汗びっしょりになって、全身の筋肉が張りつめている。狭さに合わせて、軆を縮めていて骨も痛い。こんなに疲れるものとは思わなかった。オートバイのほうが、どれだけ爽快か。
飛季たちは路上駐車して車を捨てた。鍵と携帯電話も空き缶のゴミ箱に捨てておいた。
実摘が「お腹空いた」と言って、ふたりはコンビニに寄った。実摘はちょうどフードのある服を着ていて、それをかぶせた。腫れ上がった顔をさらすのはまずいだろう。飛季は実摘に、ジャムパンとオレンジジュースを買ってやった。
ついでに、地図を立ち読みした。駅の場所を確かめると、飛季は実摘を引っ張っていった。実摘は、たった百円のジャムパンに至福の表情をしていた。
飛季と実摘は手をつなぎ、人混みに紛れて駅へと向かった。そこからは、必死に電車を乗り継いだ。特急や新幹線に乗る金はない。ローカル線を模索した。実摘は飛季にくっついて、腕に顔を伏せていた。時刻表も参考にして、飛季は部屋との距離を次第に縮めていった。
しかし、終電の時刻になってしまった。仕方なく、その駅でひと晩過ごした。タクシーに乗る金の余裕はなかった。どうせなので、ふたりはそこでちゃんとした食事──コンビニの弁当だが──を取る。
満腹になると、実摘は飛季にもたれてすやすやと仮眠を取り始めた。飛季は起きていた。神経が昂ぶっていたし、実摘から目を離すのも怖かった。ひと晩じゅう、栗色の髪を梳いて、その肩を抱いていた。
朝になると、始発で帰宅を開始した。途方のない模索をしている途中、実摘が小さい声を上げて飛季を引っ張った。どうしたのか訊くと、駅に見憶えがあるという。家出したときに通ったと。
希望が射してきた。そして、ようやく飛季は、切符売場の駅の一覧表に、最寄り駅の名前を見つけた。飛季と実摘は、精彩を取り戻していく。
ふたりはひと息にそこへ急ぎ、さいわいなことに、ラッシュの直前に最寄り駅にたどりついた。そうしてようやく、実摘と飛季はこの部屋に帰ってきた。
飛季は実摘の軆をよく洗ってやり、バスルームを出る。交わりはしなかった。お互い、密室での情交で腰がきつかった。
部屋に戻ると、食べるか眠るかで悩み、眠ることにした。
「起きたらね、飛季のごはん食べるの」
飛季は笑んで、「作るよ」と約束した。「おいしいの」と実摘はにこにこした。カーテンを閉めて光をさえぎると、ベッドにもぐりこむ。
飛季は実摘の軆を抱きしめた。胸がいっぱいになった。ここに横たわって、こうして実摘を抱きしめる。どんなに切望していただろうか。
飛季をくんくんとしていた実摘が、不意に瞳を曇らせた。飛季はすぐ察知し、実摘を覗きこむ。
「どうかした?」
実摘はうめいて、飛季に取りついてきた。細い脚が脚に絡まり、実摘の顔が胸につぶれる。
「哀しく、なったの」
「哀しく」
「にら、いない、って思ったの」
「あ……」
あの部屋を出る際、実摘はにらを断念してきた。かけらを持っていったら、という飛季の勧めにも実摘は首を振った。「助けてあげられなかったの」と実摘は廊下で悔しそうに言った。
「助けてってにら言ったのに、僕、泣いてるだけだったの。僕がにら殺したの。見殺しにしたの」
エレベーターの中で、飛季は実摘の頭を撫でてやった。実摘は飛季の脇腹で少し泣いた。
「にらね、飛季のところにいると思ってたの」
ふとんの中で飛季の胸に包まって、実摘は鼻をすする。
「にらと飛季と三人で、もっかいここで暮らすってしてたの。できなかった」
実摘は飛季の服をきゅっと握る。
「にら、僕を嫌いになったよ」
「なってないよ」
「なったもん」
「なってない。きっと、自分がいなくても実摘がひとりで立てるようになったの、喜んでくれるよ」
「……そ、かな」
「にらなら、実摘を理解してくれるよ」
「そっか」とこっくりとした実摘は、「でも」と少しむくれたようにつけくわえた。
