Honey Marry-10

取られたくない【1】

 ぽろぽろと涙が落ちてくる。喉がぎゅっと締めつけられて、嗚咽が痙攣する。呼吸が浅くなって、舌が渇く。苦しい。不安が熱湯の湯気みたいにとめどなく湧いてきて、思考を曇らせていく。
 どうしよう。おねえちゃんに嫌な言葉を言ってしまった。嫌われたかもしれない。誓にいちゃんに話して、もっとふたりで仲良くなってしまうかもしれない。
 そんなの嫌なのに。それが一番、嫌なのに。
 おねえちゃん。僕のおねえちゃん。どうして誓にいちゃんはそっとしておいてくれないの。おねえちゃんの一番になろうとするの。そこは僕の居場所なのに。
 僕だったらいいのに、とおねえちゃんは言った。その意味がつらかった。僕なら安全、ということだ。おねえちゃんには僕が男じゃないから、危険もないと見なしているということだ。
 でも、僕だってちゃんと男だ。おねえちゃんを誰よりも想っている男は、絶対に僕だ。誓にいちゃんじゃない。僕だって、おねえちゃんと結ばれていいなら、誰よりも先におねえちゃんを抱きしめたい。
 クリスマスイヴに、おねえちゃんは誓にいちゃんとデートをする。だから、そういうことになるかもしれないと言っていた。おねえちゃんは嫌みたいだった。だったらなおさら、断ってほしい。誓にいちゃんとそういうことになりたくないなら、ならなくていいのに。ちゃんとそう言えばよかった。おねえちゃんもそう言ってほしかったのかもしれない。
 なのについ、誓にいちゃんとのデートではそれを覚悟するのに、僕と過ごすなら連想もしないことに嫉妬して、嫌いなんて吐いてしまった。おねえちゃんが好きだから、あまりにも悔しくて。
 おねえちゃん。やめて。誓にいちゃんとデートしないで。しなくていいよ。嫌だったら、クリスマスは僕と家にいればいい。毎年そうしているみたいに、家族で過ごせばいい。誓にいちゃんのものになんて、ならなくていい。
 冷え冷えとした廊下に突っ立って、泣きながら一気にそんなことを思って、階段を振り返った。おねえちゃんは追いかけてこない。傷つけてしまった。謝らないと、と思うのに足が動かない。
 息を吐いて、とりあえず部屋に入った。ふらふらとベッドに歩み寄ると、ぼふっと倒れこんでしまう。日向の匂いのシーツに、涙が広がる。
 おねえちゃんと誓にいちゃんは、まだ、幼なじみなのだろうか。まだそうだったとしても、クリスマスイヴにはつきあいはじめるのだろうか。どうしよう。ずっと怖かった。誓にいちゃんがおねえちゃんを奪ってしまう日が来ると怯えてきた。ついに来てしまった。僕はどうしたらいいのだろう。
 僕もおねえちゃんに気持ちを告白する? そんなことをしていいのだろうか。姉弟なのに、「好き」なんて、伝えていいのだろうか。
 軆が冷えてきて、ふとんを引っ張って頭まで被る。嗚咽がまだひくついている。まぶたが腫れて、睫毛の湿り気が重い。もう何も考えたくなかった。急激にぐちゃぐちゃ考えて、頭の中が疲れてしまった。
 少し眠ったら落ち着いておねえちゃんに言えるかもしれない。誓にいちゃんと無理にデートすることなんてない。僕がそう言えば止められるかもしれない。おねえちゃんの一番は、今はまだ僕のはずだから。
 眠りたかったけど、もやもやと頭の神経が絡み合ってゆっくり眠れなかった。昼食ができたとおかあさんが呼びに来たときも、答えなかったけど起きていた。「寝てるの?」とドアを開ける音がして、どうやらおかあさんはカーテンの陰りとベッドのふとんで僕は昼寝していると思ったようで、それ以上昼食だと言ってこなかった。階段を降りていく足音を聞いて、妙に寂しくなって、目をつぶって落ちた雫を乱暴にこする。
 やがて夕方になり、おとうさんが仕事から帰ってきたのがぼんやり聞こえた。ようやく涙が止まっていた僕は、体温が巡ったベッドからゆっくり身を起こした。おねえちゃんに謝らなきゃ、と冷静に思うことができて、その心にほっとしたのと同時に焦りが生じてくる。急いで実行に移さないと落ち着かない。僕はベッドを降りると部屋を出た。
 リビングに顔を出すと、まだスーツのおとうさんがネクタイをほどいていた。「おかえりなさい」と言うと、「おう、ただいま」とおとうさんはにかっと笑ってくれる。僕はリビングを見渡し、「おねえちゃんは?」と訊いた。すると、「ナオ」とキッチンから声がして、顔を向けるとおねえちゃんが顔を出していた。
 さっきまでの憂鬱と違い、明るく優しく、いつも通りに微笑んでくれる。僕はちょっとどういう顔をしたらいいのか分からなくて、生半可な下手くそな笑顔でおねえちゃんに駆け寄る。すると、キッチンにはおかあさんもいて、「ナオくん、ずいぶん寝てたねー」と夕食の支度をしながら言われて、また僕はあやふやに咲う。
