かわいい弟【2】
翌日、六時半にアラームにしている着信音が鳴って、あたしはうめきながらスマホをつかんだ。音を止めようとしても、まだ寝ぼけている視界と指先では、タップがうまくいかない。やっとアラームを止めると、またそのまままくらに顔を伏せそうになったけど、朝かあ、と首に当たる朝陽にぼんやり動いた頭で思った。
カーテンがまばゆさは抑えていても、日射しの熱は伝わってくる。すでに起きている家族の一階での物音も聞こえる。起きなきゃ、とようやく思って、あたしはむくりとシーツから軆を引き剥がした。
目をこすって、昨夜ドライヤーのあと両脇で束ねた髪を、背中にはらう。まだ頭の中がおぼつかなくて、あくびがこぼれる。何度かしばたいて目を光に慣らし、背伸びで関節をやわらげた。
ドライの風が、さらさらと部屋をめぐっている。お腹空いたな、と思い、たぶんおかあさんが朝ごはん作ってる、とベッドを降りると、皺のついたルームウェアのまま部屋を出た。
「ミキ。おはよ」
顔を洗ったりトイレに行ったりして、ダイニングに行く途中でリビングを通ると、そこには誓のすがたがあった。
あたしの寝ぼけぐせをよく知る誓は、あたしが遅刻しないように毎朝迎えに来る。あたしが起きてこないと、乙女の部屋だなんて無視して踏みこんでくる。
憧れのストレートの髪、凛とした眉や目鼻立ち、すらりとした長身のすがただから、黙っていればモテるだろうに、性格がどうしても世話焼きのおかあさんで、浮いた話が聞こえてきたことはない。
「おはよー。毎朝ご苦労様」
「ほんとだよ。昨日もまた彩季ちゃんとこか?」
「んー。いいよねえ、ひとり暮らし」
「ミキがひとり暮らしなんかやったら、永遠に起きてこないだろ。ほとんど死だろ」
「っさいなあ」とあたしはソファの誓の頭をはたいてから、ダイニングに行ってテーブルにつく。おとうさんが朝食を食べていて、おかあさんは現れたあたしのぶんのごはんやお味噌汁を盛ってくれる。尚里のすがたはないけれど、中学生のあの子は、そこまで早起きしなくても大丈夫なので突っ込まない。
「ほとんど死」
香ばしい焼き鮭の身をほぐしながら、おとうさんが誓の言葉を繰り返し、何だか噴き出している。
「笑わないでよ」
「ミキにひとり暮らしは無理だと思うぞ」
「えー、いいじゃん。したいなー」
「ミキが家事をやってるところを見たことがない」
「やってなくてもできるよ、それくらい」
「料理のあとには洗い物、洗濯のあとにはたたむ、掃除のあとにはゴミ捨てだぞ」
「………」
「後始末までが家事だからな。じゃないと虫が涌く刑だ」
「虫……」
「一週間ぐらい、おかあさんの代わりに、うちの家事でもやってみせてくれたらなあ」
「あたしがいなくなったら、寂しいだけでしょ」
「寂しいから、おとうさんとおかあさんは何とでも言うぞ」
「タチ悪いなー」
あたしが眉を顰めていると、「ミキちゃんがいなくなったら、ナオくんが心配よねえ」とおかあさんがあたしの前に朝食を運んでくる。白いごはん、豆腐と油揚げのお味噌汁、焼き鮭とたまご焼き。あたしは箸を取りながら、「ナオかあ」とつぶやく。
「確かに、ナオのことは心配だな」
「ミキがいなくなったら、ナオはそうとう落ちこむだろうな」
「べったりだものね」
「仲がいいって言って」
「ナオに彼女ができるのを見届けてからじゃないと、ミキもここを出たって気が気じゃないだろ」
「んー、まあ。そうかなあ……」
あたしはお味噌汁のお椀を手に取って、油揚げに染みた味を噛みしめる。尚里に彼女とか、それはそれで、正直複雑なのだけど。でもいつかは来ることだよな、と粗熱の取れたお味噌汁をすすり、飲みこんでから息をついた。
「お、ナオ。おはよう」
たまご焼きとごはんを頬張っていたところで、そんな誓の声がしてあたしは顔を向ける。制服になった尚里が、「おはよう、チカちゃん」と答えたあと、こちらを見て、あたしと目が合って笑顔になる。
「おはよう、おねえちゃん」
「おはよ。昨日、ちゃんと眠った?」
「うん、眠れた。おとうさんとおかあさんもおはよう」
「おはよう」と両親はそれぞれに返し、尚里はあたしの隣の椅子に座る。あたしは尚里を見て、「ちょっと寝ぐせ」と後頭部の跳ねた髪に触れる。
「え、どこ?」
「もう直ったよ、大丈夫」
尚里は自分の髪に触れてから、「ありがとう」とあたしに照れ咲う。窓からの太陽が明るい中で見ても、やっぱりかわいい。
のんびり食事に時間を取っていても誓に急かされるので、あたしは時刻を気にしながら朝食を片づける。「ごちそうさま」と席を立つと、洗面所で歯を磨いて、今日も髪をみつあみでひとつにまとめる。
部屋に戻ってルームウェアを脱ぐと、オフホワイトのカットソーとデニム生地のワインレッドのロングスカートを合わせた。化粧をして、荷物を確認して、エアコンを切ると、洗濯かごに放りこんでいくルームウェアを抱えて部屋を出る。
「おねえちゃん」
階段を降りようとしたとき、ちょうど尚里がのぼってきて、あたしは身を引く。尚里は急いで階段をのぼってくると、あたしを見上げた。
