Honey Marry-7

離したくない【1】

 尚里が修学旅行で留守にしている二日目、あたしは相変わらず彩季の部屋から深夜に帰宅する。おかあさんに、夜道に関して文句を言われて、受け流しながら二階に上がる。
 隣の部屋を見ても、もちろんそこから、心配そうにあたしを窺っている人影はない。大丈夫かな、と案じながらも、部屋に入って荷物をおろし、着替えを抱えてバスルームに向かう。
 バスタブにお湯は張ってあったけど、ぬるくなっていたので追い炊きをかける。『お風呂が沸きました』とベルが鳴るまでのあいだ、キッチンでカフェオレを作ってカップに口をつけた。
 おとうさんもおかあさんも、リビングで軽くお酒を引っかけて、まったりしている。この時間、尚里はいつももう部屋で眠ってしまっていて、ここにいないのは当たり前なのに。それでもやっぱり、二階に尚里がいないのがぽっかりあって、寂しい。行きたくないって言ってたしなあ、とカフェオレのほろ苦さを飲みこむ。
 夜、尚里はひとりだと眠れなかった頃もある。あたしの手を握って、ようやく落ち着いて眠りに落ちていた。さすがに今ではひとりで眠れると思うけど、家を離れたらどうなのかなとちょっと心配だ。ちゃんと眠れているだろうか。
 出発日の朝も泣きそうだった。なぜかあたしに彼氏ができたりしないかを心配していたけれど、そんなのあたしだって同じだ。修学旅行を機にくっつくカップルは多い。旅先で告られて彼女ができたとか帰宅早々言われたら、姉としてはけっこうショックだ。
 まあ、尚里も中学二年生だ。構えてなくてはいけないことだとも思うのだけど。どうしても、あたしの中では、尚里はあたしに甘えるかわいい弟だから、よその女に振り向かれた場合は考えたくない。
 ベルが鳴って追い炊きが終わると、カフェオレを飲み干してカップを水に浸し、バスルームに戻った。するすると脱いだ服を、洗濯かごに放るとタイルに踏みこむ。シャワーで軽く軆を流して、お湯に浸かってため息をつく。
 昔はお風呂も尚里と一緒だったなー、と思う。いつから一緒に入らなくなったのかよく憶えていなくても、「もう大丈夫だよ」と頬を染めて遠慮するようになった尚里は憶えているから、あの子が思春期に入った頃だったかもしれない。記憶の中で、尚里はいちいちかわいい。そんな子でも男になっていくんだよなー、と天井を仰ぎ、もの寂しくなってしまう。
 ともあれ、明日には尚里は帰ってくる。明日は彩季の部屋には寄らずにまっすぐ帰ってこよう。尚里とも、そう約束した。早く尚里の顔見たいな、と弟離れしなくてはと分かっていても楽しみだ。尚里もあたしのことそう思ってくれてるかな、とお湯の中で腕を伸ばすと、ちゃぷ、と水面が波立った。
「ナオ、今日帰ってくるんだっけ?」
 翌朝、いつも通りのみつあみとトートバッグで、迎えに来ていた誓と家を出る。今日は曇り空で、すり抜ける風も冷たい。駅まで歩きながら誓にそう訊かれ、「うんっ」とあたしは笑顔で答える。そんなあたしを眺めた誓は、「すごい笑顔だな」とか言って、あたしに脇腹を肘で突かれる。
「って、」
「いいじゃない、かわいい弟なんだから」
「弟、なあ」
「何?」
「いや、別に」
「いいじゃん。こんなの今だけなんだし」
「今だけ」
「そう。今だけ。もうあの子も来年には中三になるんだよ。受験生。そして、すぐに高校生」
「まあ、そうだな」
「さすがに好きな子でもできて、あたしなんかほったらかしになるでしょ」
「ナオの好きな子かあ」
「あたし、ちゃんと応援できるかなー。不安なんだけど」
「姉が反対しても弟には効かないだろ」
「だよね。はあ、ナオが大人になるなんてやだなあ」
 そんなことを嘆くあたしを眺め、「そのときは」は誓が少しまじめな声で言う。
「俺がミキの相手してやるよ」
 あたしは誓を見上げて、小さく噴き出してしまった。「何だよっ」と誓があたしをはたこうとすると、「いやいや」とあたしはそれをよけて笑う。
「チカも『チカちゃん』って慕ってくる弟分がいなくなったら寂しいんだなと」
「寂しい、というか──」
「そうだね。ナオに彼女ができてもチカがいるよね」
「おう」
「ありがと。というか、そんなこと言っといて、彼女できたんで知らねえとかやめてよね」
「ミキこそ、姉離れされて寂しいからって適当な彼氏作るなよ」
「分かってますよ」とあたしはスマホで時刻を確かめ、「早くしないと」と誓の腕を引っ張った。「はいはい」と誓はあたしについてきて、出勤する人に紛れながら駅に急いだ。
