彼女の恋は凪いでいる-8

冬 – 瑠璃海【1】

 紀琴の心があたしから揺らぐなんて、考えてみたこともなかった。
 自信満々だったというより、紀琴に想われているのはもはや当たり前だった。あたしは子供の頃から紀琴が好きで、紀琴もあたしのことがずっと好きで、それが自然だったから。
 でも、紀琴は舞凪ちゃんに言っていた、ほかの人を好きになったらどうしようと。……舞凪ちゃんを好きになっているかもしれないと。
 十一月の初旬頃、登校してクラスメイトと話していると、「瑠璃海の彼氏」のその中のひとりが廊下をしめした。「え、どこ?」とあたしは廊下を向いて、すると確かに紀琴がいた──どこか思いつめた表情で、そのあとを舞凪ちゃんが歩いている。
「女子一緒じゃん」と友達は言い、あたしも気になった。「ちょっと見てくる」と席を立つと、「何かあれば聞くからー」と友達は言ってくれて、あたしはそれににこっとしてから教室を出た。
 ふたりが向かったのは渡り廊下で、あたしは引き戸の陰でふたりを見守った。最初は相変わらず舞凪ちゃんを心配する話で、それだけでも何か嫌だなあとは感じたけれど、そのあと急に紀琴はほかに好きな人ができたらという話を出して、とまどっている舞凪ちゃんに好きになってるかもと伝えた。
 心臓に鉄槌が落下したみたいだった。鼓動がつぶれて、息遣いが痙攣気味になる。
 何? 紀琴、何言ってるの? さっき一緒に登校してるときだって、いつも通りだったじゃない。
 舞凪ちゃんが好き、なんて……どんなに紀琴が舞凪ちゃんを心配していても、それだけは考えなかった。それくらい、紀琴の気持ちは信じていた。
 それなのに──
 舞凪ちゃんが、困っている歯切れの悪い返事をしている途中で、あたしは見つかる前に教室に戻った。胸のあたりが、雷雲みたいにもやもやと黒く堕ちていく。紀琴への失望と舞凪ちゃんへの嫉妬がぐるぐる錯綜する。
「瑠璃海、大丈夫?」と友達に心配されたけど、「平気。何でもなかった」と目は伏せてどうにか嘘をついた。
 そのうちチャイムが鳴って、担任の先生が現れてホームルームを始める。やがて一時間目に入ったけど、あたしは上の空だった。
 紀琴、あたしを振るの? 舞凪ちゃんの返事は色よくなかったから、都合よくつきあいつづけるの? どっちも、紀琴が起こすかもしれない行動とは思えない。
 長いあいだ、あたしたちは一緒だったじゃない。何で高校になって初めて知り合った舞凪ちゃんが、邪魔してくるの? あの子の何が、あたしを裏切るほど紀琴の心を動かしたっていうの?
「ルリ」
 名前を呼ばれて、はたと顔を上げると、目の前に紀琴がいた。ゆっくりまばたきをして、視界の先では今日の日直の子が黒板を消しているので、それで一時間目がいつのまにか終わっていたことを知る。
 あたしは何事もなかったように綺麗な顔をしている紀琴を見つめた。さっきの見たよ、と言いたかった。どういうことなのか問いただしたかった。でも、こちらから切り出したら、それは紀琴に別れを言い出す切っかけになる気がして、飲みこんだ。
「どうかした?」
 紀琴は首をかたむけ、柔らかい髪を揺らす。あたしはかぶりを振って「ナミのとこ行く?」と訊いた。「ああ、それは」と紀琴は目線をそらして言った。
「もう、あんまり心配しなくていいのかも」
「えっ、でも──」
「僕たち、ナミが友達も作らないから様子見にいってたけど、もう舞凪さんがいるんだし」
 紀琴の口から舞凪ちゃんの名前がこぼれただけで、喉に親指が食いこむようにぐっと締めつけられる。
「僕たちが顔出さないほうが、ふたりで話せてるみたいだよ」
「……そっ、か」
 違う、でしょ。そんなの言い訳でしょ。紀琴は自分を受け入れなかった舞凪ちゃんの顔を見たくないだけじゃない。
 そう、たぶん紀琴は振られたと思う。だったら、あたしは何も気にすることはない。紀琴がまたこちらを見てくれるよう、頑張ればいい。
