夏 – 波葉【2】
六月の半ば頃、全国的に梅雨入りすると、じとじとした雨の日が増えた。その朝も蒸した匂いが立ちこめる雨模様で、駅から高校まで傘をさした。
紀琴と瑠璃海と別れると、灰色がかった電気が灯って生徒が行き来する廊下を進み、肩の水滴をはらう。自分の教室に到着してドアを開けると、舞凪の席に集まっている女子たちがいた。
何だ。めずらしいな。
そんなことを思いつつ、俺がその隣の席に向かうと、「あ、来た」と女子連中はざわめき、なぜかさーっと舞凪の前から引いていった。
舞凪は何やら息をつき、「大丈夫か」と俺は訊いておく。「平気」と舞凪は答えたが、何やら俺を見る。「何だよ」と眉を寄せてみせると、舞凪は肩をすくめた。
「波葉くんとつきあってるのかって訊かれた」
俺は小さく失笑し、スクールバッグを横にかけると、「それは俺もキコとルリに言われるな」と席に着いた。
「そうなんだ。そんなふうに見えるのかな」
「見えないと思うけど、俺がクラスでまともに口きくのは舞凪くらいだな」
「……私も、話すのは波葉くんだけだけど」
「いっそつきあってることにしたらうるさくないかなー」
「ダミーみたいな感じ?」
「そう。いつか、俺はそういう女を探さないといけないしな」
「好きな人とつきあえばいいじゃない」
「キコのことより好きになるとか、絶望的だわ」
「紀琴くんのことより好きじゃないとダメなの?」
「超えてないと、キコ引きずってるだろ。それは相手が嫌だろ」
「ダミーにされる女の子も、かなり嫌な想いをすると思うけど」
少しむすっとしたものの、確かに舞凪の言う通りだろうか。ダミーだとばれなければいいが、それは、俺が紀琴を好きだとばれなければいいという話にもなる。
「まあ、いい奴がいたら俺は考えるよ」
「うん」
「舞凪は将来どうしようとかあんの? 恋愛できなくても、友婚とかあるじゃん」
「できる相手がいればよくても、わりと孤独死を覚悟してる」
「孤独死は嫌だな……」
「波葉くんには、その頃になっても、紀琴くんと瑠璃海さんがそばにいそうだけど」
「いるんだろうな。だから、あのふたりが俺の独り身なんて許さないだろ。つっても、カミングアウトは絶対嫌だからなー」
「嫌なの?」
「嫌だよ。何年隠し通してると思ってんだ」
「まあ、そっか」
「あのふたりが見合いの話とか持ってきたりするんだろ、どうせ。何だかんだで、俺の将来はそんなもんだと思う」
言いながらあくびをして、無造作に頬杖をつく。外の雨音が眠たい。
「とりあえず、またあの子たちに話しかけられたら、あきらめたほうがいいことは言っておく」
「適当に友達になってもらってもいいんじゃね?」
「適当な友達に疲れて、知り合いが少ない高校選んだのに」
「友達いらないの?」
「いらないわけじゃないけど」
「実はけっこう、キコと話してみたりしたくない?」
舞凪は訝しげに眉を寄せ、「紀琴くん? どうして」と首をかたむける。艶のあるボブカットが揺れる。
「俺らが話すようになったきっかけは、元はといえばキコだろ」
「そう、だけど……あれからあの同級生につきまとわれてるとか、そういうことも別にないんだし」
「そういうの、キコに言ってやったほうがいいとは思うぞ」
「え」
「キコ、けっこう舞凪のこと心配してるし。それが瑠璃海もさすがにおもしろくなさそうだし」
「……私、迷惑になってる?」
「そうじゃなくて。キコに『もう大丈夫だ』ってサインは出せってこと」
「サイン……」
「じゃないと、キコもかえってあれこれ考えて悩むわけ。義理に感じるかもしれないけどさ、キコはそういう奴なんだよ」
舞凪はやや困ったようにうつむき、「面倒ならいいよ」と俺がつけたすと「面倒とかじゃなくて」と舞凪は顔を上げないまま言う。
「私がそういうの報告するのを見るのも、瑠璃海さんは嫌じゃないかって」
「じゃ、ルリがいないとこで言えば?」
「あのふたり、いつも一緒じゃない」
「俺が言えば、少しぐらい別行動も取るだろ。キコと話しておきたいと思うなら、俺は舞凪に協力するし」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ……『もう大丈夫』ってことは、伝えておきたいかも」
「了解」
「伝えたら、紀琴くんはもう安心してくれるんだよね」
「たぶんな」
舞凪は息をついて、「それなら、伝えたほうがいいよね」とつぶやく。
