男の娘でした。-14

夏の海に行こう【2】

 新幹線からローカル線に乗り換えて、車窓の向こうにきらきらと海が輝く景色が見えてきた頃、わりと小さめの駅で降りた。ざわりと抜けた風には潮の匂いがして、青空では太陽が真っ白な熱射を放っている。
 にぎやかな一行から一歩下がって耳を澄ますと、波の音も聴こえた。「癒?」とまばゆい日射しの中で伊鞠が振り返ってきて、僕は急いで彼女の隣に並びなおすと、「波の音がした」と言う。伊鞠は優しく微笑んで、「私も波の音は好き」と答える。
「そうなの? だったら、来年も来たいね」
「駅は憶えたから、ふたりでも来れるかもしれない」
 僕はぱちぱちとまばたいたあと、「えへへ」と伊鞠の手を取って握る。
「ラブホはノーカンだし、ゆっくりふたりで泊まったことってないもんね」
「うん」
「いつかふたりで来ようね」
 伊鞠がうなずいていると、聖生の先導で旅館やペンションが集まる宿屋街に入っていた。この時間帯は旅客は海に出払っているのか、人通りは少ない。
 駅からそこまで歩いたわけではないのに、軆がほてって汗ばむ。
「ここに泊まりまーす」と聖生が案内したのは、若干ひなびていても歴史はありそうな旅館だった。ここで聖生はあの新作を撮影したわけですな、と思っても、それは言わないでおく。
 日本庭園を飛び石沿いに抜けて、引き戸を開けた聖生が「こんにちはーっ」と声をかけると、「聖生ちゃん、いらっしゃいませ」と女将らしき和服の女の人が僕たちを出迎えてくれた。
「あらあら。こんなにお友達連れてくるなんてめずらしいですね」
「なっちゃんが友達連れてきたらって言ってくれて」
「そうですか、夏瀬が」
「まあ、実際に俺と所縁あるのはこいつだけなんですけど。こいつがあちこちに声かけてくれて」
 聖生はそう言って僕をしめし、僕は照れ咲って女将さんに頭を下げる。女将さんは柔らかく微笑し、「ありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね」とお辞儀までしてくれた。
 そして僕以外のみんなにも丁寧に挨拶をした女将さんは、台帳の記入を確認して、「では、お部屋にご案内致します」の楚々と廊下を歩き、僕たちを大部屋に連れていってくれる。
「俺はなっちゃんの部屋行くから」と途中で聖生は立ち止まり、「あとで海に行くとき、合流しよ」と僕の肩をぽんとした。「このへんビキニとか売ってんのかな」と首をかしげると、「俺が瑛瑠のも持ってきた」と周到な返事を残して聖生は別れていく。
 六人になって女将さんについていきながら、「おにいちゃん、きっぱり女装やめないよね」と姫亜がつぶやき、「プロはやめたよ」と言うと、「伊鞠さんはいいんですか?」と姫亜は伊鞠を見上げる。「私は女装をやめてほしいと言ったことはないけど」と伊鞠はゆっくり答える。
「私のために女装をやめる覚悟まで決めてくれたのは嬉しい」
「覚悟決まってませんよ、あの人。ビキニですよ」
「………、聖生さんが言ってたこと、わりと正しい気がして。男の視線が多いだろうから、胸は隠しておいたほうが自然かも」
「そこは『俺は男だ』って胸ぐらい張るとこじゃないですか。男の中の男になるとか言ってたのに」
 伊鞠は僕をじっと見つめて、う、と僕も口ごもる。「まあまあ姫亜ちゃん、兄貴が欲しいなら俺がなってあげるから」と飛紀がからから笑って、お前は分かってない、と言いたかったけど、僕が言ったら姫亜が機嫌を損ねるので黙っておく。
 しかし、やはり「飛紀くんはおにいちゃんっていうかねえ」「そうだなあ」と桜音さんと悟さんが苦笑して、「え、何ですか」と飛紀はきょとんとする。
 そんな会話で僕たちの状況を察したのか、女将さんは笑いながらも立ち入ったことは言わずに「さあ、こちらになります」と立ち止まってひざまずき、ふすまを開いた。
「わあっ、ひろーい!」
 大部屋といっても、六人も詰めこまれたら狭苦しいかなと思っていたけど、まったくそんなことはなくて声をあげてしまった。