「お腹空いてない? お昼のうどんが残ってるよ」
「ん、夕ごはんできるでしょ」
「それまで我慢できる?」
「うん」
 おねえちゃんはマグカップにココアを作っていて、「ナオも飲む?」と訊いてくる。それにはこくんとすると、おねえちゃんは食器棚から僕のマグカップを取り出して、ココアの粉と砂糖をお湯で溶かし、スプーンでかきまぜた。甘い香りがふわりとただよってくる。
「はい、どうぞ」
 マグカップをさしだしたおねえちゃんに、「ありがとう」と言って僕はそれを受け取る。まだ渦を残しているココアを水面を見つめてから、「おねえちゃん」と顔を上げる。
「ん?」
「あ、あの……さっきは、ごめんね」
「えっ」
「僕、その、……変なこと」
「あー、ううんっ。あたしこそごめんね。ナオにはよく分かんないよね」
「う、……うん」
「大丈夫。おかあさんに話聞いてもらってね、ちょっと落ち着いたから」
「え」
 僕がおねえちゃんを見上げると、「ミキちゃんがついにチカくんとデートするって言ってもねえ」とそばにいたおかあさんがおかしそうに笑った。
「初めてのデートでいきなりそれはないでしょ。チカくんならミキちゃんを大事にするだろうから、なおさら」
「もー、いいよおかあさんっ。かなりまじめに悩んでたのがバカじゃん、あたし」
「だって。おとうさんも、いくらチカくんだろうとミキちゃんにそんなことしたら殴るよ」
 そんな会話におとうさんが怪訝そうに入ってきて、おねえちゃんに「やめてーっ」と言われながらも、おかあさんはおとうさんにおねえちゃんが誓にいちゃんとデートすること、それがクリスマスイヴでそういう意味かと悩んでいたことを話した。おとうさんは大きな声で笑って、「まあ、そのうちもらってもらえ」と言って、おねえちゃんは顔を真っ赤にしていた。僕はそれを見ていて、うつむいて、やめておいてなんて言えない、と思ってしまった。
 そのあと、夕食のすき焼きの味も分からず、僕はお風呂に入って歯を磨いて、そそくさと部屋に戻った。バカみたいだ、と思った。おねえちゃんに相談されてすぐ、やめておいてと伝えておけばよかった。そうしたら、おとうさんにもおかあさんにも知られないまま、おねえちゃんは誓にいちゃんに断りを入れていたかもしれない。
 何を比較されたと感情に走ってしまったのだろう。確かに僕だったら安全だと言われたようなものでも、おねえちゃんにしたら、僕のほうがよかったという言葉でもあったのに。
 確実になってしまった。おねえちゃんはクリスマスイヴに誓にいちゃんとデートする。そういうことはないだろうとおとうさんたちは判断して、おねえちゃんも安堵していたけれど、本当に? 誓にいちゃんは、本当におねえちゃんに触れたりしない? 僕なら触れたいと思うだろう。それは僕が卑しいから?
 翌日、学校でも僕はうつむきがちで、蒼樹に心配されてしまった。昼休み、晴れた空を映す窓にもたれて、蒼樹にはおねえちゃんが誓にいちゃんとデートすることを話した。「ついに幼なじみ動いたか」と蒼樹はこまねいて息をつく。「ほんとにそういうことにはならないと思う?」と訊いてみると、蒼樹は首をひねった。
「俺なら──クリスマスだからとかでがっつくって、むしろしないけど」
「ほんと?」
「俺はな。変に奥手なら、いい口実だよなあ」
「奥手」
「俺は幼なじみを直接知らないから、何とも言えねえな。でも、そんな軽そうな奴でもないよな」
「……うん」
「姉貴が嫌がればいいんだけどな。受け入れる感じなのか」
「チカちゃんなら何にもないよって、親に言われてほっとしてる」
「じゃあ、迫ったらとりあえず姉貴が拒否るんじゃね」
「そうかなあ」
「ま、クリスマスにデートってのもダメージあるよな。普通に、恋人みたいだし」
「デートを機会につきあいはじめたりするのかな」
「その可能性はあるな」
「………、ちゃんと、やめておきなよって言えばよかった。何してんだろ、僕。バカだよね」
「男として安全と思われるって、対象じゃねえってことだからなあ」
 僕はうなだれて、上履きを見つめた。
 そうだ。おねえちゃんに安心だと言われて、僕はそれに傷ついた。おねえちゃんにとって、僕は恋愛対象外と言われた気がしたのだ。僕はこんなにおねえちゃんが好きなのに、おねえちゃんには僕はただの弟だ。それを突きつけられると、告白する勇気だって湧いてこない。
 告白したとしてどうなる? 笑われる? あるいは、嫌悪されるかも──

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