陽炎の柩
執拗に電話が鳴っている。
飛季の聴覚は、それをぼんやり感知しながらも動かない。放っておけ、という脳の指令に軆は従っている。
ベッドに沈みこみ、まったく動けなかった。ここ何日、何もしていない。共にベッドに沈む実摘の軆をかわいがり、それを媒体に心に棲む実摘に愛をそそいでいるだけだ。
愛撫して、口づけて、ときにつらぬく。実摘の軆は何も返してこなかったけれど、確かに飛季は、心の中で歓ぶ実摘を体感していた。
飛季は、うつぶせになっている実摘にささやきかける。耳など必要なかった。実摘は、直接飛季の脳に語り返してくる。
飛季は実摘の答えに微笑み、動かない軆を優しく抱きしめる。
視界の端には、ざわざわとうごめくものがあった。あんな華麗だった花たちは枯れてしなびて、みじめな茶色に変色している。そんな花の死骸たちの上を、細かな白いものたちが這いまわっている。
実摘の頭も、そのあふれる白いものを髪に混ぜていた。飛季はそこに頬を乗せ、死んだ花や、白い蠢動を霞みがった目で漫視している。
そのとき、またもや聴覚を弾かれた。今度はドアフォンだった。飛季は無視して、実摘の軆を愛おしんだ。
実摘の声がする。飛季は栗色の髪を梳いてやった。指には、ぬめぬめと蠕動するものがまとわりつく。
かちゃかちゃと音がしている。
飛季は構わず、実摘のうなじに頬擦りをした。しっとりした感触はなく、ねとねとしていた。それでも飛季は心で悦ぶ実摘のためにそこに口づける。
がちゃっという音のあと、うめくような声がした。
飛季は、実摘への口づけに夢中になっていた。
「先生」
ややつぶれた、しかし聞き憶えのある声がした。
「こんにちは。やっと来れましたよ。あの日は、よくもやってくれましたね」
咳払いと足音がする。
「あのあと、何日もあそこに閉じめられて、ひどかったんですよ。この通り、死に損ないましたけどね。あんなやつれた手じゃ、気絶が精一杯だったんですよ」
飛季は実摘を抱きこんで、髪の間に鼻先をもぐらせた。あの甘い香りではなくなっていても、実摘の匂いだと思うとたまらなかった。
「あの子を返してもらいますよ。それで、先生たちのことも公表します。それにしても、何ですか、この臭い──」
足音が止まった。すぐに後退る音がした。
心の実摘が怖がっている。飛季は彼女の耳たぶに口づけ、「大丈夫だよ」とささやいた。実摘が穏やかになると、飛季はおもむろに顔を上げた。
そこには、実摘に似た瞳があった。しかし、実摘ではないのは分かった。実摘は、すっかり飛季の中に収まっている。外界にあるはずがない。
狼狽と衝撃にひしゃげた瞳を鏡に、飛季は自分の顔を捕らえた。頬や前髪、無精ひげの口元が、こまかな白いうごめきにまみれていた。ざわざわと伸びて縮む。黄ばんだ白い蛆たちが、顔面じゅうにこびりついて、うねっていた。
恐怖にゆがむ瞳に、飛季はほどけるように微笑んだ。引き攣った喘ぎが悲鳴になったとき、飛季は実摘に目を戻す。
彼女はこれを待ち望んでいた。飛季にこれを叶えてもらうために彼女はそこにいた。
誰にもできない。これは自分にしかできない。
そう思うと、初めて飛季はこの存在に自信が持てた。
そんな実感の中で、飛季は実摘におおいかぶさる。そして、ぎゅっと腕に埋めて、朽ちゆく彼女を永久の安らぎに葬った。
FIN
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