春 – 舞凪【3】
家に到着すると、家族には「暑かったから」と言っておいて、真っ先にシャワーを浴びた。実際、全身が汗にべたついていたから、さっぱりしたかった。
まずは触れられた左手を気が済むまで洗う。それからボディソープをスポンジにふくませて軆をすすぐ。髪もシャンプーとコンディショナーで整え、顔を洗って化粧を落とし、もう一度熱いシャワーを肌に浴びせて消毒した。
手のひらを見て、つかまれたときの感触や熱がはっきりとはよみがえらないのを確認すると、ため息をつきながら浴室を出る。
バスタオルを巻いて、部屋に戻るために階段をのぼっていると、シュシュが私のことを追いかけてきた。私はやっと少し表情をほころばせ、ふわりと軽いシュシュを抱き上げて部屋に向かう。
シュシュになら、頬を舐められたってぜんぜん気持ち悪くないのに。家族とだって仲がいいし、友達も恋愛のことさえ突っこんでこなければ好きだと思う。
ただ、恋愛感情を期待されたり、ましてや性的な目を向けられると、じわりと心が黴びて気持ち悪い。男の子でも、たぶん、女の子であっても、私はそれを受けつけない。
部屋に入ってエアコンをつけると、バッグを放ってシュシュは床におろした。服を着てタオルで髪を包み、ベッドに倒れこむ。「疲れた」とひとりごちたとき、またスマホの振動が聞こえたものの、目をつぶって無視した。
おかしいのは私だ。そう思ったけど、もちろん、そんなふうに考えるのはつらい。私にとっての普通は、恋愛やセックスが存在しないことなのだ。
あなたはあなたでいい。いろんなサイトにもそう書いてあった。今日のことは、つまり私と益野くんの性指向が違ったという、ただそれだけのことだ。私が悪い、とかは考えなくていい。
なのに、どうしても自分を責めて、なぜこんな性質なんだろうと死にたいくらいに悩んでしまう。
夜、晩ごはんを食べたあとに、やっとスマホを見た。香苗も澄香も、私が勝手に抜けたことを一応怒っていたけど、益野くんからキコくんのことを聞いたらしい。そちらのほうに興味をしめしていて、『どういう関係の男の子なの?』『これまで男友達もいなかったよね?』といった質問が続いていた。
どういう関係も何も、同じ高校ということ以外、ほとんど何の関係もない。隣の席のナミくんとさえ、私は友達とは言えない。しかし、ここは少し話を盛るしか落ち着きそうにない。『友達の友達みたいな人だよ。』と答え、勝手にナミくんを友達に位置づけさせてもらった。
即座に既読がつき、『益野すっごい妬いてたよ!』『益野はダメなの?』という香苗の連打に、『そういうふうに考えたことない人だし。』と私は答える。『いい奴なんだけどなあ』と香苗としてはまだ益野くんを推し足りない気持ちもあるようだったけれど、やっと私にその気がないことに納得したのか、『また今度ね!』と自分からラリーを切ってしまった。
連休が明けて学校が再開した日、教室に入って席に着くと、「おはよー」と隣から声がかかった。顔を向けると、ナミくんが例によってかったるそうに頬杖をつき、私に目を向けていた。
視線がぶつかったわけでもないのに、わざわざ声かけてくるのは初めてだなと思いつつ、「おはよう」と応じると「キコが心配してたぜ」とナミくんは言った。私はナミくんを見て、「あー……」と声をもらす。
「そう、だよね。あとでお礼言いたいかも」
「休み時間に来るだろ」
「そっか。じゃあ、そのときに」
「男に無理やり誘われてたとかキコは言ってた」
「………、まあ、そんなところ」
「ふうん。キコはあれで正義感強いしなー」
「………」
「俺なら無視してたと思うから、よかったな」
何、だろう。気だるい口調だけど、端々にかすかな毒がこもっているように感じる。私、この人の癇に障ることはしていないはずだけど。
もしかしたら、ルリさんは、彼氏が他の女の子を助けて怒るかもしれなくても──
「彼女さんは」
「あ?」
「彼女さんは、その……私に関わったこと、怒ってなかった?」
「おもしろくはなさそうだったけど、そういうのほっとけないキコの性格は、ルリも知ってるしな」
「そう……。でも、謝らないとね」
「かもなー」
そんなことを話していると、予鈴が鳴った。私はスクールバッグから取り出した教科書をつくえにしまう。それから、気づかれないようにナミくんの横顔を見た。
君もなかなかにおもしろくなさそうだけど。口にはしないけど、心の中でそうつぶやいてしまった。
二時間目が終わって、三時間目が始まるまでの休み時間にキコくんとルリさんがナミくんの席を訪ねてきた。「一時間目から体育なのってほんとやだ」とルリさんが言っていて、着替えか何かでさっきの休み時間は来なかったのかなと勝手に察する。キコくんは私のほうを見て、穏やかに微笑んでから小さく会釈だけした。
お礼、と思ったけれど、すぐに三人で話しはじめたので入りづらい。私が臆したまま黙っていると、「あー、もうっ」とナミくんが舌打ちして、キコくんに私をしめした。
「キコに礼が言いたいって言ってた」
「えっ」
「えーと、名前……高畑? そう、高畑が」
私の名札に目を細め、初めて名前を認識した様子でナミくんが言う。キコくんはややとまどった様子を見せたものの、「こないだはあのあと大丈夫だった?」と私に問いかけてくる。
