彼女の恋は凪いでいる-6

秋 – 紀琴【1】

 夏休みに入る前、舞凪さんとふたりで話した。
 もし瑠璃海が見かけたら不安になるだろうからと気が引けたけど、僕を渡り廊下に連れてきた波葉には有無を言わせない感じがあった。それに、舞凪さんが僕と話したいと言い出すことに、多少心配もあった。
 青空が窓でパノラマになる明るい渡り廊下で、僕と向かい合った舞凪さんは「ごめんね、何か」と言った。
「気にしないで。それより、何かあったの?」
 舞凪さんは僕を見て、小首をかしげたあとに「春のあのときのことなんだけど」と切り出した。どきりとした僕は、すぐにあのときの男を思い出して真剣な面持ちになる。
「まさか、あの男がまた──」
「それは、何にもない。大丈夫」
「ほんとに?」
「うん。友達に、あの人には彼女ができたって報告ももらってる」
「……そう、なんだ。簡単に気持ち変えるんだね」
「あの人が私に対して盛り上がったの、あのときだけだし。隣に座ったから話してただけなのにね」
 高校生になったばかりの春頃、僕は舞凪さんが男に何やら強引にされているところを助けた。
 その男は中学時代の同級生とのことだったけど、舞凪さんはだいぶ怯えていた。男は執心しているように見えたけれど──
「紀琴くんは」
 追想から我に返って、舞凪さんを見る。
「瑠璃海さんに誠実だから、簡単に好きな人を変えるとか、ちょっと分かんないよね」
「そう、かもしれないね」
「いいの。ただ、あの人についてはもう心配いらない。そういうの、ちゃんと伝えたほうがいいって波葉くんに言われて」
「ナミに?」
「紀琴くんは、瑠璃海さんが彼女だから。あんまり、私のこと気にかけなくてもいいよって」
「………、え、と──そんなに気にかけてるかな……」
「波葉くんは、瑠璃海さんがおもしろくなさそうって言ってたから……あ、もしかして、瑠璃海さんに相談とかされたのかな。分からないけど」
「そうか。だったら、僕こそごめんね。ルリも僕に直接言っていいのに」
「……好きだから、嫉妬みたいなことは言えないのかもね」
「だろうね。ありがとう。じゃあ、舞凪さんのことは安心しておくね」
「うん。それがいいと思う」
「何かあったときは相談していいからね」
「そのときは波葉くんに言うかも」
「はは、そっか。そうだね、舞凪さんはナミのほうが親しいか」
 そう言ったあと、僕は舞凪さんの淑やかな印象の瞳を見つめて、何となく言葉を続けた。
「舞凪さんは、ナミのこと何とも想ってないの?」
 すると、舞凪さんは小さく苦笑して、「友達だとは思うけどね」と言った。
「それ以上の特別な感情はないかな」
「僕とルリは、ナミと舞凪さんが、ってなったら嬉しいんだけどな」
 苦笑を表情に残すまま、舞凪さんはうつむく。瑠璃海のさらさらした細めの髪とは違い、舞凪さんはつやつやした黒髪だ。
「波葉くんには話してるんだけど」
「うん?」
「私、恋愛が分からない人だから」
「え」
「誰かを好きになるとかは、ないんだよね」
 僕はまばたきをした。
 どういうこと、と訊こうとした。けれど、そのときチャイムが鳴った。
 僕たちははっとして、慌ててその場を駆け出す。その足音が響くぐらい、校舎は一瞬にして静かになっていた。
 舞凪さんの教室は奥のほうだから、僕より大変だ。それでも舞凪さんは一度振り返り、「詳しいことは波葉くんに聞いて」と残して、教室へと走っていった。
 詳しいこと──を、波葉なら知っているのか。恋愛が分からない。ぎりぎり間に合った教室で、席に着いて反芻してみても、意味がよく飲みこめなかった。
