僕の家においでよ
八月十三日から、伊鞠も仕事がお盆休みになる。十二日の夕方に着信があって、「慰安飲みしよー!」と嬉々として通話口で言うと、『今夜は会社でそれだから、遅くなるの』と答えた伊鞠に僕はずーんと堕ちた。
しかも、『先輩、部長が乾杯にみんな揃えって』という声に、『ありがとう君嶋、すぐ行く』という伊鞠の返答が聞こえて僕はどきんとした。
君嶋って。君嶋って。
『じゃあ癒、今夜は連絡できないかもしれないけれど、明日また』
伊鞠のアルトの声は極力優しくて、僕は「うん……」と答えて通話を切った。
蝉の声。消える画面。伝う汗。
客の途切れた駄菓子屋の会計で、僕はすうっと息を吸い、「あーっ!!」と天井に叫んだ。
「部長何なの!? いまどき休み前に飲み会ってパワハラかよ! 連休のテンション下がるわ、空気読め、せめて乾杯はしたい奴でやっとけ! つか君嶋、マジ何なの!? 酔って伊鞠に触ったらしたら、ほんと、何か、死ねよ!? ちょっと死んでくれませんかね!? 僕の伊鞠なのに、何で伊鞠の仕事は僕と伊鞠を邪魔す──」
ここまで言って、ばしっと頭をはたかれた。「ううー」と涙目で振り返ると、仏頂面のおじいちゃんだ。
おじいちゃんはこまねいて「見苦しい」と息を吐くと、「働くっていうのは、そういう場も必要なんだ」と続ける。僕の愛らしすぎるうるうるした瞳も通じないんだよなあ、この人。
「それは、キャバレーで働いていたお前も分かっているだろう」
「キャバじゃないよ。クラブだよ。一緒にしないで」
「あと、他人様のことを簡単に『死ね』などと言うな」
「おじいちゃんは、おばあちゃんがレイプされても犯人に死んでほしくないの?」
「お前は喩えが下手というか……極端だな」
「死んでほしくないの?」
「死んでほしいと思うだろうな」
「ほらー。僕も伊鞠が男に愛想咲いしてるなんてしんどいの」
「それはただの仕事なんだ。切り替えて考えなさい」
「でもー」と僕がお菓子を買ってもらえないみたいに唸っていると、「伊鞠さんって、たまに癒を訪ねてくれるあのお嬢さんよねえ」とおばあちゃんも顔を出した。「うん、そう!」と僕がぱっと表情を変えてにっこりすると、「綺麗な人だから、癒は心配なのよ」とおばあちゃんは顰めっ面のおじいちゃんをなだめる。
「癒を訪ねてくるって、あの……何だか、言い方は悪いが、ふしだらそうな女性か。……女性なのか?」
「ふしだらなのは、たぶん聖生だね。あと、あれ男」
「じゃあ、あの背の高いまじめそうな女性か。あれも──女性なのか?」
「女性です!」
「そうなのか。彼女なら……よく癒とおつきあいしてくれてるな」
「そこは僕がね、男らしく男の娘を辞めてね、」
「治子たちにも紹介してるのか?」
「んんー、してないけど、前にそろそろって言われたよねー。僕も伊鞠のご両親にも挨拶したいな」
「したらいいじゃないか」
「してもいいのかな?」
首をかしげると、「いいと思うわよ」とおばあちゃんがほっこり微笑む。
「少なくとも、うちはちょうどお盆で治子たちも家にいることだし。連れていらっしゃい」
「そっか! じゃあ今夜──は分かんないけど、明日伊鞠に訊いてみるねっ」
うんうんとおばあちゃんはうなずき、「癒のいい人は彼女のほうだったか」と何やらおじいちゃんは、僕の恋人が伊鞠なのか聖生なのか分かっていなかったようなことをつぶやく。
そんなやりとりをしていると、台所のほうから夕飯の匂いがただよってきて、「さて、姫亜を手伝いましょうかね」とおばあちゃんは奥に引っ込み、おじいちゃんも「とにかく、店番中に変なことをわめいたりするんじゃない」と釘を刺して行ってしまった。
僕は会計台に上体を預け、両親に挨拶かあ、と交際の進展ポイントにひとりでにまにました。つきあいはじめて二年半は経過しているわけだし、お互いの両親に挨拶するのも早すぎではないだろう。むしろ遅いかも。