「もう行くの?」
「うん。ナオはどうしたの?」
「かばん取りにきた。僕も行かないと」
「そっか。気をつけてね」
「うん。おねえちゃんも」
「ありがと。いってきます」
「いってらっしゃい」と言ってくれた尚里の頭にぽんと手を置いて、あたしは階段を降りていく。誓はもう玄関に待機していて、「遅れるぞ!」と腰に手を当てる。「ちょっと待って」とあたしは洗濯かごにルームウェアを放りこんでから玄関に戻った。靴を履くと、「いってきます!」と家の中に呼びかけて誓と家を出る。
毎朝こうして、誓と同じ大学に通っているけれど、学部は違うので授業も違う。だから、別に朝から家を出る必要もない日がそれぞれあるのだけど、幼い頃からの習慣であたしと誓は一緒に通学する。それに、朝のラッシュは男の子が一緒だと助かるし、やはり痴漢が嫌だから心強い。「お前に痴漢とか」と笑いつつ、誓も一応そこを心配してくれているのだとは思う。
最寄り駅は、夜にたくさん降りる駅だから、朝はたくさん乗る駅でもある。駅員さんは毎朝「奥にお進みください!」と叫んでいて大変だ。
あたしは誓とはぐれないようにその服を引っ張って、奥に進む彼についていく。立ち止まったところにつかむところがないと、「つかんどけ」と腕をさしだされるので、「お邪魔します」とあたしは誓の腕に手をかける。こうやってくっついて、体温とか筋肉とか感じていると、誓が男の子だと思い出して気恥ずかしいような気分になる。たぶん誓も同じで、いつも電車の中では妙に沈黙になる。
クーラーがかかっていても、ぎゅうぎゅうの混雑で車内は暑くて、汗ばんだ誰かのにおいとか、おじさんが読む新聞のインクのにおいとか、女の人の厚化粧のにおいとかが混ざる。それに較べたら誓の匂いがいいから、電車が揺れて押された拍子に、その肩に顔を伏せる。「大丈夫か」という誓の声がそばで聞こえて、「ん」と短く答えたあたしは、誓の服をきゅっと握る。
大学の最寄りでやっと満員電車から解放されて、それでも改札までは通勤や通学の人に流される。改札を抜けてやっと立ち止まることができて、いつもここで彩季と落ち合って大学に向かう。
彩季を待つときは誓は先に行ってしまうけど、彩季が待っていたら三人で大学まで十分くらい歩く。彩季も同じ大学だ。今朝は彩季は例によってスマホゲームをしながら待っていて、あたしたちは彩季の住むアパートとは反対方向の大学に歩き出した。
残暑が厳しく、空はよく晴れて日射しも強い。夜から朝は風が冷たさを帯びるけど、昼間は熱気が空気にこもって暑いままだ。
周りを歩くのは同じ大学の学生が多いけど、中学や高校の通学路みたいに挨拶が飛び交うことは少ない。わりと堅い大学なので、たむろしてげらげらと歩いている奴もいない。
その中で、あたしをはさんで三人並んで歩きつつ、彩季が口を開く。
「誓くんってさ、夜は美希音のお世話しないの?」
スマホをバッグにしまいつつ突然言った彩季に、「はっ?」と誓は目を開き、あたしは咳きこむ。
「待って彩季、それ言い方おかしい」
「あー……午前様の美希音のお迎えしないの?」
「あ……ああ、そういう意味。やってもいいけど、ミキが連絡よこさないし」
「めんどいもん」
「美希音、夜道ナメてるでしょ」
「そんなことはないけど。じゃあチカ、連絡したら来るの?」
「連絡よこせば行くよ」
「そうなの? んー、同じ連絡ならおとうさんにしたほうが車で来てくれるじゃん。楽じゃん。あ、でも酒飲んでるか」
「あたしは、誓くんでもおとうさんでもどっちでもいいから、迎えには来てもらえと思うんだけど」
「歩いて十分くらいだよ」
「暗いし、危ないとは俺も思うぞ」
あたしが眉を寄せて考え、「じゃあナオに来てもらう」と言うと、すかさず誓にはたかれた。
「お前、バカかよ。ナオだともっと危ないだろ」
「何それ」
「ナオって、美希音のあの弟だよね」
「そうだけど」
「危ないわ。美希音をさしおいて、弟が襲われるわ」
「俺もそう思う」
「何かムカつくな……。でも、ナオってあたしが遅いといつも心配して起きててくれるんだよね。かわいいよね」
「弟でのろけるな」
「朝、おじさんたち話してたけど、ミキに彼氏できたらナオは落ちこむけど、ナオに彼女ができたらミキは嫌がらせしそうだよな」
「………、待って、否定できないこと言わないで」
「ブラコンだわ」
そんなくだらないことを話していると、まもなく大学に到着する。校門であたしたちはばらばらになって、基本的に講堂でのランチまで合流しない。
午後の授業のあと、誓はサークルに顔を出して、あたしは彩季と一緒にスーパーで夕食とおやつを買いこんで彩季の部屋に行く。まじめにレポートをやるときもあるけれど、たいていは昨日みたいに終電近くまで自由に過ごす。何だかんだ言われるものの、結局夜はひとりで帰宅して、あたしの毎日はそんなふうに過ぎていく。
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