Honey Marry-8

離したくない【2】

 尚里とふたりでトマトが香ばしいハヤシライスの夕食を食べていると、おとうさんとおかあさんが一緒に帰宅した。尚里のすがたを見つけた途端、「寂しかったー」と両親は息子を抱きしめたり頭を撫でたりする。「毎度ながら、あたしが修旅から帰ってきたときと反応が違いますね」と皮肉ると、「ミキはたくましいから」とおとうさんが言って、あたしはむくれてしまった。
 そしてその夜、あたしは尚里の部屋の床にふとんを敷いて、尚里が眠るまで手をつないでいた。尚里はすべすべの手であたしの手を握り、暗闇に慣れた瞳でこちらを見つめてくる。「眠れそう?」と訊くと、尚里はうなずいてふとんの中に沈みこむ。
「朝までこっちにいてくれるの?」
「うん。ふとんも敷いたし」
「そっか。あのね」
「ん」
「修学旅行、ほんとはぜんぜん眠れなかった」
「はは、やっぱり」
「おねえちゃんが一緒だったらよかったのに」
「ね。でもあたし、女だからこんなふうに同じ部屋は無理だったんじゃないかな」
「あ、そっか。でもね、チカちゃんはいいなあって思った」
「チカ?」
「うん。いつも、何でも、おねえちゃんと一緒だもん」
「それが憎たらしいときもあるけどね」
「僕も、もっと、おねえちゃんに近かったらよかったのに」
「あたしの一番近くにいるのは、ナオだと思うけどなあ」
「そう……かな?」
「そうだよ。だから、修学旅行のあいだも寂しかったし。無事に帰ってきてくれてよかった」
「………、僕も、おねえちゃんと離れて寂しかった」
「ふふ、そうだろうなって心配してたよ」
「僕のこと考えた?」
「もちろん。ナオがあたしを離れていくのは、嫌だなあって思っちゃう。成長したら仕方ないことなのにね」
「僕はおねえちゃんのそばにいるよ」
「……うん」
「ほんとだよ。だって、僕はおねえちゃんのそばにいたいもん。だから、」
「ありがと。でも、全部あたしのわがままだからね。ナオはいつでも、好きな女の子ができたら幸せになりなさい」
「そんなのいらない。僕はおねえちゃんといられたらいいよ」
 あたしは咲って、重ねた手を頬に当てると「ナオにそう言ってもらえて幸せだよ」と言った。あたしの頬に当たった尚里の手がぴくんと動く。「おねえちゃん」と尚里が泣きそうな声でつぶやいて、あたしはつないだ手をシーツに戻すと、もう一方の手で尚里の頭をさすった。柔らかい髪が指を癒やす。
「眠れなかったなら、そろそろ寝ないと」
「………、おねえちゃん」
「ん?」
「おねえちゃんがいなかったら、僕はすごくダメな奴だったよ」
「え」
「おねえちゃんがそばにいてくれたから、頑張ってこれたんだ。だから……」
「………」
「だから、おねえちゃんをひとりにはしないよ。大丈夫だよ」
 あたしは尚里を見つめた。不意に視界が潤みかけて、ぱっとうつむいてしまう。
 尚里がきゅっとあたしの手をつかむ。その手はまだそんなに大きくないけど、やはりあたしとは違う男の子の手だ。あたしはその手を握り返すと、「ありがと」と小さく答えた。
「ごめん、あたしもナオが二日もいなくてこたえてたみたい。甘えちゃったね」
「甘えていいよ。僕が男なんだもん」
「はは。そうだね。ナオは男の子なんだよね」
「僕がおねえちゃんを一番大事にする。おねえちゃんも僕のことそうしてくれたから」
 あたしは尚里に目を向けて、微笑むとその頭を撫でる。尚里もいつかかわいい彼女を連れてくる。分かっていても、今だけはその言葉を信じて甘えてしまおうと思った。
 あたしたちの絆が嘘ではないのも確かだ。それは姉弟というつながりで、いつかけちがえてしまうか分からないけど──今は確かに、あたしの一番は尚里で、尚里の一番はあたしだ。それでいい。
