Honey Marry-1

かわいい弟【1】

「二十三時まわるよ。電車、大丈夫?」
 ベッドに寝転がって、無心にスマホをいじっていた彩季あやきが、床でポッキーをつまみながら漫画を読んでいたあたしに、ふとそんな声をかける。あたしは顔を上げて足元のスマホをたぐり寄せると、“22:54”という表示を確認した。
 ぱたん、と本をローテーブルに置くと、ぬるくなったペットボトルのお茶を飲む。彩季はスマホゲームから顔を上げない。
「時間経つの早いわー」
 冷房の風がまわる空中に、何気なくつぶやくと、「何もしてないのにね」と彩季のクールな声が返ってくる。
「ほんとに何もしてないよ。一緒にいるだけで、いつもうちらって何もしないよ」
「何かしたいの?」
「いや、気楽でいい。あー、今日もこれから地元まで電車かあ。めんどいなあ」
「泊まるのは勝手だけど、ベッドはあたしのだから」
「帰りますよ、はいはい。ちょっと待って、地味にポッキー食い過ぎた」
「お徳用買うから食べすぎるんでしょ」
「安かったもんは仕方ない。ふう、駅まで歩いたら腹ごなしになるかな」
 そう言って深呼吸し、あたしは立ち上がる。読んでいた本を手に取ると、律儀に巻数が並べてある本棚に戻しておく。彩季もゲームをキリをつけて、ようやく顔を上げる。
 赤みがかった茶髪のボブ、気の強そうな吊り目、ざくざく言ってくる快活な口。鼻筋や顎の線はなめらかで綺麗だ。
 たまに告ってくる男の子はいるみたいだけど、彩季自身は、中学卒業を機に始まった遠恋をいまだに継続している。相手の男の子は現在も海外にいて、大学を卒業したら彩季を迎えにくると言っているらしい。なかなかの純愛だ。
「美希音さー、しょっちゅうあたしんとこから終電近いけど、ちかいくんに文句言われないの?」
 シーツの上であぐらをかく彩季に言われて、「チカの言うこと聞いてたら、キリがないもん」とあたしはペットボトルを空にする。
「誓くんも不憫だなあ」
「何で?」
「不憫だなあ」
「だから、何で?」
 彩季はそれ以上言わずに首を横に振り、ペットボトルの紅茶を飲む。何だよ、とあたしはむくれる。
 誓というのはあたしの幼なじみで、大学生になった今でも実家が隣同士のせいで、つきあいが続いている男の子だ。
 ここは彩季がひとり暮らしする部屋だ。彩季はバイトと親の仕送りで、大学生になった今年の春からここに住んでいる。最寄り駅が大学と同じで、ついあたしは大学が終わるとここに立ち寄って、だらだらと過ごしてしまう。
 妙に揃った漫画、ネット環境、テレビゲームなど、あたしにとってはネカフェのような場所なのだ。おまけに近くに二十四時まで営業しているスーパーもある。コンビニでなくスーパーというのがお財布に優しい。
 当然、あたしもひとり暮らしに憧れてくるのだけど、両親が寂しがるので、結局実家暮らしをしている。
「気をつけて帰れよ。あんたも女子なんだから」
 五分くらいで荷物をまとめると、玄関まで彩季が見送ってくれる。「んー」と答えながら靴を履き、ノートやレポートが入ったトートバックを肩にかけなおす。
「じゃあ、また明日ね」
 出る前にそう言うと、彩季は手を振って、あたしは鍵を開けてドアを開いた。
 九月下旬になって、ようやく夜なら、外に出た途端に包みこんでくるようだった熱気が襲ってこなくなった。廊下に出ると白い電燈が灯る下を抜け、階段に出ると二階から一階に降りる。
 夜風がするりと頬を撫で、右肩でひとつにまとめているみつあみを揺らす。駅まで歩いて約二十分、終電は零時前だからそんなに焦って歩くことはないけど、夜道なので急いでおく。
 夜空に月が出ているのを見つけながら、あの子は今日も起きて待ってるのかなあ、と考える。
 終電近い電車は、酔ったサラリーマンと水商売のおねえさんでけっこう酒臭い。乗客は寝るか、もしくはスマホやタブレットをいじっている。あたしもSNSをチェックしながら、ときおり扉の上に表示されている次の駅を確認する。
 あたしはいつも、各停に乗って帰る。快速に乗ったほうがもちろん早いけど、そしたら混んでいて座れないし、どのみち最寄り駅近くで各停に乗り換えなくてはならない。途中で別の線に乗り換えることもないので、遅くなっても、この路線に乗れば家には帰れるのは助かる。
 窓の向こうにちらちら残っていた光が少なくなって、ベッドタウンに入るとスマホの画面を落として、トートバッグからIC定期を取り出した。降りる駅は小さいのだけど、住宅地の真ん中にあるから、びっくりするほどの人数が降車する。それに混ざってホームと改札を抜けると、また夜道なので早足で十分ぐらい歩いて、やっと家に面した広い道路に出る。
「ただいまー」
 鍵をまわしてそう言いながらドアを開けると、たいていはおとうさんもおかあさんもまだ起きている。今日も「またこんな時間に」と顔を出したおかあさんにあきれられて、「無断外泊よりいいでしょ」とあたしはごまかして笑った。
