春 – 舞凪【1】
人と手をつなぐのが嫌いだった。手のひらに伝わる、相手の体温。それをすごく気持ち悪いと感じた。
小学生低学年くらいだと、遠足で背の順に並んで、隣の男の子と手をつないだりする。それが嫌で、遠足が近づくと喉がもやもやするような吐き気すら感じた。
当日の朝、「行きたくない」なんておかあさんにぼそっと言ってみても、「今日はお勉強しなくていいから楽な日じゃない」と背中を押される。
低学年の遠足だから、そんなに遠出はしない。近場の自然公園まで、行列で向かう。そのあいだ、列が乱れないのも兼ねて、隣の男の子と手をつなぐ。
私は必死に嫌悪を押し殺して、視線を伏せる。
私だけじゃない。女の子も、男の子も、「何で手つなぐのー?」と先生に不満を言っている。「ひとりだけはぐれたら危ないからですよー」と先生は言うけれど、こんなに気持ち悪いのを先生たちは理解できないのかと、心をすりつぶすようにいらいらした。
遠足が終わって、帰宅したら手を洗った。体温、感触、汗、伝わってきていたものを全部流す。
別に、手をつないでいた男の子が特別嫌いとか、そういうわけじゃなかった。ただ、人の肌が肌に触れていたことが気持ち悪かった。ハンドソープを泡立てて、執拗に手をこする。
やっと手のひらがすっきりするとほっとして、手をつなぐとかなくなる上級生に早くなりたいなあと思った。
けれど、実際上級生になったら、周りの女の子たちの話題が息苦しくなった。好きな男子について、ひそひそ教え合ってはしゃぐ。好きな男子なんて私にはいなかった。というか、「好き」とか「恋」とか、そういう感覚が分からなかった。
「次はまいちゃんの番ね、好きな人言って」
女の子たちは教室に隅に集まり、当たり前のように、順番に好きな人を打ち明けていく。
でも、私は本当に好きな人なんていない。正直に「いない……かな」と答えると、一気にみんな不機嫌になる。
「何でまいちゃん、いつも好きな人隠すの?」
「みんな、ちゃんと言ってるじゃん」
「ひとりだけずるいよ。私たち、友達なのに」
私は困ってしまって、「ほんとにいなくて……」と消え入りそうに言う。友達から仲間外れにはされたくなかったものの、適当な男の子の名前を挙げるのも、あとあと面倒な気がした。
「好きな人できたら、絶対……言うから」
私がそう言って、しぶしぶ納得した友達は「じゃあ次はななちゃん」とようやく次の女の子に移る。
ななちゃんがはにかみながら好きな男の子の名前を言うと、みんなわあっと嬉しそうに盛り上がって「それ両想いじゃない?」とか何とかあおる。私はそれを遠い感覚で眺め、「好き」って何だろうと思う。
仲良くなりたいってこと? 話してみたいってこと? あるいは、見てるだけで幸せなの?
分かんない。友達は大事だと思うけど、それとは違うみたいだし。その男の子と……手をつなぎたいとか、そういうことなのかな。
そう思うと、低学年の遠足のときに感じた嫌悪感がよみがえって、みぞおちが苦しくなった。
中学生になって、性教育で同性愛の話がちらりと出た。
私、こんなに男の子がダメってことは、女の子が好きなのかな。女の子となら手をつなげる?
ううん、無理。気持ち悪いのは同じ。
次第に私は、自分には「恋愛」というものが欠けているのだと思うようになった。
けれど、そんなことってありうるの? 恋って欠けるものなの? 当たり前にみんな恋をしている。
こんなの、私だけかもしれない。そんな不安を感じていたある日、家に誰もいないときを見計らって、リビングのPCで検索をかけてみた。もちろん、履歴の残らないシークレットブラウザで。
『恋愛をしたくない』
『人に触るのが気持ち悪い』
『性的なことに興味がない』
そんな言葉を検索にかけて、すぐに引っかかった言葉が『無性愛』だった。
アセクシュアル。恋愛や性的なことへ関心が少ない、あるいは存在しない、セクシュアルマイノリティのひとつ。ヒットした記事を読んでいきながら、初めて共感を覚える言葉や体験談をたくさん見つけた。
仲良くなった人と出かけたりはしたい。でも、それがデートになって、別れ際にキスをするようなものなら嫌だ。
性的欲望はもちろん、恋愛感情もない。
もしこの指向を人に伝えたら、他者を愛さない冷たい人と思われそうで怖い。
私は友達は好き。家族も好き。ペットのトイプードルのシュシュだって好き。
でも、誰かと恋愛関係になって、キスしたりセックスしたり、そういうことは私にはできない。
そうか、私は無性愛者なのか──。
PCの前でそう納得したのが、中学二年生の夏休みだった。自分がカテゴライズされる存在だと分かって、何だかほっとした。性的なことは、関心がないというか嫌悪さえあるけれど、それでも無性愛者になるみたいだ。
子供の頃、手をつないだときの気持ち悪さが、私の異常性ではなかったと肯定されたのは本当に安堵した。
好きになれないのが自然なら、それでいい。多くの記事にはそう書いてあった。当たり前のように好きな人の話をする周りがつらいかもしれないけど、だからって無理に合わせて好きでもない人と自分を偽らなくていい。
あなたはあなたでいい。
そんな文章を見つけたとき、少し泣いてしまった。だって、いつもみんな私を責めたから。
何で隠すの? 隠してなんかない。
みんな言ってるのに。みんな同じなんて決めつけないで。
友達なのにずるいよ。好きな人がいない私は、ずるいの? あなたの友達じゃないの?