そういえば、伊鞠の家族の話ってそんなに聞いたことがない。経済力のある今でも、実家に住んでいるのだから、不仲とかはないと思う。
よし、彼女の両親に挨拶なら、さすがにスーツ着ちゃうか。いや、何かこのあいだ、聖生に僕の男としてのお洒落はスーツ一択かと突っ込まれたな。スーツ以外の男のフォーマルって何だろう。タキシード。それは結婚式レベルだ。
うーん、まあおとうさんに訊くか。と、そのあたりは投げることにして、今頃伊鞠は部長や君嶋とお酒かあ、とやっぱりそこにため息をついた。
その夜は伊鞠からメッセ一通もなく、寂しいなあと軽く落ちこんでふとんにもぐった。おとうさんとおかあさんに伊鞠に会ってほしいと言うのは、ひとまず伊鞠の都合を訊いてからにしよう。
翌朝、『おはよー!』と伊鞠にメッセを送っておき、そのスマホを連れて店番をした。お盆は周辺に帰省した都会の子供たちが物珍しそうにやってきて、わりといそがしい。
お昼ごはんのとき、ようやくスマホを見ることができて、伊鞠から『おはよう。よかったら、夕食は一緒に食べたい。』とメッセが来ていた。小躍りする僕を家族はあきれた目で見る。お素麺をつゆに浸す姫亜も僕に変な目をしていたけれど、「今夜は僕、夕食は伊鞠とね」と言っておくと、「はいはい」と姫亜は生返事をしてお素麺をすすった。
伊鞠と十九時半に定食屋で待ち合わせるのが決まると、午後も僕は駄菓子を売ってかき氷をごりごり作った。かき氷は予想より売れ行きもよく健闘していて、「来年は、自動のやつ買うくらい、いいかもしれないね」とおかあさんが前向きにおじいちゃんに言ってくれている。家でふわとろかき氷を食べれられるなら、ヒマを見つけて僕が一番食べたいなあ、なんて職権乱用の夢を見ていると、あっという間に日が暮れたので閉店作業をした。
とはいえ、十九時台はまだ空に夕陽がじんわり名残っている。ひぐらしが鳴いて、アスファルトの照り返しで空気も蒸している。
財布とスマホと鍵だけ持った僕は、汗ばんだ軆で走って夏風を切りながら、いつもの路地にある定食屋に飛びこんだ。
「よう、彼女さん来てるぞ」
大将がしめした席で、伊鞠は凛としたたたずまいで文庫本を読んでいた。そんな彼女に「伊鞠ーっ」と僕が飛びつく犬のように駆け寄ると、伊鞠は本から顔をあげる。
テーブルにあるのはお冷やだけで、伊鞠はいつも注文せずに僕を待ってくれている。「ごめん、癒はお盆でも仕事なのに」と本をおろした伊鞠に、「平気だよー」とにこっとして僕は向かいの席に座った。
「伊鞠こそ、昨日は大丈夫だった? 無理に飲まされなかった?」
「私は、ある程度飲んだら断るから」
「メッセもなかったから、つぶれたのかなって」
「家に着いたのは零時もまわってて。起こしたら悪いかなって」
「えー、悪くないよー。起こしていいし、ほんとに寝てたら起きないし」
伊鞠は微笑んで手元の本を閉じ、「お腹空いちゃった」とちょっとはにかむように言った。かわいい、と思いながら僕はうなずいて、メニューを伊鞠に渡し、「そいえば」と例のことを切り出してみる。
「伊鞠って、僕の両親に会ったことないよね」
「ご両親? そうね、話なら聞くけれど」
「僕も伊鞠の両親に会ったことないじゃん」
「話はしてるけどね」
「僕の話してるの?」
「してたらいけない?」
「いや、何か……僕とか、反対されない?」
「どうして?」
「その、何というか、自分で言うのもあれだけど、女装……」
「そのことを話したときは──」
「話してるの!?」
「隠していても仕方ないでしょう」
「そう、だけど。やっぱヒカれた……?」
「癒の性指向は心配された」
「性指向」
「私を男として見てるんじゃないかとか」
「伊鞠は女の子だよ」
「いつか男に走るんじゃないかとか」
「伊鞠以外は男も女もいらないよ」
「……癒はそう言ってるって話したら、逆に『そこまでの男は離さないようにしろ』って応援してくれるようになった」