 壁は大きな窓に面して、障子が日射しをやわらげている。一面に敷かれたたたみの匂いがして、木目の天井も高い。静かだし、ちゃんとクーラーで室内を冷やしてくれている。
「宴会を行なったり、臨海学校の子供たちも泊まる部屋なんです」と女将さんは説明して、手早くテーブルを出すと急須から六人ぶんのお茶も淹れた。
 僕たちは荷物をおろして、そのお茶をいただく前に心づけを女将さんに渡しておく。「ありがとうございます」と嫌味なく受け取った女将さんは、何時頃に夕食を運ぶかなどを確認したあと、「どうぞごゆっくり」と頭を下げて立ち去っていった。
「すぐ海行っていいのかなー。海行きたーい」
 そわそわする僕に「聖生さんに確認したら?」と伊鞠は言って、「そだねっ」と僕はスマホを取り出す。よし、電波は届く。
『もう海行くの?』と聖生にメッセを飛ばしたけど、なかなか既読さえつかない。五分経過。「あ、これはさっそく彼氏とやってるな」と僕がつぶやくと、姫亜と飛紀は咳きこんで桜音さん夫婦は哄笑した。
「しょうがないなあ。どうしよう、何発やるか分からないし、待ってるのもあれだよね」
「決めつけていいのか、そこは」
 そう言った飛紀は無視して、「姫亜と飛紀、桜音さんと悟さんは海に行ってて」と僕はちゃっちゃと指示する。
「カップル行動だよ。姫亜と飛紀が海で遊ぶなら、桜音さんと悟さんは荷物番。もちろん交代もしてね。で、僕と伊鞠はここで聖生と合流できるのを待つ」
「いいと思う」と桜音さんがうなずいた。
「何なら、私と悟さんはのんびりしたいから、姫亜ちゃんと飛紀くんはたっぷり遊んで」
「え、その前に、姫亜ちゃんは俺とでいいの……?」
「あっ、えと……はいっ!」
「俺たちだけ、カップルとは違──」
「私、飛紀さんがいいです!」
 よく言った妹。そのまま突っ走ってこい。
「そ、そうなんだ」と飛紀はまだとまどっているようだけど、自分以外に姫亜とペアになる相手もいないと思ったのか、「じゃあふたりで」と姫亜の頭をぽんぽんとした。
 嬉しそうな姫亜は、僕に向かって目配せで「いいね!」を送ってきた。僕はうんうんとうなずく。やっぱり、姫亜が喜んでくれるのは兄として寿ぎたい。
 着替える場所や食べ物などは、海の家に完備されていると聖生に聞いていたので、その情報を渡し、まず姫亜たち四人が海に出発した。「あれこれ言われても、癒は妹想いね」と伊鞠が湯飲みを下げながらくすりとして、「姫亜と飛紀は、そろそろねえ」と僕も笑ってしまう。
 バッグを開いて、海に持っていくものをまとめつつ、「伊鞠も水着だよね?」と訊いてみると、「一応持ってきた」と座卓を片づけた伊鞠は僕の隣に腰をおろす。
「ビキニ?」
「ワンピース。桜音と買いにいった」
「持ってなかったの?」
「学生時代の水着はちょっと」
「スク水かあ。それもまたよしなのに」
「よくない。二十七になるのに」
「僕が着たら似合ったかな?」
「着てみたいの?」
「いや、まあ何となく。てか、僕、ほんとにビキニでいい?」
「着たいんでしょ」
「姫亜の言うことも分からないでもないし」
「………、前も言ったけど、癒がかわいいのは、ほんとは私の前だけにしてほしい」
 伊鞠を見た。「じゃあ、」と言いかけると「でも」と伊鞠がさえぎる。
「それ以上に、癒が実は男らしいのは、ふたりだけの秘密だから」
 僕はまばたきをして、「男らしいかな」と照れてしまうと、「私のために大切なものだって捨ててくれたじゃない」と伊鞠は微笑む。「僕、女装捨てられてるかなあ」と首をかしげる。
「私はお店にいた頃の癒も知ってるから。すごく変わったと思う」
「そ、かな」
「髪だって切っちゃったし」
「えへへ。伊鞠が分かってくれてるなら、それでいいね」
 そう言って僕は伊鞠の肩にことんと頭を乗せる。蝉の声が遠巻きに響いているけど、やっぱり静かだ。
 僕たちは何となく手をつなぐと、視線を重ねた。僕は軽く身を乗り出し、伊鞠の唇にキスをする。それから、腕をまわして、伊鞠の軆をぎゅっと抱きしめ──た、そのとき。
 唐突に、かたわらに置いていた僕のスマホが鳴った。
「……えー、何、このタイミング」
