男の娘でした。-4

昔の僕は【3】

「あなたねえ、お店や私に隠そうともしないのはあっぱれかもしれないけど、さすがに、お客様たちの前で何を考えているの」
「はい……」
「あなたは売れっ子でもあるんだから、本当に、これは今後の人気にも響くわよ?」
「……ですよね」
「ひとりのお客様を贔屓したり、まして入れこんだりするなんて──」
 こんこんとお説教されながら、僕はさっき見た森沢さんの笑顔を思い出して、だって好きだもん、と思った。
 そう、僕は森沢さんが好きなのだ。惚れたのだ。あのかわいい笑顔をひとりじめしたい。僕の名前をもっと呼んでほしい。瑛瑠じゃなくて、癒と呼んでほしい。そして、もっと話したり、触ったり、見つめあったりしたい。そのためなら──
 僕は顔を上げた。そうだ。そのためなら、僕は。
「ママ」
 首をぐったり垂らしていた僕が、急に真剣に顔を上げたので、ママはふうっと息をついて「反省した?」と言う。
「いや、してない」
「はっ?」
「反省してないし、後悔もしてない」
「あのねえ──」
「僕、辞めるから」
「辞めるって、」
「今日でお店辞める」
「そういう問題じゃなくて」
「男の娘も辞める」
「……は?」
「女装辞める。僕は今から男になる」
「そ、そこまで言ってなくて──」
「森沢さんにふさわしい男になる」
「待って。私が言い過ぎたわ、ちょっと落ち着いて……」
「っしゃ! 男らしくなるぞーっ! 筋トレとかやっちゃうもんねっ」
「瑛瑠──!!」
 ママの叫びにも耳を貸さず、僕はスツールを飛び降りてガッツポーズをすると、なぜかシャドウボクシングまでやった。ママは顔をおおって「この子は……」とあきれているけれど、知ったこっちゃない。
 よし、僕は森沢さんのために、森沢さんに意識してもらうために、男の中の男になる!
『バカなのか?』
 荷物を取りに行ったお店には、まだ森沢さんも中戸さんもいた。ふたりとも僕を見ていて、僕はそれににこっとしただけで、この場では何も説明しなかった。
「今日は僕がいても雰囲気悪いから帰るね」と黒服には言い置き、勝手に早引きした。
 ビルを出ると、ネオンがまだにぎやかなもとでスマホを取り出して、真っ先に聖生に『森沢さんのために、店辞めて男になる』とメッセをした。駅まで歩いて、改札を抜けようとしたところで手の中のスマホが震えたので、立ち止まると、聖生からの通話着信だ。
「もしー」と僕がさわやかな声で出ると、聖生は第一声からそう言った。
「誰が?」
『お前がだよ』
「んー、ふふふ、恋は盲目」
『何、まさか男の娘辞めんの?』
「辞める」
『辞めんの!?』
「男の中の男になる」
『いや、無理だろ』
「無理じゃないもん! 筋トレやって、牛乳飲んで、プロテインも──」
『無理だわ。つか、ママには言ったの?』
「言った!」
 そこから僕は、森沢さんに告ってママにしかられたことまで、聖生に説明した。聖生はため息をついて、『せめて森沢さんにOKもらってから考えたら?』と言った。
「いや、OKもらうために何でもやる姿勢だから」
『お前なあ……女装が生きがいだったんじゃないのかよ』
「僕の生きがいは森沢さんになった」
『そこまでいい男なの? いや、女なのか。ややこしいな!』
「イケメンなんだけどねえ、笑顔はかわいかったんだあ。僕のものにしたいの。もう決めたの。あれは僕のもの」
『無理って言われてんだろ』
「僕は女の子に見えるからね! 伊達に姫と呼ばれてきたわけじゃない。でも、もう見るからに男になるよ」
『なれんのかよ……』
「頑張る!」
 結局は、聖生は深い深い息はついても、『あとから泣かない程度にな』と言った。「うんっ」と答えた僕は通話を切り、メッセが着信していることに気づいた。
 何だろ、と通知バーを引っ張って目を開く。森沢さんからだ。
『ママさんに少しお話伺いました。
 今度、よければお食事に行きましょう。』
 改札の前で、僕はライヴで盛り上がったロックミュージシャンみたいにこぶしを突き上げた。
 よっしゃ! きた! 何だかんだで応援してくれたらしいママも好き! 店はもう辞めるけど。
 そう、本当に、僕はもう男の娘は辞める。
『ごはん行きます!
