はるか遠くへ
飛季と実摘は、数日間、部屋に閉じこもって過ごした。
実摘はベッドに横たわって療養し、飛季は細かく彼女の世話をした。その甲斐もあって、実摘の軆は順調に良好になっていった。実摘の精神が、思いのほか壊れていなかったのも回復の要因だ。
「飛季が心の中にいたもん」と実摘は得意そうにした。飛季は、自分のほうがよほど弱かったのを思い知る。
あの街で壊れていたことは、きちんと告白した。実摘は怒らなかった。哀しみもしなかった。飛季の手を握って、「ごめんね」と言った。「飛季もつらかったの」と。
何と返せばいいのか分からなかった。謝るのはしつこいし、うなずくのは無神経だし──飛季は実摘の手を握り返した。実摘はにっこりした。飛季も咲えた。
実摘は、穏やかに飛季のわだかまりをほどいてくれた。
飛季と実摘は、この三ヵ月間で損なったいろんなものを埋め、癒やしていった。とどこおったり、つまずいたりすることはなかった。ふたりの心は、すんなり疎通を取り戻していく。自分たちを支え、破滅を阻止した流れ合う深い愛に、ふたりは感謝した。
もうじき四月に突入する、なごやかに暖かい日のことだった。飛季は仕事などサボって、実摘といた。どうせ辞める仕事だと勝手に思っていた。朝の身仕度を整えて、飛季は朝食を作ろうと冷蔵庫を開ける。
そこで、恐れていた事態が起きていた。冷蔵庫が空になっていた。飛季は実摘を振り返る。テレビの前にちょこんとして、腐る映画を観ている。だいぶ元気になったとはいえ、まだ腫れや膿んだ傷口は治っていない。
もともと完備していなかった、実摘の手当てをする包帯や薬も底を尽きそうになっている。しょうがないかと飛季はあきらめ、実摘のかたわらに行った。声をかけると、彼女はこちらを仰いでくる。
「ごはんなのー」
「冷蔵庫、空っぽになってた」
テーブルへと這い出そうとした実摘は、止まってまばたきをした。ぺたんと座り、自らの腹を見下ろし、ふくらみを取り戻してきた手でさする。
「ぐう」
飛季は息をついた。一考し、キッチンに行った。包丁を持ってくると、実摘に持たせる。
「何ー」
「誰か来たら、それで刺して」
「ぶす」
「うん。俺、買い物に行ってくるよ」
実摘は、急に不安そうな顔になった。
「僕も行く」
「危ないよ」
「嫌。ひとり嫌。怖い怖い」
「外歩いても危ないし」
「伊勇ここ知ってるもん。飛季が出ていったの見たら来るもん。いやいやいや」
実摘はわっと泣き出して、包丁を振りまわした。飛季は慌てて飛び退く。
「すぐ帰ってくるよ」
実摘は無闇に頭を振り、唸り声を上げる。
「約束する。誰か来たら、それで刺していいよ。殺していい。死体は俺が片づける」
濡れた瞳と見つめあった。飛季はかがみこんで、塩味の唇に口づけた。ふっくらしてきた軆を抱きしめる。実摘のぐずりは、飛季の体温にあやされて落ち着いていく。
「ほんとに、すぐ?」
「うん」
「ごはん」
「たくさん買ってくる。またしばらく出なくていいように」
「あのね」
「ん」
「チョコレートケーキ食べたい」
飛季は咲って軆を離すと、「買ってくるよ」と約束した。実摘も咲った。
軽く口づけをすると、飛季は立ち上がる。実摘は包丁を握り、飛季を凝視する。飛季は実摘に微笑みかけ、部屋を出ていった。
すぐ、とはいっても、そう簡単にはいかなかった。薬も欲しかったので、コンビニでは足りない。しかも、オートバイは職場に置いたまま、回収していない。自分の足で歩きまわり、金が許す限り食べ物を買って、チョコレートケーキも買って、消耗する生活用品も買った。薬も購入して、飛季はずいぶんな荷物を連れて帰宅した。
重い荷物に息を吐き、鍵を開けてドアを開ける。
嗅覚に流れこんできたものに、どきっとした。
何だ。花……だろうか。そう、花々が詰まったむせかえる匂いだ。ちょっと喉まで刺激するほど、花の匂いが部屋に満ちている。ほのかではなく、芳烈で、軽く吐き気さえする。
飛季は、怪訝に眉を寄せて部屋に入った。
荷物をどさっと落とした。床じゅうに、花びらや葉、枝などが散在していた。
実摘のすがたが一見なくて不安になったが、ベッドのほうで彼女の鳴き声がした。飛季はベッドに歩み寄り、再度、目を見張る。
シーツ一面に、視覚がちかちかしそうに色彩がばらまかれていた。花だと分かるのに、何秒かかかった。
花々の中に、実摘が瞑目して静かに横たわっている。飛季の大きすぎる白いワイシャツを全裸に羽織って。
一瞬、美しい死体に見えた。
「実摘」
実摘はまぶたを上げた。茫然とする飛季に、彼女はにこにこしてきた。
「飛季なのー」
「実摘、これ、」
「おかえりなの」
「ただ、いま。いや、何、どうしたの、これ」
「買ってきたの」
「いつ」
「今」
「今、って」