「私、ほんとにあのとき様子おかしく見えたと思うから」
「ちなみに、マジで何もなかったんだよな?」
「なかったよ。同級生に手をつかまれたのが、すごく嫌だったけど」
「っそ。それなら、とりあえず俺は安心した」
舞凪はちょっと咲って、「ありがとう」と言った。
そのときチャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。出席を取ると、今日一日の予定を手短に語り、ホームルームはすぐに終わる。
俺は舞凪をうまくそそのかした自分を感じて、ずるいなあ、とまたあくびをした。教室の明かりが映った窓の向こうで、思わしくない雲がうごめいている。
六月が過ぎて七月に入ってすぐ、期末考査が行なわれた。
俺と紀琴と瑠璃海の頭は、みんな同じレベルだ。いつも一緒に勉強してきたのだから、自然とそうなる。だから、この高校進学は特に相談することもなく、担任にどこを勧められたかを話し合おうとしたとき、三人とも同じだったのでこの高校に決めた。
中間考査で確かにちょうどいいなと感じたし、期末考査もそれなりに手ごたえがあった。俺たちより聡明に見えた舞凪は、意外にも一生懸命になっていたけれど。
期末考査が落ち着いて、夏休みに入るまではほんの一瞬だ。その日は夏の快晴で、突き抜ける青に白雲が鮮やかだった。
騒々しい蝉も鳴きはじめた中、プールの授業も始まって、女子はこれの着替えにやたらと時間がかかる。瑠璃海も普段の体育のときから着替えが長いから、プールのときならたぶん紀琴とは過ごしていないと思った。
クーラーのきいた教室を出た俺は、めずらしく自分から紀琴のクラスにおもむき、案の定ひとりでヒマそうにしている紀琴を見つけた。
「キコ」
声をかけると、紀琴はちょっと驚いたように俺を見た。「どうしたの」と言われ、俺はなるべく無造作に華奢な腕をつかむと、「ちょっと来い」と紀琴を教室から引っ張り出す。
「え、何? 何かあったの?」
廊下に出て、前を行く俺についてきながらも、紀琴はそう尋ねてくる。「ちゃんと話しておいてほしいから」と俺は言うが、紀琴はわけが分からない顔しかしない。
まあ、そうだろうな。紀琴が舞凪を心配しているのは嘘ではない。しかし、これは俺のお節介だし、紀琴の心配も舞凪とふたりきりで話すほどではない。
舞凪はちゃんと、渡り廊下の真ん中で俺たちを待っていた。ここなら人の往来はだいぶ少ない。舞凪のすがたを認めた紀琴は、とまどったように俺を見た。
俺は笑顔を造った。
「あいつのこと、心配なんだろ?」
「え、何? ……何かあったの?」
「それは知らないけど」
「知らないって」
「まあ、舞凪はキコとふたりで話したいみたいだな」
「え……ナミは?」
「俺は教室戻ってる」
「いてもいいでしょ」
「舞凪が話したいのは紀琴だから」
「僕は──」
「心配じゃないなら、俺がそう言ってきてもいいけど」
紀琴は俺の笑顔を見つめる。そして、取りつくところがないものを感じたのか、首をかしげながら舞凪のほうへと歩き出した。俺は紀琴に背中を向けられたら、すっと笑みを消した。
……分かっている。俺は卑しい。
ガキの頃から紀琴が好きだった。ほんとに好きで、俺のものにしたくて、キスだってその先だってしたくて。
でも、紀琴に俺の手は届かない。奇妙なまやかしに誘って、男同士だなんて忘れさせて、一線を超えさせることもできない。
だって瑠璃海がいるから。
紀琴の瞳には瑠璃海しか映っていなくて、そんな紀琴を瑠璃海もまた、捕らえているから。
紀琴を好きだと思ったときから、俺は瑠璃海に嫉妬していた。
ふたりとも大事な幼なじみだと思っているのに、どこかでは、どうしようもなく許せないのだ。
そう、だからこんなのは──舞凪を使って、紀琴と瑠璃海を引っかきまわしたいだけ。
紀琴と舞凪が話しはじめると、俺は渡り廊下から身を引いて教室へと歩いていった。瑠璃海があのふたりを目撃するかは分からない。しないようには計らったが、確実ではない。見てしまえばいいのに、と俺は思うけど、それはどうなるか分からない。
何でだろう。何でこんなことをしているのだろう。
俺はバカじゃないのか?
なあ紀琴、お前が俺を見ないのだけは、絶対、間違いないことなのにな。
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