「ミキちゃんが外泊するなんて、どうせチカくんとでしょ。だったら、夜道で襲われるより外泊のほうがよっぽど安心──」
「いや、何でチカよ」
「違うの?」
「彩季と外泊するほうがまだあるわ」
「毎日彩季ちゃんのお部屋にお邪魔してて、大丈夫?」
「無言でひたすら漫画読んだりしてるだけだよ。あ、ポッキー少し持ってるけど、いる?」
「おつまみにする」
「おかあさんこそ、またおとうさんと飲んでるじゃん」
 言いながら、お徳用ポッキーをトートバッグから取り出して、おかあさんに渡す。
「適度ならお酒はいいものなの。早く寝なさいね」
「シャワー浴びたらすぐ寝るー。眠たい」
 ぼやいてあくびをしながら、廊下の突き当たりの階段で二階に上がる。
 部屋に入ると電気をつけ、トートバッグをベッドにおろして、エアコンのドライをかける。スマホを充電につなぐとき、時刻を見ると、零時をまわっていた。さっさと寝よ、と着替えのルームウェアを抱えて部屋を出ると、隣の部屋から人影が覗いていて笑ってしまう。
「ナオ。ただいま」
 あたしに声をかけられて、人影の肩が揺れて、そうっと弟の尚里がすがたを現す。もうパジャマだけど、きっと、いつものようにあたしの帰宅を待っていたのだろう。
「おかえりなさい」と尚里はあたしの前に来ると、暗目でもぱっちり大きな瞳にあたしを映す。中学二年生にしてはまだ目覚ましく背が伸びていなくて、目線はあたしのほうが高い。
「今日も起きてたの?」
「ん、うん。おねえちゃんが帰ってこないと心配だから」
「あたしを襲うバカもいないと思うんだけどなー」
「そ、そんなことないよっ。おねえちゃんなら危ないよ」
「はは。ありがと。もう大丈夫だから、早く寝な」
 あたしに頭をくしゃくしゃとされた尚里は、素直にこくんとすると、部屋の前に戻る。一度あたしを振り返った尚里に、「おやすみ」と言うと、尚里ははにかみながら微笑んで、「おやすみなさい」と部屋に入った。
 相変わらず、我が弟ながら破壊的にかわいい。かわいくて、甘やかしすぎかなと反省するときもあるけれど、やっぱりかわいい。
 あたしと尚里に、血のつながりはない。おとうさんはあたしを連れて、おかあさんは尚里を連れて、ふたりは九年前に再婚した。あたしが十歳のときだ。
 あたしの実のおかあさんは、あたしが幼い頃に子宮を悪くして亡くなってしまった。昔、おとうさんはしょっちゅう泣いていた。あたしを抱きしめて、せめておかあさんがあたしを残すことができてよかったと言っていたけど、それでも哀しみは終わらないようだった。
 今のおかあさんと出逢ったのは職場で、おとうさんもおかあさんも今も同じ図書館に勤めている。バイトだったおかあさんの司書試験などの面倒を見たのがおとうさんだったらしい。おかあさんの昔の旦那は、話で聞いただけだけど、ひどい人だったみたいだ。だから、丁寧に接してくれるおとうさんに惹かれたのだとおかあさんはよくのろける。
 おとうさんも初めこそ遠慮していたけれど、最終的にはおかあさんに応えることにした。それから尚里があたしの弟になって、昔からその愛くるしさをかわいがって一緒に育った。
 柔らかいふわふわの黒髪、くっきりした二重がぱっちり見せる瞳、顎の線は幼さが残ってまだ丸みがある。軆は筋肉は発達していなくても、最近骨はちょっと成長してきて、逆に危うくもろい感じがする。中性的なのは、女の子みたいというか、子供っぽさが残っているせいだろう。三月生まれで、まだ十三歳だもんなあ、と思う。
 シャワーを浴びて汗を流すと、なめらかな素材の水色のルームウェアを着て、みつあみのくせがついた長い髪を乾かす。もともとストレートでなく、くせ毛のある髪だから、洗ったらまっすぐになるなんてない。ストレートいいなあ、と憧れるのだけど、すぐ落ちるストレートパーマをかけるより、手軽にみつあみに縛ってしまう。
 髪が乾くと、リビングのおとうさんとおかあさんにもおやすみを言って、部屋に戻った。尚里はきちんと寝たかなと思いつつ、手帳で明日の授業を確認して、スマホに来ていた通知にも目を通すと、あたしは明かりを消してふとんにもぐりこんだ。
 部屋はドライでほどよくひんやりとして、ふとんの中の自分の匂いも落ち着く。周りにも家しかない住宅地で、ここは夜は本当に静かだ。
 昔、尚里と一緒にふとんを並べて寝ていた頃、夜になると尚里が急に泣き出してしまうときがあった。理由は訊かなかったけど、昔の家庭のトラウマとか、新しい環境への不安とか、いろいろあったのだと思う。
 あたしが手を握ると、尚里はなみなみと濡れた瞳であたしにそばにいてほしいと言った。あたしは咲ってそばにいると答えた。するとやっと尚里は安らいで眠った。それを見守ってから自分のふとんにもぐりなおしたあたしは、この子を守ってあげなきゃ、と幼心に思ったものだ。

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