男の娘でした。-18

君の育った家で

 僕が伊鞠の家に挨拶に行くと知り、結局服装も菓子折りも家族が見立ててくれて、僕は蒸し焼きのような快晴の日曜、伊鞠の最寄り駅に降り立った。
 スーツとまではいかなくても、いつもがスウェットでだらだらしてるから、ジャケットとスラックスは暑い。初めての駅なのできょろきょろしてしまいつつ改札を出ると、正面のコンビニの前にパンツルックの伊鞠がいた。
「伊鞠ー」と僕がてててと駆け寄ると、「おはよう」と伊鞠が言った通り、まだギリ午前中だ。伊鞠の家で、お昼ごはんを一緒にいただくことになっている。
「かっこいい?」と僕が服装を引っ張って訊くと、「かわいいかな」と伊鞠は咲って、僕は一瞬ふくれたけど、仕方ないことだと分かっているので機嫌は曲げない。
「今日も暑いねー。けっこう歩くなら、飲み物買っていこうかな」
「五分くらい。でも、飲み物持ってないなら、買っておいてもいいかも」
「そう? まあ、着いていきなり熱中症になってたら迷惑だよね。お水買っとこ」
 コンビニでレモンフレーバーの天然水を買って、僕と伊鞠は歩き出した。
 七月ほどじゃなくても、まだ蝉が鳴いている。道には街路樹や植木があって、僕の町より緑が多い印象があった。アスファルトの木陰が、ゆったり抜ける風に合わせて揺れる。
「駅前だけど静かだね」と言うと、「ベッドタウンだから」と伊鞠はショートカットを無造作に指先で梳く。
 伊鞠の家はマンションで、暗証番号を入力しないとエントランスも抜けられないところだったので、店先開けっ放しの家で育った僕はそのハイテク感に感動してしまった。
 エントランスも清掃されて、外側に面して作られたポストのほか、自販機や陽光が射しこむキッズスペースもある。「伊鞠の家は、もしやお金持ちですか?」と問うと、「一軒家にお店もついてる癒ほどじゃないと思うけど」と返ってきて、そうなのかなあとエレベーターを待った。
 伊鞠の家は七階で、鍵がまたカードキーだったので「すごっ」と僕は言ってしまい、さすがに伊鞠は苦笑していた。
「ただいま」
 伊鞠がドアを開けると、「まりちゃん、おかえりなさい」と女の人の声がして僕は伊鞠を見た。
「まりちゃん」
「……そう呼ぶのはやめてっていうの忘れてた」
「いいじゃん、まりちゃん」
 にやにやしてしまっていたけど、足音が近づいてきて、はたと表情を切り替える。すると、そこには伊鞠の母親と思うにはちょっぴり意外な、かわいい感じの女の人がいた。
 でもやっぱり、「おかあさん、ただいま」と伊鞠が言ったので、おかあさんなのかと僕はどきどきする心臓を抑える。女の人は僕に目を向け、きょとんとまばたきをしたあとに、「あらあら……」とつぶやく。
「かわいい男の子だとは聞いていたけど、ほんとにかわいらしいわね。あ、かわいいなんてあんまり言ってほしくないかしら」
「いえっ、ぜんぜんそんなことないです。ほんとにかわいいんで。っていうか、有元癒です。伊鞠……さん、のおかあさん」
「はい、伊鞠の母です。ふふ、あんまり似てないからびっくりするでしょう」
「え、と……おかあさんも、かわいいですね。しゅっとしたおかあさんを想像してました」
「私がかわいいかは分からないけど、まりちゃんはおとうさん似だから」
「そうなんですか。おとうさんもいらっしゃいますよね」
「ええ。向こうで緊張してます。まりちゃんが男の子連れてくるのは初めてだから」
 おかあさんは柔らかく微笑し、あ、と僕は気がつく。誰かにこの雰囲気似てると思ったら、伊鞠の親友の桜音さんだ。硬派な伊鞠は、こういうふんわり女子が合うらしい。
 靴を脱ぎながら、「おかあさん優しそう」と言うと、「喧嘩になるとけっこう強気」と伊鞠は返し、喧嘩もするのかあと僕は思った。
 昼食らしきいい匂いがただよう廊下を抜けると、右手に広いリビングがあって、伊鞠の「ただいま」でソファを立ち上がった男の人がいた。背が高くて、体格もすらりとしていて、面差しは眉目がはっきりして──
 やばいすごいタイプだ、と思ったのを隠して僕がにこっとすると、伊鞠のおとうさんの思しきその人は、とまどったように伊鞠を見て「男の子……だよな?」とまず確認した。「男の子だよ」と伊鞠が返すと、その人は「あ、失礼しました」と咳払いして「伊鞠の父です」と頭を下げた。
「有元癒です」と僕も会釈を返し、「よかったらこれどうぞ。水ようかんです」と持たされた菓子折りを差し出す。「家がお菓子屋さんだとか」とおとうさんに言われて、「いや、そんなしゃれたもんじゃない駄菓子屋です。これもよそで買いました」と僕は照れ咲いする。
