彼女の恋は凪いでいる-2

春 – 舞凪【2】

 その後も、隣の席の様子は相変わらずだった。しかし別に、ナミくんという彼が、私に懐いていろいろ愚痴ってくることもなかった。朝と帰りに、目が合ったら「おはよう」もしくは「また明日」と言い交わすくらい。
 ひらひらと舞い散る桜は、あっという間に色鮮やかな葉桜になって、四月から五月にかかる連休に入った。春雷の時期を過ぎ、気候が一気に初夏になる。スマホの天気予報には、『真夏日』や『熱中症』という文字が早くも登場してきた。
 エアコンが涼しい部屋で何とか過ごしていると、いよいよ楽しみでもない外出なんて断りたくなってきたけど、どうせ今のうちだ。インディゴブルーのロングワンピースにシースルーのホワイトカーディガンを羽織り、肩に届かないボブカットをミストでまとめる。薄めに化粧もしておき、バッグを肩にかけて家を出る。
 愛犬のシュシュが自分のお散歩ではないことを察すると、がっかりした声で鳴いて、それが何より可哀想だった。
 中学はもちろん地元なので、待ち合わせも最寄り駅だ。青空で白く発光する太陽は、くらくらしてくるほど汗と意識を絞り取る。これが初夏なら夏本番はいったいどうなるのかと思いつつ、十五分くらいで駅前に着いた。
「舞凪ー」と呼ばれて顔を上げ、一瞬、立ち止まりそうになった。
 ぜんぜん、考えていなかった。そうだ、何で想定しなかったのだろう。
 そこに集まっている人たちの中には、女の子だけでなく男の子もいた。
「三人ずつ揃ったねっ。じゃあ、とりあえず電車乗ろー」
 三人ずつとか言ってる。何これ。完全に合コンのノリじゃない。
 なぜか勝手に、地元のファミレスで女の子だけでしゃべるとか、そういうのを想像していた。想像が幼稚だったと悔やみつつ、ここで「帰るね」と言い出して空気を乱す勇気もなくて、仕方なくICカードで改札を抜ける。
「舞凪、どうせ彼氏いないんでしょー」
 友達の香苗かなえが電車で声をかけてきて、「まあ、そうかもね……」と私が濁すと、「いるの!?」と彼女は色めく。
 私は咳払いして、「いないよ」と言い直した。何で、そんなにつまらなさそうな顔をされなくてはならないのだろう。
「まー、想像はしてたけど。してたから、男子も呼ぶことにしたのっ」
「狙ってる人でもいるの?」
「あたしも澄香すみかも、実は彼氏いるから。三人の中で、舞凪が気に入った男子を持ち帰っていいんだよ」
「持ち帰るって」
「けっこう頑張って集めたんだから! 勉強、毎日大変でしょ? 彼氏という潤いは必要だよ」
 ため息をつく。恋愛至上のそういう考え方って、本当に私には分からない。
 彼氏を作ってデートするくらいなら、シュシュをブラッシングしてあげて、お散歩に行くほうが癒される。
高畑たかはた、私服だと美人なんだな」
 市街地に出て、向かったのはカラオケだった。じゃあ地元でいいじゃない、とよく分かっていない私は思ったけれど、入っている機種がぜんぜん違うらしい。
 そういえば、私は人前で歌うという、このカラオケという場も苦手だ。適当に男の子としゃべっていれば、逆にマイクまわってこないかな。そう思ったので、隣り合った男の子と適度な距離を保ちながら話していた。
 でも、自分とずっと話している私に対して、彼は勘違いを起こしたらしく、急にそんなことを言ってきた。
「え、あー……そうかな」
「大人っぽい」
「もう高校生だし」
「でも、成田なりた山崎やまざきはまだぜんぜんガキっぽいじゃん」
「香苗と澄香に、それ言ってこようか」
「いや、それは勘弁だけど。マジで今、彼氏いない?」
「……んー、どうなのかな」
「あ、まだつきあってない? 好きな人はいる感じ?」
益野ますのくんはいないの、彼女」
「いたらここにいねえわ」
「ほんとに?」
「彼女いそうに見える?」
「まあ、……そこそこ」
「そこそこって」
 益野くんは笑っているけれど、目が笑っていなくて、真剣に私を見つめている。
 やばい奴だ、これ。息が苦しくなるような、あの嫌悪感。
 益野くんの視線に好意が含まれていくほど、反比例して私の脊髄には寒気がこみあげてくる。
 やめて。私のこと対象として見ないで。気持ち悪い。
 私が黙ってうつむいてしまうと、「高畑」と益野くんは顔を近づけて覗きこんできた。
 その瞬間、私は立ち上がってバッグもつかんだ。「高畑、」と言う益野くんと目も合わせず、「ちょっと喉乾いたからっ」と言い残して、私は部屋を出た。
 この部屋に来るまでの道にドリンクバーがあったから、とりあえずそこまで早足で向かった。適当にオレンジジュースを選ぶと、一気に飲み干して、凝り固まった心臓に手を当てる。