「ひとりじゃないよ。飛季はいないとダメだよ」
飛季は思わず咲って、「いるよ」とうなずいた。
「ずっとそばにいる」
「ほんと」
「うん。一緒にいよう」
実摘は嬉しそうにして、飛季の胸に鼻を押しつける。飛季は実摘の背骨をさする。実摘は大息すると、「ねむねむ」とつぶやいた。
飛季は、実摘のさらさらになった栗色の髪を見た。彼女と再会し、頭をかすめていることがよぎった。実摘は飛季の服と筋肉に口を開けて咬みつき、うとうとしている。
飛季は彼女の頭を撫でた。反応がなかったら、話は明日に持ち越そうと考えたのだが、実摘は空目をしてきた。
「いいこいいこ」
大きな瞳はくるくるして、飛季が何か言いたいのを読み取る。「なあに」とうながした彼女に、飛季は心を決めて口を開いた。
「実摘にまた会えて、考えてたんだけど」
「うん」
「実摘が決めていいんだ、実摘のために考えたんだし。俺のことは気にせずに決めて」
実摘は不思議そうにした。飛季は息をつぎ、端的に言った。
「俺と、遠くに行かない?」
「えっ」
実摘の蕩けそうだった目が、面食らってぱちっと開かれた。突然な提案だとは分かっていても、飛季は話を進める。
「どこか、遠くに。ここ、離れたほうがいいと思うんだ。俺、もう実摘と離れたくないよ」
「遠く……」
「ここだと、いろいろ危ないよ」
実摘は眉間に皺を刻み、困惑した面持ちを作る。
「ここ、おうちなの」
「新しいおうちを探そう。もっと、いつまでもふたりでいられるところ」
「飛季、先生は」
「辞めるよ。違う仕事はする。なるべく実摘のそばにいられる仕事」
実摘は睫毛をまばたかせ、下を向いた。飛季は彼女の背中を慰撫した。
「実摘が嫌だったら、いいんだよ」
彼女は上目をする。
「実摘がここを気に入ってるなら、ここにいよう。俺は、ここにいる範囲で実摘を守る」
「守る、って。実富、……殺したよ」
「それで片づくとは思えない。閉じこめてきたけど、綾香の周りには家来みたいな人間が多いみたいだし。あの、伊勇──だっけ、彼は死んでないし、俺と実摘の関係も知ってる。実摘の親に密告したり、警察に行ったり、マスコミに垂れこんでもいいんだ」
「悪いのあっちだもん」
「世間は向こうにつくよ。そしたら、俺たちは離れ離れにさせられる」
実摘は怯えた瞳になって、「嫌」とかぶりを振った。
「いるの。飛季とずっと一緒なの」
飛季は実摘の髪に口づける。実摘の軆が軆にぴったりとしがみつく。
「俺も、実摘とずっと一緒にいたいんだ。だから遠くに行こう。ここを離れよう」
実摘は考えこんだ。飛季は急かさずに待った。冷静に考えられるよう、彼女の背中をゆったり愛撫する。
「飛季は」
「え」
「飛季はどっちがいいの」
「俺のことは──」
「飛季のことも考えたいの」
「………、俺は、遠くに行きたい」
実摘は熟慮した。長くはなかった。彼女ははっきりうなずいた。
「いいの?」と飛季が念を押すと、「駆け落ちなの」と実摘は言った。飛季は微笑み、彼女の肩をとんとんとする。
「まあ、実摘の軆が少し元気になってからがいいかな。ゆっくりはできなくても、ちょっとここで休もう」
「飛季は?」
「そばにいるよ」
実摘は嬉笑して、飛季に抱きついた。飛季は彼女の背中を撫でて安んじた。「遠く」と実摘はつぶやく。
「そこで、僕たちずっと一緒なの」
「うん。ずっと一緒にいよう」
実摘は頬を綻ばせ、こくんとした。飛季は彼女を愛撫する。実摘は微睡んで、眠りに落ちていく。
カーテン越しの光で、飛季は実摘の寝顔を見つめた。痛ましい傷を除けば、変わらずあどけなかった。飛季はその顔を胸に伏せさせ、力を抜くと、数ヵ月ぶりに安らかにシーツに沈んだ。
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