 僕のさしだした箱を受け取ってくれたおとうさんは、「おかあさん、水ようかんらしいから冷やしておこう」と左手のダイニングの向こうのキッチンにいるおかあさんに声をかけ、僕には「座ってください」とソファをしめしてくれた。
「伊鞠からお話は聞かせてもらってます。正直、伊鞠が連れてくると思っていた男性とは真逆で驚きましたが」
 伊鞠はおかあさんと共にキッチンに立ち、おとうさんはソファに座るとそう僕に笑みを作った。確かに、伊鞠に元男の娘のホステスとつきあうイメージはない。
「聞いている話で、伊鞠を大切にしてもらっているのは感じていました。ありがとうございます」
「あ、いえ。こちらこそです」
「伊鞠は堅苦しいところがあるので、疲れたりしませんか?」
「そんな。伊鞠は僕の癒やしです」
「癒やし。そうですか、よかったです」
 嬉しそうにうなずいてくれるおとうさんに、ちゃんと男らしいことも言わなくては、と思った僕は「あのっ」と改めて背筋を伸ばす。
「僕は……何か、見た感じ頼りないと思いますけど、伊鞠のことは幸せにしたいと思ってます。まだ、そのための用意とかそういうのはぜんぜんかもしれないけど、ちゃんとします」
 おとうさんは僕を見つめたのち、「はい」と物柔らかに笑んでうなずく。
「うちの娘を、よろしくお願いします」
 その笑顔は、確かに伊鞠に似てるなと思った。伊鞠を幸せにするために、ちゃんとする。ほんとにちゃんとしないとな、と感じていると、「お昼ごはん、用意できたよ」と伊鞠が呼びにきた。
「伊鞠が料理するって初めて知った」と僕が言うと、「普段はぜんぜんしないよな」とおとうさんが笑い、「そういうの言わなくても」と伊鞠は小さくむくれる。「まりちゃんはしないだけで、できないわけじゃないから」とおかあさんが笑って、「僕と一緒だ」と言うと、「じゃあ、ふたりで協力してやればいいさ」とダイニングに移動しながらおとうさんは伊鞠の肩を軽くたたいた。
 お昼ごはんはトマトクリームのパスタで、甘い玉ねぎやベーコン、シーチキンがパスタに絡んでおいしかった。付け合わせにマヨネーズで和えたキャベツのコールスロー、あっさりしたコンソメスープもある。姫亜はわりと和食を作ることが多いので、洋風な食事はレストランみたいで嬉しかった。「おいしい」ともぐもぐ食べていると、「食べっぷりはやっぱり男の子かしら」とおかあさんがくすっとして言った。
 そんな感じで、ありがたいことに僕も伊鞠の両親に気に入ってもらうことができた。もともと僕は、水商売をやっていて初対面の大人と打ち解けるのが早い。だから、緊張することもさせることもあまりなく、夕方くらいまで伊鞠の家で過ごしてしまった。
 日が暮れてきて、「夕飯も食べていく?」とおかあさんに言われて初めてはっとして、「たぶん、家で僕の夕ごはん用意されちゃってます」としゅんとすると、「じゃあ今度、夕食でお酒も一緒に飲もうか」とおとうさんが言ってくれて、僕はぱっと笑顔になってうなずいた。
 そして、まだ夕焼けなので伊鞠は僕を駅まで送ってくれて、「すごく楽しかった!」と僕が言うと、「よかった」と伊鞠も笑みを浮かべた。
「何で世のカップルは、相手の親に挨拶するのが怖いんだろうねー。楽しいよねー」
「癒、ぜんぜん緊張してないからすごかった」
「最初はどきどきしたけど! それより、伊鞠を育ててくれた人に気に入ってもらえるのが嬉しくて」
「私も癒のご両親に受け入れてもらえて嬉しかった」
「ふふ。これで僕たちも公認だね」
「癒」
「うん?」
「おとうさんに、私のこと幸せにするって言ってたじゃない」
「え、聞こえてたの」
「聞こえてた。……私、もう二十七歳だから」
 僕はぱたぱたとまじろぐと、夕陽に少し顔を伏せてから伊鞠は続けた。
「よかったら、早めに、お願いします」
 伊鞠を見つめる。それから、僕は頬を染めて、「えっ、えっ」と狼狽える。
「それ……いや、そういうのは、僕が言うよっ」
「うん。だから、何がとは言わない」
「言わないの!?」
「癒に言ってほしいから」
「そっ……うだよねっ。うん、言うから。ちゃんと、その、します」
「うん」
「早めに」
「うん」
「もう、何があっても伊鞠だけだから」
 茜色に染まる中で伊鞠ははにかんで微笑し、僕は我慢できなくて彼女をぎゅっと抱きしめる。
 ああもう、ほんとに僕の彼女はかわいいな。かっこいいし、かわいいし、最高だ。そんな人と、僕はきっと永遠を誓うことになるんだ。そう、早めに。
 幸せだあ、とその空色のようにじんわり心を溶かしながら思い、笑みを噛みしめて伊鞠の体温と柔らかさを強く腕につかまえた。

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