 すぐ、夏休みになった。僕と瑠璃海と波葉は、相変わらず三人のうちの誰かの家で、クーラーに当たりながら勉強したりゲームしたりして過ごす。
 僕は昔から、瑠璃海と波葉がゲームで対戦して、互角に戦うのを見るのが好きだった。波葉の家に集まったその日も、ふたりは格闘ゲームで鎬を削っていて、僕は飲みほされた麦茶のお代わりをグラスにそそいで「水分ちゃんと採りながらね」なんて言う。
 今日は波葉が勝利したらしく、瑠璃海は悔しそうな声をあげて、波葉はガッツポーズをしていた。麦茶を一気飲みする波葉に、舞凪さんのことを訊きたいとは思っていても、瑠璃海の前ではその話題ははばかられた。
 波葉と話したいから先に帰ってて、なんて言うのも、瑠璃海にはおもしろくないだろう。どうしようかな、と思案した僕は、結局夕方にいったん帰宅し、夜に波葉に通話をかける手段を取った。
 そこで、今から話がしたいから訪ねていいかを確認し、「ご自由にどうぞ」と言われたので、同じマンションの波葉の家を訪問した。
 星がちかちかとまたたく夜になっても、空気には気だるい熱気がこもっている。マンション内のどこかの家の食事の匂いがする。
 八月に入って数日が過ぎていた。日中だと体温よりも気温が高くなる日さえあった。そういうときの大気は、釜茹でにかけられているみたいに脳を溶かして思考も停止させる。
 夏の虫の声が響くのを聴きながら、波葉の家のチャイムを鳴らした。「よお」と波葉がすぐに鍵を開けて顔を出し、「お邪魔します」と僕はその玄関に踏みこんだ。
「ルリは?」
「ナミと話したかったから」
「めずらしいじゃん」
「そんなことないよ」
「あるだろうが。ほんとにいいのか?」
「うん。その──舞凪さんのことだしね」
 波葉は肩をすくめて、突っかけていたスニーカーを脱いで、素足で自分の部屋に向かう。僕も靴を脱いでそれに続いた。
 クーラーのかかった波葉の部屋でふたりになると、「お茶かコーラ」と波葉は五百ミリリットルペットボトル用の小さな冷蔵庫から飲み物を取り出す。「お茶」と答え、僕は素直に緑茶のペットボトルを受け取った。
 波葉はコーラを開封してごくんと飲んでから、椅子に座った。僕はベッドサイドに腰かけ、同様にまずは喉を潤す。
「舞凪のことって?」
「いろいろ、訊きたいことはあるんだけど」
「興味あんの?」
「そういうのじゃないよ。というか、ナミってルリに相談とかされたの?」
「相談」
「僕が舞凪さんの心配するのが嫌だ……とか、そういうの」
「別に、ルリは何も言ってないぜ」
「そうなの?」と僕がまばたきをすると、「俺からはそう見えたけどな」と波葉は飄々と言った。
「……ルリを傷つけてたかな」
「そこまでじゃねえと思うけど。キコだって、ルリがほかの男の話するのは嫌だろ」
「そう……かな。僕はルリが揺らぐってそんなに考えないから」
「お熱いことで」
「女の子は違うよね。些細なことで不安になったりするかもしれない。謝らないと」
「謝る前に、舞凪のこともう気にすんなよ」
「それは舞凪さんとも話した。とにかく、ルリの前で舞凪さんとかあのときの男とか、そういう話はやめる」
「いいんじゃね」
「それに──僕が気をまわさなくても、舞凪さんには波葉がいるんだよね」
 波葉は笑いを噛み、「友達だけどな」と舞凪さんと同じことを言う。どうしてもこのふたりはそうなのかなあ、と思うと、僕としてはどうしても残念だ。
「それと、もうひとつ舞凪さんのことで」
「おう」
「詳しいことは波葉に聞いてって言われたんだけど、舞凪さん、『恋愛が分からない』って言ってて」
「うん」