「あ、はい。ええと……あの人、一応、中学の同級生で」
「友達だったの?」
「いえ、その……友達が連れてきた人で。私自身はそんなに親しくなかったです」
「そうなんだ。ちょっと怖かったね」
「そう、ですね。私もびっくりしました」
「してたね。だから、何かあったのか心配で。カラオケって個室だし」
「それは、大丈夫です。友達にはちょっと悪いことしたけど、私はほんとにあの人のこと何とも思えなかったので、助かりました。ありがとうございました」
「ううん。中学なら地元が同じなのかな。気をつけてね」
「はい……」
そうだな、と思った。しばらく、駅前とか歩くときは気をつけよう。今、益野くんと再会したらかなり気まずい。
「で、ルリには謝るんだろ」
ナミくんがちゃっちゃと話を進め、「あたし?」とルリさんは首をかしげる。「彼氏がほかの女のナイト様を演じたんだぞ」とナミくんが言うと、「あー、それは嬉しくないけどね」とルリさんが苦笑した。「ごめんなさい」と私がすかさず言うと、ルリさんはかぶりを振る。
「別に、高畑……さん? が、それで調子に乗って、キコに言い寄るとかならムカつくけど。そういうわけじゃないでしょ」
「それはないです、ほんとに」
「じゃあいいよ、気にしないで。キコはそういうとき、マジで紳士なんだよね」
ほっとしていると、「チャイム鳴るよ」とキコくんが時計をかえりみて言った。「わ、やばい」とルリさんもはたとして、「じゃあまたっ」とふたりは教室を駆け出していく。
その背中を、ナミくんはぼんやりと見ていた。私の視線にも気づかないぐらいに。
それ以降、キコくんとルリさんがナミくんの元に来ると、ときおり三人は私を会話に誘うようになった。「ナミが高畑さんとつきあったら最高じゃない?」とルリさんが言ったとき、私が嫌悪を感じるヒマもなく、「それはないな」とナミくんがばっさり否定してくれた。
格好つけた様子もなく、本気で私は「ない」らしい。そういう男の子もいるのか、ときょとんとしてしまうと、「何だよ」とナミくんは怪訝そうにする。私は首を振り、「私もないと思う」と言って、「そっかあ」とルリさんは特に残念がる様子はなく笑った。
それと、この三人を私はずっと勝手にあだ名で認識していたけど、ナミくんは波葉くん、キコくんは紀琴くん、ルリさんは瑠璃海さんという名前だと知った。三人も私の舞凪という名前を知り、それぞれに呼んでくれるようになった。
五月の下旬に中間考査が行なわれ、それがどうにか落ち着いた頃のことだった。相変わらず昼休みをこの教室で過ごしていた紀琴くんと瑠璃海さんが、予鈴を合図に顔を上げた。
「次は帰りかな」と紀琴くんが言うと、「おう」と波葉くんはうなずく。瑠璃海さんは「またね、舞凪ちゃん」とこちらに手を振ってくれる。私がそれに笑みを返していると、紀琴くんが瑠璃海さんの手を取って「急ぐよ」と引っ張った。瑠璃海さんはスカートをひるがえしてそれについていく。
私はそんなふたりを見送り、波葉くんをちらりとしてから、教室のざわめきに紛れる声で言った。
「波葉くんって」
「ん?」
「好きなの?」
「は?」
「紀琴くんのこと」
いつも重そうにしているまぶたを大きく開き、波葉くんは私を見た。私は静かに波葉くんを見返す。
「なっ……に、言ってんだよ」
「違うの?」
「ちが……」
波葉くんは口ごもり、眉を寄せてうつむく。いつものふてぶてしい感じが萎縮して、当惑が見える。少し頬が染まっているようにも目に映って、それでこの人は、私のことを「ない」と言い切れたんだなと理解した。
「何かいいね」
「は?」
「好きとか。恋とか」
「……よくねえだろ」
「何で?」
「男同士だぞ」
私は首をかたむけ、「でも、私はどっちでもないから」とつぶやく。波葉くんは私に目をくれた。
「どっちでもない」
「うん」
「バイってこと?」
「それならどっちでもいいって言うでしょ」
「え、じゃあ──何だ? パンセク?」
「真逆かな。私は恋愛しないの。できないの」
「……できない」
「アセクシュアルって聞いたことない?」
波葉くんはしばし考え、「名前だけなら聞いたことある」といつになく真剣に答えた。
「ちゃんとは知らない。ノンセクとごっちゃな感じ」
「日本語だと無性愛って言うんだけどね。恋愛感情とか性的欲求がないの」
「ない……って、え、人間不信みたいな感じ?」
「そうじゃなくて、最初から存在しないの。家族も友達も好きだと思う。でも、恋愛として人を好きになることはない」
波葉くんは頬杖をつきなおし、ちょっと考えたあと、「なるほど」とうなずいた。
「それで、キコにも揺れなかったわけか」
「紀琴くん、優しいとは思うけどね」
「気にはなる?」
「恋愛ではないよ、ただ──いい人だよね」
波葉くんはちょっと咲い、「うん、キコはいい奴だ」とうなずいた。そのときチャイムが鳴り、私は慌てて教科書を取り出す。
紀琴くん。綺麗な男の子だし、優しい人だと思う。でも、やっぱり私は恋はできない。もし私に恋心があったら、好きになってたのかな、と思うけども。
やはりそれは、絶対に、私にはありえないことなのだ。
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