「お花屋さん、春のお花でいっぱいなの」
「春、………。何でベッド、これ……」
飛季は言葉をもつれさせ、混乱にへたりこんでしまう。
ベッドの上の情景を見渡した。いろんな花が入り混じっていた。その濃密な匂いは、めまいさえ呼び覚ます。けれど、新鮮な馨しさだ。あらゆる色が眼球を刺激する。
赤、桃、黄、紫、青、桃、白──
ちぎられた生花たちに埋もれる実摘に、春の陽光の金の粒子が舞いそそぐ。そのさまは、瞳から呼吸を蕩かすほど美しかった。
夢、と飛季は思った。そう、夢だ。これは夢だ。実摘を支えたあの夢の再現ではないか。
「飛季」
飛季は実摘を見た。実摘は飛季への愛情をこめた、慈しむ笑みをしていた。
「僕ね、飛季の命、いっぱい食べたよ」
「え……」
「ここに帰ってこれて、あったかいのも、いいこいいこも、どきどきも、いろんなの食べたの。僕の心ね、ぺこぺこになってたよ。あそこにいて、飛季がいなくて、哀しかった。あのまま死ぬのは嫌だったの。でも、大丈夫。飛季の命、いっぱい食べた。僕の命で、いっぱい食べた。今、僕、嬉しいの。幸せなの」
実摘は満ち足りた声をしていた。飛季は、彼女の意志に胸騒ぎを覚えた。
あの夢の光景を再現する。まさか、これは──
「僕の命、おなかいっぱいになった」
実摘は、そっと何かをさしだした。飛季はそれを見た。それが何か解するのにしばらくかかった。意味を認めたくなかったからかもしれない。
それは、自分が彼女に握らせた包丁だった。
飛季がとまどった目をすると、実摘は穏やかに言った。
「殺していいよ」
彼女には、狂った様子も激した様子もない。本当に安らかで、幸せそうだ。
「僕、生きてなくていいの。僕の命、したかったこと全部済ましたの。飛季の命、いっぱい食べた」
「……けど、」
「殺して」
実摘は屈託ない笑顔をする。
「ずっと一緒だよ。誰も邪魔できないとこに行くの。遠くに。それでね、僕、飛季とひとつになる。飛季の中で眠る」
実摘は、飛季に包丁を握らせた。飛季は実摘を見た。彼女は微笑をたたえ、やはり安らかな顔をしている。
飛季は実摘を見つめる。じっと見つめる。瞳に飲みこむように目に集中する。
頬の痣はわずかに引いて、白い部分が覗けている。足元から降りそそぐレース越しの光に、そこはしっとりと艶めいている。その青白さは、鮮やかな色彩の中で際立ちながらも完璧だ。
栗色の髪が落ちて剥かれた額は、白くてすべすべしている。閉じた睫毛が、毛先に光の粒を踊らせる。腕や肩は花に埋もれ、呼吸の上下は抑えられていた。
桃色の唇は、おっとりと笑んでいる。
飛季は泣きたくなった。自分の心の動きが信じられなかった。できるわけがない、なんて、思わなかった。彼女がそばにいなかったときの、あの苦痛だけがよみがえってくる。あの後悔が心に押し寄せ、脳を埋めつくしていく。
殺しておけばよかった。
痛烈に切ない殺意が、再び飛季の胸に湧いた。飛季は腰を上げた。ベッドに乗った。ふたりぶんの体重にベッドがにぶく軋めく。
唇を噛んで、実摘にまたがった。実摘は睫毛を上げた。視線が絡むと、彼女は幸せそうな笑顔をした。飛季は苦しさにうなだれる。
「飛季」
飛季は、実摘に上目をする。実摘の愛情のこもった瞳が痛い。
「怖くないよ」
実摘の手は、飛季の脚を愛撫する。
「僕、飛季の中に行くの。誰にも内緒で、飛季の中にいる。ずっと一緒になるだけなの」
飛季の息はかすれた。絞まるように喉が痛んだ。ずきずきした。
存在を越えた、実摘の愛を痛切に実感した。受け止めると、息苦しさに視界が滲む。
「実摘……」
「ん」
「実摘」
「うん」
飛季は、実摘をまっすぐに見つめた。
「愛してるよ」
「うん」
「すごく、愛してる」
「知ってるよ」
実摘は、はにかんで咲った。
「僕も、飛季を愛してるもん」
飛季は身をかがめ、実摘に口づけをした。淡い口づけだった。
「ずっと……愛してる」
唇を離しながら、飛季は細く、だが強くささやいた。
「……ずっと」
飛季は軆を起こした。実摘は包みこむように微笑んだ。
飛季は彼女の愛を受け入れた。すると、喉の痛みが消え、自然と彼女に微笑み返せていた。
飛季は包丁を握り、そっと頭上に持ちあげる。
自分が咲っているのを感じた。とても安らかに咲っているのを感じた。
これで全部救われる。二度とこの子と離れず、ずっと一緒にいられる。誰にも邪魔されない。飛季は実摘と永遠になる。
実摘を殺す。飛季はこの子にまといつく陽炎を殺す。
そして、遠くに行く。遠くに。誰もいない遠くに。測りしれない遠くに。
全身が溶けていくような安らぎが飛季を支配した。包丁に力をこめた。
実摘は咲っていた。飛季も咲っていた。
振り下ろされる銀のきらめきが、一気に視界を裂いていった。
【第七十四章へ】