シークレットブラウザをきちんと閉じてから、私はクーラーのきいた自分の部屋で息をついた。
まあ、だからって、私は無性愛者だと周りに言う必要もないだろうけど。理解しない人も、信じられない人も、やはりいるのだろうし。
もう余計に傷つきたくないや、と私は目を閉じた。
高校生になった。あんまり知り合いのいない、ちょっと偏差値の高い高校に無理をして進んだ。
中学時代の友達は好きだったけど、好きだからこそ、みんな好きな人や彼氏とかそんな話ばかりするのがつらかった。
この高校では、勉強を頑張って、人との交流は抑えよう。そう思っていた。
それでも、席替えは学期ごとにしか行なわれないそうで、隣の席の男の子や前後の女の子とは、毎日顔を合わせるうちに挨拶くらいは交わすようになった。
右隣の男の子の席には、よく男の子と女の子が訪ねてきて、三人でにぎやかにしている。しかし、訪ねてくるふたりは、雰囲気でつきあっているのが分かる。絡む視線とか、笑い声の色とか、触れあいそうな指先とか。
そんなふたりと笑っている隣人男子に、あんた邪魔だと思うけど、と思いつつ、もちろん私は何も言わない。関わってくる隙がないように、スマホで電子書籍を読んでいる。チャイムが鳴る前に、「じゃあ、また昼休みにねー」と男の子と女の子が教室を出ていって、隣人が何やら息をつくのが聞こえた。
それに一瞬、目をくれてしまったせいか、彼も私を見た。
黒髪は短く、三白眼のせいか目つきが悪い。軆つきは筋肉ががっしりしているほうだ。かっこ悪いわけじゃなくても、かっこいいと言えるほど美形でもない。まあ、普通。
私はすぐに視線をそらし、スマホに目を落とした。しかし、彼は構わず、「幼なじみなんだよ」と言った。
「……え」
「あいつら。もうふたりでつきあってんだし、俺なんかほっとけばいいのにな」
私はスマホの画面に指をすべらせながらも、邪魔って思ってたことばれたかな、と内心落ち着かない。
「あなたも彼女作れば?」
「えー……」
かったるそうな声に、何よ、と私は眉を寄せる。
変なの。男子高生なんて、彼女が欲しくてがっついていそうだけど。
いや、私が女子高生でも彼氏を作ろうと必死になっていないから、何とも言えないか。
「彼氏いる?」
そう訊かれて、「いないけど」と静かに答えると、「ほら」と彼はふくれっ面になる。
「そんな簡単にできないだろ」
「……そうかもね」
「彼女ねえ……」
彼がそう渋くつぶやいて頬杖をついていると、チャイムが鳴った。私はスマホを閉じてスクールバッグにしまい、次の教科である数学の一式をつくえに揃える。
隣の彼も一応そうしたものの、頬杖をついてあんまり授業を聞く姿勢ではない。まあ、勝手に赤点なり留年なりで苦労すればいい。
教師が入ってきて、起立、礼、着席のあとに授業が始まる。
「ナミ! おべんと食べよー」
昼休みになると、やっぱり例のふたりが、隣の彼を訪ねてきた。女の子のほうがそう声をかけてきて、「おう」とナミと呼ばれた隣の彼は愛想のいい笑顔で応える。嘘笑いなのだろうけど。
「いつもごめん。クラスの友達もいるよな」
男の子のほうがそう言うと、「弁当はいつもお前らとだから」とナミくんは自然な苦笑を作る。
「お前らこそ、俺に気い遣うなよー」
「ナミにそんなもの使わないし。ねっ、キコ」
「ルリも僕も、三人でいるのが好きなんだよ」
「あー、はいはい。俺は彼女できたら、お前ら放置すっけどな」
ナミくんの言葉に、ルリさんがむくれた顔になって、「そうなったら四人でいいじゃないか」とキコくんも言う。ナミくんの笑顔は崩れなくて、しんどいくせに、と思うと、少し中学時代までの自分に重なる気がした。
幼なじみなら、かえって突き放しづらいものなのかもしれない。でも、キコくんとルリさんは、本当にたまにはふたりきりって考えないのかな。恋愛中の人の感覚や脳内は、私には分からないけれど──何となく、ふたりで過ごしたがるイメージは間違っていない気がする。
ルリさんは、さらりとした黒髪のロングとやや吊りあがった黒い瞳、そしてふっくらした唇が映える白い肌をしている。
キコくんのほうは、栗色の柔らかそうな髪や長い睫毛、あまり筋肉質ではない体格が、美少年というより美少女みたいな容姿だ。
三人の中で、抜群にルックスがいいのはキコくんだ。でも、男らしい男子のほうがいい女子には、粗野な感じのナミくんも負けていないと思う。ルリさんは瞳の印象で気が強そうだけど、まあ美人って気丈そうに見えるものだ。
この三人なかなか目立ってるよな、なんて思いつつ、ひとり席でお弁当を食べていると、かたわらに置いていたスマホが震えた。たまご焼きを頬張ってから箸を置き、スマホを手に取ると中学時代の友達からだった。
五月の連休に、中学の友達で集まって遊ぶからおいでよ、という誘いだった。早くも中学時代の友達で集まるのか。いや、むしろ、それぞれの高校になじんだら、もう遊ばないのかもしれない。
『分かった。』という返事と共に、待ち合わせの日時を訊いておくと、『舞凪の恋バナあるといいなー!』と圧がかかってきて、早くも後悔しそうになる。
何のためにこの高校を選んだの私、と息をつきながらも、仕方がない。恋より勉強で必死だという言い訳は、この進学校なら通用するだろう。
それ以上のラリーは嫌になりそうだったので、スマホを置いてお弁当を持ち直した。
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