「………、恋愛、しないとか。したくないとか。そんなじゃなくて、分からないって、何だろうって思うんだけど」
「舞凪はほんとに俺に聞いていいって言ったのか?」
「言ってた」
「そうか。じゃあ言っていいんだと思うけど、あいつはアセクシュアルっていう奴なんだ」
「アセク……シュアル」
「まあ、聞いたことないか。俺も舞凪に話されるまで知らなかったし」
「何、それ。病気?」
「それ、あいつの前で言うなよ。病気ではない。セクシュアルマイノリティのひとつかな」
「それって、同性愛とか、そういうのを指すんだっけ」
「だな。舞凪には恋愛感情とか性的欲望が『ない』んだ」
「え……」
「だから、日本語で言うと無性愛者。性愛が無いっていうセクシュアリティなんだ」
 僕は波葉を見つめた。波葉は笑みを浮かべ、特にまじめくさっていることはなかったものの、冗談を言っている様子もない。
 無性愛者。性愛が無いだなんて、そんなことありえるのか? そんなの、勝手に初めから備わっているものなのに。
 恋愛が分からないと、確かに舞凪さんは言った。欠けていたら、人を好きだと感じることもなく、恋愛が分からないだろう。
 だが、僕にはそのことが分からない。物心ついたときには、僕は瑠璃海が好きで、お嫁さんにするんだなんて子供心に想っていた。そういう、自然と発芽するものがないなんて……どんな、感覚なのだろう。
「キコはずっとルリが好きだから」
 ふと波葉の声が優しくなって、僕は顔を上げる。
「恋愛が分からないなんてほうが、分からないだろうけど。あいつを偏見はしないでやってくれ」
「……そう、だね。うん。偏見はしないよ」
「よかった」
「じゃあ──あんまり、ナミとの仲を期待するのも、舞凪さんには苦痛なのかな」
「そういうこと」
「ナミのほうは、いいの? 舞凪さん……」
「だーかーらっ、俺にはあいつは友達だっつってんだろ」
「じゃあ、好きな人はいないの?」
「いたらとっとと報告して、あれこれ協力させてるし」
「そっか。そのときは協力させてよね。僕はナミにも幸せになってほしい」
 波葉は柔らかく微笑み、「サンキュ」と言った。僕も笑みを作り、手の中のお茶を飲む。
 僕は瑠璃海と幸せだ。ナミもきっといい彼女を見つける。そんな中で、舞凪さんはどうするのだろう。ずっとひとりなのか? それを寂しいと感じるのは、舞凪さんには迷惑な同情なのだろうか。
 お盆には僕たちはそれぞれ帰省するので、三人ではいられずに、ばらばらになる。親戚一同と祖父母の家でゆっくりして、それから地元に戻ると、両親の実家が近場でひと足先に帰宅していた瑠璃海が、「寂しかったー」と甘えてきた。
 波葉が帰ってくるのは、明日の朝ということだったし、「泊まる?」と訊くと瑠璃海はこくんとした。そんなわけで、その夜は僕は瑠璃海と過ごし、零時、家族も寝静まったようなので同じベッドにもぐりこんだ。
 暗闇で言葉をぽつりぽつりと交わしつつ、自然と手をつないで、やがて沈黙になると僕は瑠璃海にキスをした。瑠璃海は僕の手をぎゅっと握って、応えてくれる。
 瑠璃海のルームウェアのボタンを胸元まで開くと、肩をたどって鎖骨に甘く歯を立てた。瑠璃海のかすかな声がかわいい。僕たちはそのまま、ふとんの中で物音は殺して愛しあった。
 瑠璃海の奥で、コンドームの中に吐き出した僕は、彼女を抱きしめてシーツに虚脱した。
 恋愛感情がない。性的欲望もない。そんなの、僕には分かってあげることはできない。それが何だか喉にちくりと引っかかるのは、どうしてだろう。

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