僕の育った家で
二十時半が近づき、さすがに道も暗い。普通に歩いて家まで、まあ姫亜の言う十分間は稼げるだろう。路地を抜け出し、横切る二十一時閉店のスーパーには、見切り品目当てなのか、わりあい客が出入りしている。
坂道は足元は真っ暗でも、そのぶん空の月と星の光がさらさら綺麗だった。ゆったりした風は生温く、秋に近づく虫の声も澄んでいる。やがて通学路沿いの道に曲がり、すぐに閉店した駄菓子屋の店先が見えてくる。
「こっち」と僕は脇道に入り、玄関まで伊鞠を案内した。僕は鍵を開けて引き戸の玄関を滑らし、「ただいまーっ」と家の中に声をかける。
「癒、おかえり」とまず顔を出したのは、さっきのグループ同様おかあさんだった。「この人、おかあさん」と僕が紹介すると、「初めまして。森沢伊鞠です」と伊鞠は深々と頭を下げる。そんな伊鞠におかあさんはまばたきをして、「またかっこいい人を見つけてきたわねえ……」としみじみとつぶやく。
「かっこいいってさ。伊鞠、女の子だよ。かっこいいけど」
「分かってる。でも、かっこいいってよく言われるでしょう」
「そうですね。『かわいい』はあんまり言われません。けど、癒くんが言ってくれるので」
「へえ。癒、やるじゃない」
「えへへー」
「あがってください。散らかってるし、お茶くらいしか出せませんけど」
「あ、急に伺っちゃって」
「いいのいいの、どうせ癒に引っ張られてきたんでしょう。こちらこそごめんなさいね」
にっこりしてくれたおかあさんに、伊鞠もほっとした様子を見せて、「お邪魔します」と僕の家に上がる。
嫁姑問題はなさそうだな、とか思っていると、「伊鞠さん」とかわいめのルームウェアの姫亜が顔を出す。「姫亜さん」と伊鞠も知った顔に表情をやわらげたものの、「もしかして婚約の話とか出てきた感じですか?」と姫亜が興味津々な様子で訊くと、「えっ……と」と僕を見た。
「僕たちの本気度アピールだよ」と僕が腕組みをすると、「結婚の話でいいじゃない」とおかあさんが言い、「ダメだよ、そういうのは!」と僕は地団駄を踏む。
「ちゃんとプロポーズはさせてよ!」
「今、そう言って、しちゃってるようなものじゃない」
「ちゃんとするの!」
「はいはい。伊鞠さん、よかったら私の両親にも挨拶してくれる?」
「はい。あ、お店にたまにいらっしゃる、おじいさんとおばあさんでしょうか」
「会ったことある?」
「見かけるくらいですが」
「そうなのね。じゃあ、こっちにどうぞ」
おかあさんが伊鞠を案内し、僕は姫亜をつかまえて「まだ婚約とかいう話はダメなの」と言った。「しないの?」とちょっと驚いたように姫亜がしばたき、「するけど、その、仕事してからなの」と僕が言うと、「働いてない自覚あったんだ」と姫亜は失礼な言葉を返す。「いや、働いてるけどっ──」と僕が言いかけたところで、「癒、帰ってたのか」とおとうさんが店のほうから現れる。
「彼女さんはどうした?」
「あ、居間に行っちゃった」
「そうか。お茶請けに駄菓子ってなあ、これくらいしかないぞ」
おとうさんはお煎餅やチョコレートバーを抱えていて、「いいんじゃない?」と僕はそれを受け取って居間に向かった。するとそこでは、ちょうどおじいちゃんとおばあちゃんに挨拶する伊鞠がいた。「お店で会うと会釈してくれてたわねえ」とおばあちゃんは微笑み、「あんな孫ですが、よろしくお願いします」とおじいちゃんも伊鞠のしゃきっとした感じが気に入ったようだ。「お菓子だよー」と僕はおかあさんが淹れてくれているお茶に駄菓子を添える。
「伊鞠、この人が僕のおとうさんね。駄菓子をセレクトしてきてくれました」
伊鞠はこちらを振り返り、「初めまして、お邪魔しています」とおとうさんに頭を下げる。「どうもどうも」とおとうさんも頭を下げ、「癒は男を連れてくると覚悟していたから、お嬢さんっていうのは驚きました」と笑う。……確かに、学生時代の恋人は男ばっかりだったけど。
座卓を囲んでみんな腰をおろすと、緑茶と駄菓子を食べながら歓談した。「癒は子供っぽいから、伊鞠さんみたいにしっかりした女性はありがたいね」とおかあさんが言って、「癒は伊鞠さんに迷惑もかけるかもしれんが、どうか見捨てないでやってほしい」とおじいちゃんもうなずく。
伊鞠は僕の家族の言葉ひとつひとつにうなずき、「癒くんには大切にしてもらってるので、私も癒くんを大切にしたいです」と言ってくれた。