「応援してくれてるの」
「うん」
「そうなんだ……ふふっ。嬉しい。えへへ」
僕がひとりで照れて喜んでいると、「どうして?」と伊鞠は開きかけていたメニューをテーブルに置く。伊鞠の両親の好評価に喜色するあまり、「え、何が」と僕がすっとぼけた問い返しをすると、「急に私の親のことなんて訊くから」と伊鞠は答える。
「あ、そうそう! それでね、そろそろ僕たち、お互いの両親に挨拶してもいいかなーとか思って」
「挨拶」
「僕の両親は、伊鞠に会いたいって言ってるし。僕も伊鞠の両親に会いたいし。伊鞠は?」
「私は──もちろん嫌ではないけど」
「うん」
伊鞠はわずかに首をかたむけ、「少し、緊張するかもしれない」と言う。
「そう? 僕の家族は怖くないよ。姫亜とかもう知り合いじゃん。強いて言えばおじいちゃんが堅物なんだけど、むしろおじいちゃんと伊鞠は合うのでは……?」
おじいちゃんのこわもてを思い返して僕が考えこむと、伊鞠はくすっとして「じゃあ」と答えてくれる。
「私の両親にも、癒と挨拶できる機会があるか、話してみる」
「うんっ。僕のほうはね、何ならこのあと来てくれてもいいよ」
「えっ。それはさすがに、」
「いや、それくらい楽な感じで来ていいから。あの人たち、そんな深く考えてないから。あ、僕と伊鞠の仲を深く考えてないんじゃなくて、服装とか手土産とか、そういうのは気にしないってこと」
「そうなの……?」
「そそ。お盆だから、おとうさんとおかあさんも今ならゆっくりしてるし。来れるなら来てよ」
伊鞠は一考し、「ほんとにこんな格好でもよければ」と確かに仕事帰りよりはラフな服装を気にする。「大丈夫。ぱりっとしてるほうが僕の親も構えるし」と僕がにっこりすると、伊鞠はうなずいて「じゃあ、ご両親もお盆が都合いいなら、ご挨拶に行こうかな」と微笑してくれた。
僕はチキン南蛮定食、伊鞠は天丼を注文して、ひとまずはそれがほかほかのうちに食べた。「エビ天おいしそう」と言うと、二匹のうち一匹を伊鞠がくれたので、僕もタルタルソースのかかったチキンをひとつお裾分けする。
相変わらず、僕を眺めるためにこの時間帯にここにいる男の客もいるけれど、スウェットで肌見せはシャットアウトしている。「僕、どんな格好で伊鞠の両親に会えばいいかなあ」とつぶやくと、「癒もそんなに気にしないで」と伊鞠は言ったあと、「女装で行ってもおもしろがるかもしれない」とおかしそうに笑った。「そこは男なのアピールしたいよお」とか言いつつ、いつか女装してるとこ見てもらえるくらい、伊鞠の両親と打ち解けられたらいいなあと思った。
ちなみに、ここでの食事のお会計は、交互におごることにしている。今日は伊鞠がはらう日で、僕は家族のグループに今から伊鞠を連れていくことを投稿した。既読がついて、『今からって、お菓子もないし、片づけもしてないよ』とおかあさんがいち早く反応し、『素の有元家を見てほしいんだよね~あとお菓子は店にある』と僕が送信すると、『待って、私もうパジャマだから十分ぐらい稼いで』と姫亜が飛びこんでくる。『いいじゃんパジャマ』と返すと、『かわいい奴に着替える!!』と残して姫亜は反応しなくなった。『本当に店のお菓子でいいのか?』とおとうさんの投稿も来て、『おじいちゃんの仕入れに自信持って』とか応じていると、「癒」と伊鞠が財布をしまって隣にやってきた。
「私、ほんとにお邪魔してもよさそう?」
「あんまり家の中片づいてないし、たぶん出てくるの駄菓子だけどいい?」
「それはぜんぜん構わない。ただ、くつろいでるところだっただろうし、もし迷惑だったら」
「いつも通りの僕んち見てほしいから」
「勝手に押しかけたと思われるのも──」
「いいんだよ、それで。伊鞠はときどき勝手なわがまましていいの」
伊鞠はちょっとだけ困ったように笑ったものの、こくりとして僕と手をつないだ。
【第十七章へ】