 そんなわけで、その日は何だかそわそわ過ごして、サークルに行く誓とも帰宅する彩季とも別れ、夕方のラッシュで地元に帰ってきた。早足で家に到着してドアを開けると、靴がひとつもない。今夜はおとうさんもおかあさんも遅番か。尚里のスニーカーもない。急いで帰ってきてよかった。疲れて帰宅した尚里を出迎える人がいなかったなんて可哀想だ。
 あたしは部屋に荷物をおろすと、一階に降りて家の中が冷えていたので暖房を入れた。電気をつけたリビングで熱いココアを飲みながら、テレビを眺めて尚里を待つ。たまにテーブルに置いたスマホを見るけど、連絡は来ない。学校側にスマホ使用を制限されているのか、修学旅行中にも連絡はなかった。
 早く帰ってこないかなー、とソファに沈みこんで甘い香りのココアをすすっていると、不意に玄関でかちゃっと鍵をまわす音がした。あたしはぱっと立ち上がり、テーブルにカップを置いて、玄関に走る。玄関先の明かりをつけるとドアが開き、荷物を引っ張りこみながら現れたのは紛れもなく尚里で、尚里もあたしを認めて笑顔になる。
「おねえちゃん。ただいま」
「おかえり、ナオ。寒かったね」
「うん。家はあったかい」
「暖房入れておいたから」
「おとうさんとおかあさんは?」
「今日、遅番みたい。冷蔵庫にハヤシライス作り置きしてあった」
「今、おねえちゃんだけ?」
「そうだよ。ごめんね、家族揃って迎えるものなんだろうけど」
「ううん。おねえちゃんがいれば嬉しい」
 あたしは尚里を見て、照れ咲いすると尚里の頭を撫でた。
 やっぱりかわいいな。いつかどこかの女に取られるなんて悔しいな。そんなことを思ってしまう。
「とりあえず、荷物リビングに入れよう」
 そう言ってあたしは尚里がおろした荷物を持ち上げ、リビングに持っていく。尚里もスニーカーを脱いで家に上がり、残りの荷物を抱えてついてくる。
「修学旅行、楽しかった?」
「ん、まあ、一応」
「そっか。夜は眠れた?」
「えっ。あ──あんまり」
 あたしは笑ってしまって、「今日はナオの部屋におふとん敷いて寝ようかな」と言う。
「いいの?」
「あたしは構わないよ。そしたら、ゆっくり眠れるでしょ?」
「うん」
「昔からそうだったもんね。ずっと心配してた」
 あたしはどさっとおろした荷物のかたわらに座り、尚里もフローリングに座りこむ。
「おねえちゃん」
「うん?」
「僕がいなくて、少しでも、寂しかった?」
「少しなんてもんじゃなく、寂しかったよ」
「ほんと?」
「うん。慣れなきゃいけないのにね」
「え、慣れるって」
「ナオはこれから高校生になって、大学生にもなって、どんどん姉離れしていくわけでしょ? その頃には、あたしのことなんかわずらわしいくらいになってるだろうから」
「そ、そんなことないよっ。ずっとおねえちゃんのこと大事にするよ」
「そう言ってても、弟は姉なんか鬱陶しくなってくるの。だからあたしも──」
 そのとき、尚里は身を乗り出してあたしに抱きついてきた。びっくりしてかたまったあたしにしがみついて、「ずっと僕はおねえちゃんが一番だから」と尚里は言う。
「高校生になっても、大学生になっても、おねえちゃんのこといらなくなったりしない。ずっとそばにいる」
「ナオ……」
「……嫌だ? 僕なんか、いなくなったほうがいい?」
 泣きそうにあたしを見上げた尚里に、あたしは咲ってしまって首を横に振った。
「でも、そんなこと言ってたら彼女も作れないよ」
「いらないからいいよ」
「………、そっ、か。じゃあ、あたしも──ナオに彼女なんてできたら、寂しかったから」
「ほんと?」
「うん。一番かわいいのはナオだよ」
 すると尚里は安堵をたたえて微笑み、そっと軆を離した。あたしは腕をさすり、意外と力あったな、とか思ってしまう。
 まあ、分かっているけれど。尚里はまだ世界が広がることを知らないだけだ。行動範囲が広がって視野が開いたら、きっと今の甘えた言葉も帳消しになる。だから期待して、尚里は手元にいるから大丈夫なんて、日和るのはよそう。
 どんなに仲が良くても、あたしと尚里は姉と弟だ。そういつまでもうまくいくはずはない。よく分かっておかないと──
「おねえちゃんにおみやげいっぱいあるよ」と尚里は荷物をほどきはじめ、「何だろ」とあたしはその手元を覗きこんだ。

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