 そしたら元通りだ。だから、あたしは朝に見聞きしたことをただ忘れたらいい。
 ──果たして、紀琴は何も変わることなく、あたしとつきあいつづけた。優しい。咲ってくれる。触れてくれる。
 波葉に会いにいくためにたまに六組に行って、それが舞凪ちゃんがいる前になったとしても、紀琴の様子に変化はなかった。あの渡り廊下の光景さえ見なかったら、あたしは何も気づかず、本当に、何も変わらなかったかもしれない。
 十二月の期末考査が終わると、学生も世間に追いついてクリスマスに染まる。
 毎年、あたしはクリスマスは紀琴と波葉と三人で過ごす。紀琴とあたしがつきあいはじめても、それに変化はなかった。でも、あたしの部屋にふたりでいたとき、紀琴が「今年はふたりだけで過ごす?」と言った。
 本来なら嬉しかったはずだし、そうしたいと言えば波葉も遠慮するなと笑ってくれただろう。なのに、「急にナミを仲間外れにしなくていいじゃん」とあたしは口答えしてしまった。
「仲間外れ、ってわけじゃないけど」
 ちょっと困ったような紀琴に、「毎年三人だったから、三人でいいでしょ」とあたしは投げやりに返す。
「ルリはそれでいいの?」
「あたしが決めなきゃいけないの?」
「いや、ルリが三人でもよければ、三人で──」
 知ってる。分かってる。三人だと、舞凪ちゃんを呼んだほうがいいかなって、そうなるからでしょ。
 あたしがむくれてそっぽを向くと、「ルリ」と紀琴はあたしの手に手を重ねた。あたしは唇を噛んで、それを振りはらいたい衝動をこらえる。
「僕は今まで通り、三人がいいと思ったけど」
「………」
「ナミが気にしてくれたから。もう高校生だし、ルリとデートに行かなくていいのかって」
「……ナミに言われたからじゃん」
「え」
「キコが自分であたしとふたりがいいって思ってくれたら嬉しいけど、ナミに言われただけじゃん」
「僕は──」
「何だったら、そもそも一緒じゃなくてもいいよ。あたし、友達もいるもん」
 口にしたあとで、さすがに言い過ぎたかと紀琴を見た。紀琴は哀しそうな顔を伏せ、「……そっか」とつぶやいた。
 でも、あたしの視線に気づいたのかすぐ顔を上げて微笑み、重ねた手も離した。
「ルリが過ごしたいように過ごすのが一番だから、僕のことは気にしないで」
 そんな傷ついた笑顔をされると、心にちくりと針が刺さる。
 紀琴も、一生懸命なのかもしれない。舞凪ちゃんに揺らいだ心を、あたしに向かうよう戻すために。それに協力しなかったら、紀琴の心はあたしから離れたままだ。
「……あたしは」
「うん?」
「三人が、いい」
「………、うん」
「あたしと、キコと、ナミの三人がいい」
 そして、四人になったら嫌だ──。
 そこまで口にしていいのか躊躇っていると、「じゃあ、ナミにクリスマス空けといてもらうように言わなきゃね」とあたしの頭をぽんぽんとした。こくんとすると、そのまま紀琴はあたしを胸に抱き寄せる。
「キコ」
「ん?」
「ごめん」
「え、何が」
「……何となく」
「はは、ルリは何も悪くないよ」
 紀琴の匂いに顔を伏せ、あたし性格悪くなってるよ、と思った。紀琴の口調とか物言いを揚げ足に取って、ひとりで怒ることが増えた。
 紀琴は言い返さない。怒り返してきて、喧嘩になることはない。
 紀琴はそういう人だ。よく知っているのに、機嫌を取るみたいに何も感情を出してくれないと、あたしはまたいらだちと不安を綯い混ぜにしてしまう。
 そして、クリスマスイヴからクリスマスにかけた夜は、あたしの家で例年通り紀琴と波葉と過ごした。ケーキやローストチキンを三人で食べて、プレゼントを交換すると、あたしと波葉はゲームの対戦を始めて紀琴はそれを穏やかに観戦した。
