彼女の恋は凪いでいる-9

冬 – 瑠璃海【2】

 そのあと、あたしと波葉はゲームを再開して、三時ぐらいまで戦ってやっと眠くなってきた。波葉は床に転がり、あたしは紀琴の隣で彼の肩にもたれた。そっと手をつないでみると、無意識だろうけど、紀琴は握り返してくれた。
 あたしも紀琴とずっと一緒にいたい。だから、もやもやするなら舞凪ちゃんと話すし、そのあと必要だと思ったら紀琴とも話す。
 年を越してまもなく、三学期が始まった。舞凪ちゃんの放課後を抑えてもらった報告が、波葉からスマホに入った日、あたしは紀琴には今日は友達とお茶してくねと小さく嘘をついた。
 友達と放課後にお茶するのは、ときおりあることだったから、紀琴は疑ったふうもなく了承してくれた。その日の放課後、紀琴と波葉が合流して帰宅するのを見送り、あたしは六組の教室に向かった。
 舞凪ちゃんは教室にいて、席に着いてスマホを見ていた。そこに近寄り、「何見てるの」と声をかけると、舞凪ちゃんは顔を上げて「小説だけど」と答える。基本、読む本は漫画ばっかりのあたしは「そっか」と言っておき、「今からいい?」と訊いた。
 舞凪ちゃんはうなずき、席を立ってスクールバッグを提げる。
「波葉くんには、話があるって聞いてるけど」
「あえてしたい話があるわけではないけど……逆に、それでゆっくり話したことなかったから。舞凪ちゃんは、あたしに話したいこととかある?」
「え、と──ああ、紀琴くんのこと、悪いかなって気持ちはあるから、謝らないとって」
 歩き出しながらどきりとして、「キコの……こと、悪い、って」とちょっとつっかえながら問い返す。
「心配させてたから。瑠璃海さんとしては、嫌だろうなって。それはごめんなさい」
「……そういうとこは、キコらしさだから」
 教室を出ながらあたしが言うと、舞凪ちゃんは隣に並んでこちらを見つめると、「すごいね」とつぶやいた。
「え」
「瑠璃海さんのそういうところ、すごいと思う。普通、もっと短絡的に嫉妬しそうだから」
「……まあ、ぜんぜん嫉妬しないということは」
「うん。でも、それで感情的にならないから、紀琴くんも安心するのかもね」
「安心……」
「いいよね。瑠璃海さんと紀琴さんのふたりは、見ていてそう思う」
「………、舞凪ちゃんは、好きな人とか」
「いないよ」
「ナミはほんとに?」
「友達だよ」
「タイプじゃない?」
「そういうのじゃないけど」
「キコみたいなほうがいい?」
「そういうわけでも」
「じゃあ──」
「瑠璃海さん」
「え、うん」
「私は、恋愛っていうのをしないから」
 きょとんと舞凪ちゃんを見てしまう。
 階段を降りていたあたしたちは、そのとき一階に到着した。靴箱は目の前で、いったんあたしと舞凪ちゃんは自分のクラスの靴箱の並びに別れる。
 靴を履き替えながら、恋愛をしない、という舞凪ちゃんの言葉を反芻していた。意味がよく分からないけど、その理由って訊いていいのかな──
 そんなことを思いつつ、昇降口でまた舞凪ちゃんと並んで校門へと歩き出す。
「波葉くんと紀琴くんは知ってるんだけど」
 ふと舞凪ちゃんがそんなふうに切り出し、あたしはその横顔を見る。
「私、アセクシュアルっていう人なの」
「え……アセ……ク?」
「無性愛って意味なんだけど、恋愛感情を持つことがないの。性的なことは、ちょっと気持ち悪い」
「………、」
「だから、波葉くんと友達以上にはならないし、紀琴くんの魅力も瑠璃海さんみたいに分かってあげられない」
「人を……好きになれないの?」
「恋愛の意味では。友達や家族は大切に想ってる」
 あたしは同じ制服が行き交う駅までの道のりを見つめた。