 いつなら都合いいですか?』
『週末だとありがたいです。』
『じゃあ金曜日に!』
 にやにやしながら、電車で森沢さんとやりとりをしつつ帰宅した僕は、まず、伸ばしていた長く波打つ髪を自分で切った。しかし、押し入れのボックスをあさっても、男の服がない。まずかっこいい服だな、と明日さっそく買いにいくことにした。
 しかし、かっこいい服ってどんなのだ。かわいい服なら分かるけど、男の服ってよく分からない。スーツだろうか。いや、スーツは森沢さんがよほど似合っている。
 まあ何とかするか、と早めに就寝して、翌朝、「今日から、僕は男になります!」と家族にも宣言したのだけど、「おにいちゃん男じゃん」と姫亜が言ったくらいで、あんまり大きな反響はなかった。
 何だよ。髪もばっさり切ったのに。それより、僕が朝食をがつがつ食べていることに両親も祖父母もざわめいていた。
 そのあと、服がそれしかないので女装をして、ときどき服を買いに行くショップがひしめくモールに向かった。十時のオープンと共にモールに踏みこみ、エスカレーターでメンズフロアに降り立った僕は、よし、とショップを見てまわった。
 サイズでかいなとか思いつつ適当に服を広げてみたりしていると、ふと店員さんに「彼氏さんへのプレゼントですか?」とにこやかに訊かれた。「僕が着る感じです」とびしっと答えると、店員さんは一瞬まずったという顔をして、「では、ゆっくりご覧くださいませ」と微笑んで去っていく。いや、そこはかっこいい服を見立ててほしいんですけど。
 いろいろ考えた挙句、デートで男に来てほしい服だよな、と思った。それならイメージできるかも。
 ストレートジーンズなら鉄板だし、パーカーよりシャツのほうがいいかな。上着はコートじゃなくてオーバーとか着ちゃおう。靴は革靴にしとくか。スニーカーもいつか欲しいけど。仕事柄、お金だけは貯めていたので、いいと思ったものをケチることなく揃えることができた。
 ほくほくとショッパーを提げて帰宅すると、「かわいいお洋服を見つけたのかい」と駄菓子屋の店番をするおばあちゃんが、眼鏡の奥でにっこり目を細めた。朝の宣言は忘れたというより、真に受けてもらえていなかったようだ。
「もうかわいい服は辞めるのー」とおばあちゃんに言うと、僕は店でも試着した服をもう一度着てみた。
 うん、なぜか初めて男装した女子に見える。やっぱりこう、筋肉をつけて背も高くしないとだな、と考えても、森沢さんとのデートは明日なので、今回は男装女子路線で我慢するか。少なくとも女装よりはマシだろう。
 僕が夕食の席にもいるので、「お前、仕事は」とおとうさんがやっと怪訝そうに突っ込んできた。「辞めた」と僕はすぱっと言い切って、「あと、僕、マジで男になるからね。女の人とつきあうし」とも言い添えた。
「つきあう人でもできたの?」と姫亜に問われて「イケメン女子!」と答えると、「それは男なの? 女なの?」とおかあさんが混乱する。「女子だよ」と僕はメインの豚カツをさくっと頬張った。「やっと目を覚ましたか……」とおじいちゃんは息をつき、「癒がしたいようにすればねえ」とおばあちゃんはのんびり言った。
 夕食のあと、部屋のスマホを見ると、店から客からママからも着信がついていた。辞める──とは言ったけど、まあ、昨日のあのまま飛ぶつもりはないのでひとつひとつ折り返して、改めてお店は辞めると伝えた。
『森沢さんに振られたから帰ってくるなんて、そこまで甘えさせられませんからね』とママに言われて、「振られても振られても僕は頑張ります」と返すと、ママは苦笑して『必ず幸せになりなさいね』と最後には励ましてくれた。
 金曜日、待ち合わせ場所は森沢さんの会社の最寄り駅の南口だった。約束の時間は十八時。女装していれば見蕩れてくる男共が、男装だと失笑しかけて通り過ぎていくのがムカつく。
 確かにこれは男にしてほしい格好であって、僕は似合ってないかもしれないけど、でも、僕だって男なのであって──
 そんなことをぶつぶつ考えていると、手の中のスマホが震える。森沢さんからのメッセだ。
『私は着きました。』
 僕も三十分くらい前から着いてるけど。気づかないかなー、ときょろきょろしたら、人混みの中にコートを羽織る森沢さんのすらりとしたイケメンのパンツスーツすがたが目に入った。
「森沢さんっ」と僕が嬉々として駆け寄ると、森沢さんはこちらを振り向いて驚いたように目をみはる。
「え……と、」
「瑛瑠ですよっ。今日はよろしくです」
「………、髪」
「あ、切りましたっ。とりま自分で適当に切ったから変かも」
「普段はそういう格好なんですか?」
「数年ぶりに男の服を着ました。へへ、あんま似合ってないですよね」
 僕が照れ咲いしてオーバーを軽く引っ張ると、森沢さんは首をかたむける。
「水曜日──あのあと、ママさんが瑛瑠さんはお店辞めるって言ってて」
「辞めますよ。女装も辞めます」
「本当に?」
「だって、まず男らしくならなきゃ、森沢さんの恋愛対象になれないし」