 いつのまにか紀琴の声がしなくなったと思ったら、とっくに零時もまわっていて、紀琴はあたしのベッドにもたれて眠っていた。
「キコ寝てる」
 レーシングゲームで勝利して、ふと振り返ったあたしは初めて気づいてそう言った。
「ん? あ、ほんとだ」
 言いながら、波葉はお菓子の残りのビスケットを食べている。
「あたしたちも寝る?」
「てか、俺帰るわ」
「え、泊まってけばいいじゃん」
「キコと何かしないのか?」
「しないよ! キコ寝てるし」
「そうか。じゃあ泊まろうかなー」
「眠い?」
「いや、そんなに」
「もう一戦する?」
「してもいいけど、お前、俺らのプレゼント見てないじゃん」
「え? あ……」
「俺からは何か……あれだわ、うさぎのマスコット的な」
「見る前に言わないでよ。てか、マスコットって……そういうの反応に困るけど」
「キコが気合入れてたから、俺は受け狙いでいいかなって」
「一緒に選んだの?」
「うん。見てみれば」
 あたしはコントローラーを置くと、紀琴と波葉にもらったプレゼントをたぐりよせた。
「俺こっち」と波葉が指さしたほうを開けると、ふかふかしたピンクのうさぎのマスコットが出てきた。「え、普通にかわいいじゃん」と言ってしまうと、「百均ではないからな」と波葉は自慢げに応じ、あたしはつい笑う。
 そして、もうひとつの紀琴のプレゼントをラッピングから取り出すと、小さな木箱が入っていた。アクセかな、とは思ったけれど、開いてみたら指輪だったからびっくりした。
「指輪だよ」
「うん、指輪選んでた」
「……何、で。あたし──」
「『ルリとずっと一緒にいたいから』って言ってた」
 あたしは紀琴の寝顔を振り返る。
 何で。どうして、そんなに優しいの。あたし、ここ最近は態度も悪かった。紀琴の心を取り戻すどころか、あきれられても仕方なかったのに。
「……ナミ」
「ん?」
「あたしね、知ってるの」
「知ってるとは」
「キコ、もしかしたら舞凪ちゃんが好きなのかもしれない」
 波葉は一度まばたきして、「いや、それは──」と言いかけたけど、「見たから」とあたしはさえぎる。
「キコと舞凪ちゃんが話してるの見たの」
「えっ──」
「そのとき、何か……キコが舞凪ちゃんに告白みたいなのしてて」
「……舞凪は?」
「あたし最後まで聞かなかったけど、たぶん、断った」
「そうか。……まあ、そうだよな」
「でも、キコの中ではどうなのかな。やっぱり、あたしより舞凪ちゃんのほうが大きいのかな。あたしのことなんか──」
「ルリ」と波葉はめずらしい柔らかい口ぶりで、あたしの言葉を止める。
「大丈夫だよ、キコはルリのことが一番好きだし、そもそも舞凪がキコのことは何とも想ってない」
「………、」
「キコは……まあ、ルリも知ってるけど、舞凪のこと心配してたじゃん。そのせいで自分で自分の気持ちに懐疑的になっただけで、ちゃんとルリのこと想ってるよ」
「キコがそう言ったの?」
「いや、キコとルリをずっと見てきた俺の意見だけど」
「……そっちのが信憑性あるわ」
「キコはルリしか見てないよ。それ以外の奴なんて、眼中にない」
「ほんと?」
「キコもそれを証明したいから、このプレゼントなんだろ」
 あたしは木箱の中の指輪を見つめた。シルバーの細身の指輪だ。そっとそれを取り出し、どの指か迷いかけたけど、やっぱり左薬指にはめてみるとぴったりだった。
「ナミってさ」
「ん?」
「舞凪ちゃんと仲いいよね」
「友達な」
「はいはい。あたし、舞凪ちゃんと一度話してみようかな」
「話」
「ちゃんと話したことないし。舞凪ちゃんは、あたしと話すの嫌かな?」
「別にいいんじゃね。じゃ、俺が取り持つ?」
「それを頼もうと思った」
 波葉は笑ってあたしを小突くと、「三学期になったら伝えとくわ」と約束してくれた。

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