 アセクシュアル。初めて聞く言葉だった。それを聞けば、舞凪ちゃんのことを理解できる? そう思ったあたしは、「もっときちんと話してもらっていいかな」と舞凪ちゃんに真剣な目を向けた。舞凪ちゃんは少し意外だったようだけど、「聞いてくれるなら」とうなずいた。
 駅前のカフェに入ると、あたしは舞凪ちゃんの今までのことをけっこう根掘り葉掘り聞いた。子供の頃から、人と手をつなぐのが嫌いだったこと。思春期、好きな人の話になる女子の輪がつらかったこと。春、紀琴が助けてくれたときも、押してくる相手から逃げたところだったことまで。
 あたしはとっさに出てくる言葉がなくて、「そっか」とだけ言ってうなずいて、お代わりもぬるくなったカフェモカをすする。しかし、「冷たい人間に感じるでしょう?」と伏し目になった舞凪ちゃんには、「そんなことないよ」と首を横に振った。
「冷たかったら、ナミもキコも舞凪ちゃんと仲良くしないよ」
「そう、かな」
「そうだよ! 冷たさで言ったら、ナミだってすごいよ。中学のとき、告白されたその場で『あんたの顔がない』とか言ったことあるんだよ」
「え……それはひどいかも」
「でしょ。あたしがその子をなぐさめても、その子は逆切れしてくるし。あんたは仲良くしてもらってんじゃんとか」
「瑠璃海さんは紀琴くんとつきあってるのに?」
「そう。ナミとかただの幼なじみだっての」
 あたしがむくれると、舞凪ちゃんはわずかだけどくすりと咲った。その笑みを見て、「舞凪ちゃん、高校では友達作らないって言ってたけど」とあたしは冷めたカフェモカをスプーンで混ぜる。
「あたしは、舞凪ちゃんと友達になれたらいいなと思う。というか、今そう思った」
「え」
「友達ならつらくないんだよね?」
「ま、まあ」
「ナミだけじゃなくてさ、女友達もいたっていいじゃん。舞凪ちゃんが恋バナ苦手なら、あたしも振らないし。高校時代に友達作らないなんて、もったいないよ」
「でも──」
「だから、今度休みに一緒に遊ぼ? これ約束だからね。決まりだから」
「瑠璃海さんは、いいの?」
「嫌だったら提案しない」
「そ、う……でも私、本当につまらないと思うけど」
「そんなことないよ。恋バナできなきゃつまんないとか、そういう奴のが実はつまんないんだから」
 あたしの言葉に舞凪ちゃんはまじろいでから、少しはにかむようにしてこくんとした。「よしっ」と言ってスマホを取り出したあたしは、「どういうとこで遊びたいか決めよっ」とスマホからの情報片手に舞凪ちゃんと相談を始めた。
 どんなふうに過ごすか予定が決まり、やっと舞凪ちゃんと別れて電車に乗った頃には、もう空は暗くなっていた。
 紀琴からメッセが届いていて、『まだ帰ってこないっておばさんから連絡が来たよ』とあったので、慌ててまずはおかあさんに連絡しておいた。すると『キコくんに駅まで迎えにいってもらうから。』と返ってきて、紀琴からも『今から迎えにいくね』とメッセが来た。
 舞凪ちゃんとたくさん話をして、急に気持ちが楽になっていた。舞凪ちゃんが、けして敵ではないことが分かったおかげかもしれない。無性愛だからとかじゃなく、あの子が純粋に、あたしと紀琴を応援してくれているのは感じ取れた。
 無性愛、というのをちょっとだけスマホで検索にかけてみた。表示されたリンクを適当に開いて、読んでいってみる。自分は無性愛者だと開き直れる人もいる。逆に、人を愛せない孤独を覚える人もいる。舞凪ちゃんは──受け入れている、とは感じた。
 寂しくないのかな、とちらりと思った。あたしにはずっと、紀琴と波葉がいた。ひとりになんてなったことはない。
 もし、あたしに紀琴も波葉もいなかったら? ひとりで生きてきて、ひとりで生きていくとしたら? 正直、耐えられるか分からない。