 鼓動がすくんでしまっている。それくらい、気持ち悪かった。いや、もはや怖かった。益野くんの「いいな」のゲージが上がるのを感じるほど、拒絶感しかなかった。
 益野くんが嫌いなわけじゃない。彼自身が気持ち悪いわけでもない。ただ、彼が抱きかけている感情が、私には理解できないから向けられるのが恐ろしい。
 もうこのまま帰ろうかな、と思ったものの、お金をはらわないわけにもいかないのか。いや、スマホで香苗をここに呼び出して、お金を渡して帰ろうか。でも、余計なお世話だっていうような態度は、喧嘩になるかな。
 どうしよう、と思っていると、「あれ」と声がして私はびくっと顔を上げた。一瞬、益野くんが追いかけてきたのかと思ったけど、そこにいたのは──
「ナミの隣の席の人だよね?」
 高校で、休み時間、隣の席を訪ねてくる、男の子のほう……キコくん、だった。
「来てたんだね」
 キコくんは物柔らかな口調で言って、私は泣きそうな表情のままうなずく。私の顔に、彼は心配そうな面持ちになり、「何かあったの?」と首をかしげる。
「少し、震えてるけど」
「……大丈夫」
「そう……? ひとり?」
「……友達と。中学のときの」
「そうなんだ。僕はルリとナミと来てるんだけど」
「……いつも、一緒だもんね」
「まあね。なかなか子供の頃から変われなくて」
 いい、なあ。キコくんの苦笑いにそう感じてしまう。
 それくらい気兼ねない友達が、私にもいればよかったのに。無性愛のことも相談できるくらいの友達。
 これまで、誰にも言えたことがない。私は恋をしない、恋ができないなんて──
「高畑?」
 私ははっと声がしたほうを見た。今度こそ、案の定追いかけてきたらしい益野くんだった。
「あ、」と私が見るからにこわばったのを認め、キコくんは怪訝そうな目を益野くんに向ける。
「彼女に何か用?」
 キコくんがそう言うと、「お前は高畑の何だよ?」と益野くんは急に邪慳な声で答える。
「高校の友達だよ」
「………、呼んだのか?」
 益野くんはこちらを向き、「偶然会っただけだけど……」と私は口ごもる。「じゃあ、ほっといていいだろ」と益野くんは私に近づいた。
「今は俺たちと遊んでんだから。──で、お前は邪魔すんな」
 キコくんに言い捨て、益野くんは私の手をつかんだ。その瞬間、感電が走ったみたいな反応で、私は益野くんの手を振りはらってしまった。
 あ、まずい。
 そう思ったときには、益野くんは怒るよりもショックを受けた顔になっていて……
「ご、ごめ──」
「謝らなくていいよ」とキコくんが割って入り、私の背中を軽く押した。私がとまどうと、「彼女は僕と合流するから」とキコくんは益野くんに言い置き、歩き出した。手をつかまれているわけではなくも、私は益野くんとはこれ以上一緒にいたくなくて、キコくんを追いかけた。
 エントランスまで来ると、「再入場できないから、ここまでしか送れないけど」とキコくんは立ち止まる。私はかすかに蒼ざめつつ、首を横に振って、「ありがとう」とつぶやいた。
「あいつがここまで来る前に帰って。一応、僕、少しここで様子見しておくから」
「う、うん……」
「あいつにひどいことされたわけじゃないよね? 何かあったなら、警察とかも行って」
「それは、何にも……ない。大丈夫」
「そう。じゃあ早く。また高校で」
 私は喪心した瞳のままうなずき、一度お辞儀をすると、空室待ちの人がざわめくエントランスを走って、カラオケボックスを出た。
 強い日射しに目を細め、とりあえず駅に向かう。
 家に帰りたい。すぐに帰って、触れられたところを流したい。やっぱり、人の肌が肌に触れるのは気持ち悪い。
 何でこうなんだろう、と胸苦しくなる。益野くんが悪かったとは思わない。私がおかしいのだ。自分とずっと話すんだもん、それは益野くんだって期待したくなる。
 普通だったら、私もどきどきしはじめて益野くんを意識してくるところだったのかな。そう、益野くんは普通だっただけ。
 私が間違ってるんだ。恋する心が欠けている。
 電車に乗ってようやくスマホを取り出すと、着信がいっぱいついていた。香苗と澄香から。きっと責める言葉が並んでいると思うと、トークルームを開く気になれなかった。
 息をついてスマホをバッグにしまうと、キコくんがいてよかった、とは思った。優しかったし。ちょっと心配をかけすぎてしまったかもしれない。今度会ったら、改めて謝ろう。せめてあのあと、キコくんと益野くんがかちあっていないといいけれど。

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