 あたしに頭を安んじられて、尚里の睫毛がうとうとと揺れてくる。「今夜は隣にいるから」とささやくと、尚里はこくんとして、そのまま眠りに落ちていった。その寝顔をしばらく見つめて、眠った尚里の手の力が抜けてからつないだ手も離し、あたしは部屋から持ってきてなじんだ匂いのふとんにもぐりこんだ。
 尚里が帰ってきて、あたしも自然と安堵して、いつも通りの毎日になった。すぐにカレンダーが最後の一枚になって、十一月からそわそわしていたクリスマスの空気が、一気に花開いた。ツリーやリースやポインセチア、定番のクリスマスソング、ケーキやチキンの予約、にぎやかな雰囲気があふれかえる。
 プレゼント渡したいのは誰かな、と予算を気にしながら考える。もちろん尚里。おとうさんとおかあさんにも、ささやかに。あとは彩季と、誓か。貯金あるけどちゃんとバイトしたほうがいいかなとか考えて、大学の空き時間にテラスで求人誌をめくっていた。
「ミキ」と呼ばれて顔を上げると、誓があたしの前に缶のココアを置いてから、正面の椅子に腰かけていた。
「チカじゃん。授業は?」
「四限まで空いてる」
「あたし三限だわ。ココアいいの?」
「バイト探してるっぽい奴からぼったくらない」
「ありがと」
 あたしは笑って、いったん求人誌をテーブルに置くと缶を手に取った。まだ熱くて、でも冷えた指先にはちょうどいい。誓はコーヒーを飲んで、「この時期にバイト始めるのかよ」と求人誌を手に取ってめくる。
「この時期だからでしょ」
「バカみたいにいそがしいクリスマス求人しかないだろ」
「チカは高校のときバイトしてたよね。何だっけ」
「ファミレス。あれは死ぬからやめとけ」
「ファーストフードもバイト初心者にクリスマスは厳しいよね」
「何か今欲しいもんでもあるのか?」
「………、チカの欲しいものは何ですか?」
「バイク」
「殺すぞ」
「何で殺されるんだよ」
「クリスマスプレゼントに欲しいものを訊いてるんだろうが」
「あー……、いや、別に無理には」
「じゃあ百均で適当に選ぶわ」
「百均って予告はするなよ」
「最近の百均ナメんなよ」
 あたしは甘いココアを飲んで、胃がじわりと温まるのを感じる。誓は頬杖をついて求人誌をめくり、「プレゼントかあ」とつぶやく。
「ミキはクリスマスイヴの予定ってもうあるのか?」
「家族とですが何か」
「何かってことはないけど。じゃあ、俺とどこか出かけないか」
 ココアを飲むのを一瞬止めて、誓を見た。誓はいつになく真剣に見返してくる。「いやいや」とあたしは缶をテーブルに置いた。
「何で?」
「……何で、と言われると」
「出かけるって。誓の家に行くほうが解せるわ」
「ナオがついてくるだろ」
「あの子がいちゃいけないの?」
「………、お前……何つーか、その、察しろよ」
「何をだよ。あたしで彼女いるふりしても、おじさんもおばさんも騙されないでしょ」
「ふり、っていうか」
「見栄張りたいなら、例の押してくる子とでも──」
「ミキ」
 さえぎるように呼ばれて、あたしは口をつぐんだものの、首をかしげる。誓は少し目線を下げて、何か考えていたものの、急にあたしをまっすぐに見つめてきた。
「ミキ」
「はい」
「いつか言わなきゃいけないとは思ってたんだけど」
「うん」
「もう言うぞ」
「どうぞ」
 誓は缶を置いて、ふうっと息を吐くと、あたしを正面から見て、言った。
「好きだ」
「はっ?」
「俺、ミキがずっと好きだった」
 あたしはぽかんと誓を見た。
 何。何言ってんだ誓。
 好き? あたしを? 誓が?