 最寄り駅に到着して電車を降りると、一月中旬の冷気に身がすくんだ。マフラーを結びなおし、ホームを出て改札をICカードで抜ける。
「ルリ」といつもの声がかかってそちらを向くと、コートを着た紀琴が手を掲げて駆け寄ってきた。あたしは紀琴を見上げてそのなごやかな瞳を見つめたあと、何となく、その胸に額をあてた。
「ルリ?」
「……舞凪ちゃんと、お茶してた」
「えっ、そうだったの?」
「いろいろ聞いた」
「いろいろ──」
「で、今度休みに遊ぶことになった」
 紀琴はしばし反応しなかったものの、ふと笑みをもらすとあたしの頭を優しく撫でる。
「仲良くなれた?」
「たぶん」
「そっか」
「あたしね」
「うん」
「知ってるの」
「え」
「キコが舞凪ちゃんを気にしてるの」
「えっ──」
「でもあたしはキコが好きだし、一緒にいてほしいし」
「ルリ……」
「ずっと、一緒にいたいの」
 紀琴は黙ってだけど、あたしの左手を取って強く握ってくれた。「だからね」とあたしは紀琴に顔を上げる。
「あたしが舞凪ちゃんの友達になる」
「ルリが?」
「紀琴が心配しなくていいくらい、あたしが舞凪ちゃんと仲良くなる」
 紀琴はあたしをじっと見つめ、穏やかに微笑むと「お願いする」と言ってくれた。あたしはこくりとして、笑顔になると「寒いから帰ろっ」と紀琴を引っ張った。
 息が白くこぼれ、ふわりと消える。紀琴はあたしの隣に並び、手をつなぐまま、一緒に帰り道を歩みはじめた。
 舞凪ちゃんと遊んだのは、二月の学年末考査が終わってからだった。一月の時点で「めっちゃ先じゃない?」とあたしが言うと、「私、無理にこの高校来たから、勉強しないと不安なの」と舞凪ちゃんは恐々とした声で言っていた。
 そういえば、この高校はわりと偏差値の高い進学校だった。あたしは紀琴と波葉と三人で切磋琢磨で勉強するから、そんなにレベルが高いとも感じないけど、舞凪ちゃんの邪魔するのもあれなのでおとなしく二月を待った。
 そして、二月の二度目の土曜日に大きな駅の中央改札で待ち合わせて、あたしたちは思いっきり遊びまわった。
 そんなふうに過ごしながら、舞凪ちゃんが初めて声を出して笑うのを見た。「笑えるじゃん!」とあたしが覗きこむと、「楽しければ笑うよ」と舞凪ちゃんは言って、ああ、ちゃんとこの子の友達になれそうだ、と思った。
 舞凪ちゃんは紀琴と波葉の話も聞いてくれるのが、あたしも嬉しかった。昔、紀琴か波葉かどっちかにしなよと言われることがあった。両天秤なんて言い方をされることもあった。紀琴とつきあいはじめても、波葉とも仲はいいから妬まれたりした。「ナミに彼女できたらいいんだけどねえ」とあたしが言うと、「いつかいい人を紹介してくれるよ」と舞凪ちゃんは言った。
「瑠璃海さんも、紀琴くんといつまでも仲良くね」
 舞凪ちゃんはそう微笑んで、あたしは「もちろん!」とにっこりした。あたしの答えに舞凪ちゃんも笑顔になって、その温かい瞳に、あ、と思った。
 無性愛って寂しくないのかな、と思った。愛も性もなく、ひとりなんて、あたしなら耐えられない、って。でも、そうじゃないんだ。誰も愛さない。誰も愛せない。けれども、それで寂しいとかひとりとかっていうのは、勝手な決めつけだ。
 この子はすごくいい子で、友達や家族がいて、そこに恋愛がないだけで何だっていうの?
 変わらないんだ。あたしと何にも変わらない。
 彼女の恋は凪いでいる。
 ただそれだけで、この子はどこにだっている、温かい心を持った普通の子なんだ。

 FIN

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