 伊鞠を腕に抱くままがっくりすると、「聖生さんかもしれない」と伊鞠は僕に預けかけていた軆を起こす。「むー」と僕はふくれつつも、伊鞠と軆を離してスマホを手に取った。
 確かに聖生の名前が表示されていた。もうちょっと後戯しててよかったのに、なんて思いながらタップでメッセを開く。
『ごめん、返事遅れた。
 なっちゃんと話してた』
 話。聖生はごまかすような奴じゃないよな、とは思いつつ『やってたんでしょ?』とストレートに返すと、『ほんとに話し合いだよ』と返事が来る。
『なっちゃん、俺のDVD観ちゃったんだって』
 眉を寄せた。いつだか、彼氏さんに実際にAVを観られたら、という不安を聖生が語っていたのがよぎる。
『どんな反応だった?』
『複雑だったみたい、やっぱ』
『別れるの?』
『そこまでは話してない。
 てか、みんな待たせてる?』
『適当に遊びにいかせたよ。
 僕と伊鞠で、聖生のこと待ってる』
『りょ。
 玄関で落ち合おう』
 了解のスタンプを押し、「聖生、彼氏さんと揉めたのかも」と僕が言うと伊鞠はしばたいた。簡単に事情を説明すると、伊鞠はしばし考えこみ、「私も癒が仕事辞めてなかったら複雑だったと思うから」とつぶやく。
「彼氏さん──けっこう、つらいかもしれない」
「……そうだよね。でも、聖生は恋愛のために仕事は辞めないだろうからなあ」
 そんなことを話し、僕たちは大部屋をあとにして玄関に向かった。玄関にはすでに聖生がいて、少しぼんやりした目をしていた。「聖生」と声をかけると、こちらを向いてあやふやに咲う。
「大丈夫? 目からハイライトが消えてるよ」
 聖生は僕の言葉には言い返さず、首をかたむけて「ほんとは、友達連れてこいって言われてさ」とつぶやく。
「何か変だな、ふたりで会いたくないのかな、とは思った」
 僕はいつもの覇気がない聖生を見つめ、「彼氏さん、観たくないって言ってたんだよね」と腕を組む。
「なのに、何で観たの? 誰かに観せられたの?」
「会えなくて寂しかったから、観ちゃったって」
「えー、そこは聖生に電話でもして声聴けよお」
「声聴くとやりたくなって、もっと寂しいじゃん」
「そうかなあ。僕は電話で、伊鞠の声だけでも聴けると幸せだよ」
 聖生は僕と伊鞠を見て、「俺も瑛瑠みたいな恋愛したいなあ」と泣いているみたいに咲った。
 何だか、予想以上にこじれたのだろうか。僕と伊鞠が顔を見交わしていると、「さとちゃん」と不意に背後から声がかかった。
 ん、と振り向くと、そこには短髪に童顔が人懐っこい感じの、軆つきはしっかりした男の人がいた。聖生もその人を見て、「なっちゃん……」と言った。この人が豆柴系の聖生の彼氏か。
 彼氏さんは僕と伊鞠に目礼したあと、「俺、さとちゃんのこと好きだから」と聖生をまっすぐ見つめた。
「それだけは分かってて」
「……うん」
「さとちゃんが好きで、その、……嫉妬とか、あって。さっき、部屋できついこと言ったかもしれないけど」
「俺が好きなのも、なっちゃんだよ」
「……ありがとう。でもやっぱり、ほんとは、あんなさとちゃんを知ってるのは俺だけでいてほしい」
 聖生は曖昧に微笑むと、「もう仕込みの時間でしょ」と言った。彼氏さんはまだ何か言いたそうだったものの、こらえるようにうなずくと、「失礼しました」と僕と伊鞠に謝って去っていった。
 僕はその背中を見つめたのち、聖生に目を向ける。
「でも、辞めないんでしょ」
「彼氏のために引退なんて通らないよ」
「辞めたいの?」
「……辞めたくないから困るんだよ。瑛瑠は特殊なの。森沢さんのために、さらっとすごい才能捨てちゃって」
 聖生はため息をついて、「どうしようかなあ」と言いつつミュールに足をさしこむ。
 僕は伊鞠を失うくらいなら、何でも犠牲にするけれど、普通そこまで恋愛至上主義ともいかないのだろうか。特に、聖生は今の仕事を楽しんでいるわけだし──どちらか選べなんて、酷なのかもしれない。

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