「お似合いだねえ、よかったねえ」とおばあちゃんは嬉しそうに咲って、「癒、お前、いまさら男に走るなんてなしだぞ」とおとうさんは言う。「おにいちゃんはちょっとそこ心配だけどね」と姫亜がお煎餅をかじり、「僕は男とか女じゃなくて伊鞠なのっ」と僕が意気込んで断言すると、伊鞠はちょっと照れたけど、家族は嬉しそうに笑っていた。
「癒は伊鞠さんのご両親に挨拶してるのか」
伊鞠が僕の家族となごんだところで、おじいちゃんが生まじめな話題を出す。
「挨拶に行こうと思ってるよ」
「帰ったら、私の両親に都合の合う日を訊きます。今日こちらに伺うことになったのは急だったので」
「やっぱりおにいちゃんが今日言い出して、そのまま伊鞠さん連れてきたんだ」
「ほんとに癒は、いつも行動が突飛なんだから。ごめんね、伊鞠さん」
「私は、お互いに親に挨拶したいって言ってもらえて、嬉しかったので」
伊鞠がそうはにかむと、「ほんといいお嬢さん捕まえたなあ」とおとうさんが何だか涙目になる。「癒ならきっと気に入ってもらえるよ」とおばあちゃんはにっこりしてくれた。
そんな感じでまったりと過ごし、二十二時になった頃に「そろそろ帰さないと伊鞠さんも困るわね」とおかあさんが切り上げた。
「癒、駅まで送ってあげなさい」とおじいちゃんが言って、「はあい」と僕は立ち上がる。「癒、帰り道ひとりになるの大丈夫?」と伊鞠に心配され、正直不安だったけど「何とかなるでしょ」と言っておく。
「伊鞠さん、また来てくださいねっ」と言った姫亜に伊鞠は笑顔でうなずき、両親と祖父母にもお辞儀をして、伊鞠は僕の家をあとにした。
「癒の性格のルーツが分かった気がする」
夜道を手をつないで歩きながら、伊鞠がそう言ったので「そお?」と僕は首をかたむける。
「ご両親もだけど、おじいさんとおばあさんも素敵な夫婦だね」
「地味にらぶらぶしてるからね、あのふたり」
「癒が愛されてるのも伝わってきた」
「何だかんだで、僕が何やっても否定したことないもんなー、みんな」
「大事なことだと思う」
月明かりの中で伊鞠は微笑し、「そだね」と僕もおもはゆく咲う。
熱気は残っていても、風がほんの少し涼しい。坂道を最後までくだり、車道を渡ると、まだコンビニやドラッグストアが明るい駅前だ。
改札の前に来て、「気をつけて」と僕が手を放すと、「癒こそ」と伊鞠はくすっとする。
「私の両親の返事は、明日には伝えられると思う」
「待ってる」
「私の家に来るときは、癒もそんなに気負わなくていいから。特におかあさんには、本当によく話してるし」
「仲良しなんだね」
「うん。おとうさんも一緒にお酒が飲める人が理想らしいし、そのうちお酌でもしてあげたら喜ぶかも」
「なるほど。ホステス経験が生きるとき」
うむとうなずいていると、伊鞠は「じゃあまた」と手を振り、改札へと踏み出した。伊鞠は後ろすがたも凛としてかっこいい。伊鞠がICカードで改札を抜けてから、「ばいばい!」と僕が両手を掲げると、彼女は振り返ってもう一度手を振り、ホームへの階段のほうに歩いていった。
伊鞠が見えなくなるまでそこにいた僕は、「よしっ」とひとり気合いを入れて、真っ暗な夜道で襲われないように気をはらいながら帰宅した。
翌日、宿題をサボってやってきたという常連の男子小学生に、「暑っついよお」とメロンのかき氷を注文され、氷をごりごり削っているとスマホに着信がついた。緑色のシロップをかけて、紙コップに盛ったかき氷を完成させて、「はいよ」とお代と引き換えに渡す。ほかの客はいないときだったので、手を拭いてからスマホを手に取ると、やはり伊鞠からのメッセだった。
『お盆は両親だけ帰省するんだけど、週末には帰ってくるから、癒が都合よければ、十七日か十八日においでって言ってる。』
スマホのカレンダーを表示させ、土曜日か日曜日か、と確認する。もちろん、僕のほうには不都合はない。土日どっちでもいいよっていうのは優柔不断だなあと思ったので、帰省から帰宅してすぐ訪ねたらご両親疲れてるかな、と『日曜日いける!』と返信しておいた。
思案しながら表情をくるくる変える僕を観察していたメロン少年は、「姫もいろいろ大変だよねー」と言って、「姫じゃないし、けっこう楽しんでるよ」と僕は答えておいた。
【第十八章へ】