「い……や、待っ、」
「ふりとかじゃなくて、彼女としてクリスマスは一緒に過ごしたい」
「ちょ、ちょっと待って、そんなに彼女欲しくて焦ってんの? そりゃ、あたしちょうどいいだろうけど──」
「ちょうどいいとかじゃない。子供の頃からミキが好きだったんだ。ほかの女にぶれたこともない」
「本気?」
「本気だよ。ミキが好きだ」
「『好き』って、そればっかり言わないでよ。こっちがあれだわ」
「照れる? 恥ずかしい?」
「っさい、訊くな」
 あたしは誓から目をそらして、「えー」とかつぶやきながら意味もなく髪に触ったり爪を噛んだりする。
「……何、もう。わけ分かんないんだけど」
「ほんとに気づいてなかったのか?」
「気づくかっ。そんな、……うわ、男に告られたの初めてじゃん」
「俺は、ミキさえよかったらつきあいたいと思ってる」
「はあっ?」
「『はあ?』って」
「いや、いきなりつきあうとかハイレベルなこと言うからじゃんっ。そんなん無理に決まってんでしょっ」
 思わず言い切ってしまうと、誓があからさまに押し黙ったので、「……ごめん」とあたしはつぶやく。それからため息をついて、何と答えるか迷いながら言葉を選ぶ。
「つき、あう……とかは、ほんと、まだ無理」
「まだ」
「ん。でも、それはチカだからじゃなくて、男の子をそういうふうに見たことがないし、分かんないっていうかさ」
「そういうふうに見たことがないって、初恋は?」
「初恋……は、した……かなあ? 憶えてない」
「………、ミキは、ずっとナオが一番だったもんな」
「あー、そうか。そうだね。ナオがいる感じ」
「ずっとそのままじゃダメだろ。弟なんだぜ。言っちゃ悪いけど、ミキから離れないとナオはずっとミキに依存してるぞ」
「い、依存って言い方はどうかと」
「依存じゃなかったら、……もっとやばいだろ」
 後半が小声で聞き取れなくて、「え、何て?」と訊くと、誓は首を横に振った。そして、またあたしを見つめてくる。
「ナオのためでもいいよ、初めは。俺のことも考えてほしい」
「……ナオのため」
「そう。ずっとナオを甘やかしてたらいけないとは思わないか?」
「甘やかしてる、のかな」
「ただの姉弟じゃないか。必要以上に仲良くなくていいんじゃないか。俺はひとりっこだけど、たとえば友達とか、兄弟とはかなりドライだぞ」
「ナオは危なっかしいっていうかさ」
「おじさんとおばさんがそういうのは気をつけてやるだろ」
「……そ、だけど」
「とにかく──じゃあ、今すぐつきあってほしいとかは言わないけど。クリスマスは、プレゼントいらないからデートしたい」
「で、デートって」
「ダメか?」
「う……ん、まあ、じゃあ──。あっ、と、泊まるのはなしだよ!?」
「分かってるよ」
「ん……それなら、分かった。……クリスマス。イヴね」
「ほんとに?」
「うん」
 あたしがうなずくと、誓はぱっと笑顔になって、「やったっ」とガッツポーズまでした。
 何だ、こいつ。そんなにあたしが好きだったのか。本当に、ぜんぜん知らなかった。誓の言う通りだ。尚里のことしか見えていなかった。
 クリスマスイヴ。誓とデートをするということは、家は留守にすることになってしまうのか。きっとこれが誓の言う悪いくせなのだけど、やはりとっさに、尚里の心配をしてしまう。
 あたしがクリスマスに家にいないと知ったら、尚里はがっかりするだろう。その落ちこみに想像がついて、大丈夫かなあ、と早くも心配になる。
 いや、でも、確かに姉の不在で落ちこむ弟というのもおかしいのか。依存という言葉は、ぐさっと来た。そうなのだとしたら、やはりあたしが少し、尚里を突き放すことも覚えなくてはならない気がする。

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