 森沢さんは僕をじっと見つめた。目線変わらないのかっこ悪いなあ、と恥ずかしくなりつつ、僕はその瞳を見つめ返して森沢さんの手を取る。その手はパンケーキの表面みたいになめらかで、女の子だ、と思った。
「僕は、本当に森沢さんが好きなので」
 告白の言葉はあれこれ考えてきたけど、というか食事中に改まって言うつもりだったけど、目の前に森沢さんがいるともう我慢できない。
「そのためなら何でもしたいと思ったんです。たとえそれが、生きがいと思ったことを捨てることでも。女装は僕の生きがいです。嫌いになったわけじゃないし、きっとずっと大好きです。でも、それより森沢さんが好きになっちゃったから」
「………、」
「僕はまだ、森沢さんをよく知ってるわけじゃない。これから知りたいと思うし、そばにいたい。森沢さんのこと、見てるだけで幸せです。けど、見てるだけは嫌で。森沢さんにも、僕のこと見てほしい」
「……瑛瑠さん」
「で、森沢さんが見る対象が男なら、僕は男になるから。なれるから。僕が女の子だったら片想いで我慢したけど、僕は男だからまだ頑張っていいですよね。森沢さんのために、森沢さんのためだけに、僕は男になる」
 森沢さんの瞳をまっすぐ見つめて、「だから」と僕は言葉をつないだ。
「僕と、おつきあいしてほしいです」
 森沢さんはゆっくりまばたきをした。僕は息を止めて、言っちゃった、とわずかに頬をほてらせる。森沢さんは一度視線を下げたのち、ふと苦笑と微笑を混ぜたみたいな笑みをこぼすと、手を握り返して息をついた。
「別に、かわいいままでもよかったんですけど」
「へっ」
 しばたいて森沢さんを見つめる。森沢さんは優しく微笑んで、「あんなにかわいかったのに」と空いているほうの右手で僕の髪に触れる。どきんと心臓が跳ねて、「かわいいほうが、よかったですか」とおそるおそる訊いてみる。森沢さんは「ちょっと困る質問ですけど」とくすっと咲う。
「私のために、ここまでしてくれたのは、やっぱり嬉しいです」
 森沢さんの涼しい目元がやわらいで、僕は瞳が潤みそうになる。
 そうだ。森沢さんのためにここまでやった。髪を切って、スカートも化粧もまとわず、こんな街中に会いにきた。「何でも──」と僕は唇から落とす。
「しますよ。森沢さんのためなら、僕は何でも」
「はい」
「だから……っ」
「はい。こんな、かわいくない女でよかったら」
 僕は目を開いた。森沢さんは照れたみたいに頬を淡く色づかせてうつむく。
「私も、瑛瑠さんとおつきあいしたいです」
 僕はぱあっと笑顔になる。ついで、「やったあ!」と叫ぶと、森沢さんの手を引いて抱きしめ──たかったけど、大差ない体格的にほとんど抱きついた。「かわいい」と森沢さんは参ったように咲って、僕を抱き返した。
 その日から、僕と森沢さんは恋人同士になった。森沢さんは念願の「癒」という本名で僕を呼んでくれるようになった。僕も森沢さんを「伊鞠」と呼ぶようになった。
 前もって申請して辞めるでなく、突然辞めたことには変わりない僕は、半額になってしまうものの、月末にお給料をもらいにいった。そこで伊鞠を射止めたことを報告すると、「自分が幸せだと思うことを叶えるのはいいことね」とママは咲って、「瑛瑠が幸せならしょうがねえなあ」と同じく給料を取りにきていた聖生も認めてくれた。「またいつでも飲みに来なさいね」とママに見送られると、実はビルの前で待ってくれていた伊鞠と合流する。
「怒られなかった?」と言われ、「また飲みにおいでって」と僕はにっこりする。
「このあとはどうする?」
「おいしいもの食べようよ。お給料もらったんだもん」
「半額なんでしょう」
「いいのっ。売れっ子だったし、半額でもがっつりあるんだから」
「じゃあ、ゆっくり歩いて、食べたいもの決める?」
「そだねっ」
 僕は伊鞠の手を取って、ネオンがきらびやかな喧騒の中を歩き出す。一月末、まだまだ風は冷たい。伊鞠は僕の隣に並んで歩いてくれる。
 去年の暮れに知り合ったばかりだなんて、信じられない。ずっとそこにいたみたいだ。こんな懐かしいような感覚がある人、初めてな気がする。今まで好きになった男との恋が真似事だったとは思わないけど、僕が捜していたのは、間違いなく伊鞠だったのだ。
「伊鞠」
「うん」
「好きだよ」
 伊鞠は僕を見て、「私も癒が好きだから」と言う。
「から?」
「無理に男らしくならなくていいし、そのままでいいの」
「え、でもっ」
「私の前ではね」
 僕がきょとんとまじろぐと、「ほかの人の前では、あんまりかわいくしないで」と伊鞠は僕の手を握る。
「かわいい癒はすごく魅力的だから、すぐに取られちゃいそう」
 僕は伊鞠の横顔をじいっとしたあと、「伊鞠もそういうかわいいとこ、僕以外には禁止だよ」とその腕に抱きついた。僕たちは咲いあって、やがて歓楽街の中のグルメビルを見つけると、ずらりと並んだご馳走のパネルを眺める。
 伊鞠のためなら、何でもする。本当に、そう思うんだ。だから、男の娘の僕はおしまい。これからの僕は、愛しい彼女だけのもの、伊鞠だけのかわいい恋人になるんだ。

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