IN BLOSSOM-1

二次元乙女

 あたしの好きな人は、この世にいない。いつでも会える。でも絶対話せない。いつでもそばにいる。でも絶対触れられない。いつでも想っている。でも絶対届くことはない。
 あたしの好きな人は、この世──この次元に、いない。
「わっ、しづ様来たっ。あー、もう何。何なの。何でしづ様、こんなかっこいいのっ」
 昨日発売されたばかりの『クリスタルメイズ』の新刊を早くも読み返すこと四度目、あたしは相変わらず、そんな黄色いうわ言を繰り返している。
 そんなあたしに、ひとつのつくえを囲んでそれぞれのお弁当を食べる三人の友達は、いつものため息をつく。それはあえて無視して、お弁当の中身を適当に箸に刺して口に含む。ミートボールの冷たいケチャップの味をもぐもぐ噛んでいると、いっそう大きな嘆息が聞こえた。
季羽きはね
「ん、何?」
「しづ様にソースついた」
「は!?」
 当然、それには反応しなくてはならない。慌てて、でも丁重に本を置いてミートボールを飲みこむ。
 今そばにいるしづ様は──スマホのストラップ、スクールバッグのラバスト、ポーチのメタルチャーム、などなど。
「え、どこ? どのしづ様?」
「嘘だよ」
「いや、恐ろしい嘘やめろよ」
「あのなー、本は授業中に読んで、飯食ってるときはうちらと話せよ」
 仏頂面でサンドイッチを食べる、今日もくせ毛のセットに失敗して、毛先が跳ねる未佑希みゆきの三白眼に睨まれても、あたしはめげない。
「授業中はダメだろ」
「何でそこだけ優等生だよ」
「没収されるじゃん! 初回限定版没収されたらあたし死ぬし」
絵鞠えまり、あれ没収しろ」
「いいじゃない。季羽の一途さは見てて安心する」
 緩いウェーヴを伸ばし、未佑希と違ってきちんと毛先をカールさせる絵鞠は、購買の安くてでかいシュークリームを食べながらおっとり首をかしげる。
「それに、奪ったら季羽はリアルに死にかねないと思うの」
「絵鞠は分かっている」
「分かりたくねえよ……。相手、二次元だろ」
「季羽のしづ様への執着は、ちょっと異常よね」
 ごはんを箸ですくう、切れ長に長いストレートヘアのクールな美人のうみには、「っせえな」とあたしは吐き捨てる。
「リア充は黙って彼氏と消えろ」
「じゃあ、親に今夜は季羽の家に泊まるって言うから、協力するのね?」
「するか。非処女がばれて八つ裂きにされろ」
「あ、だけど、季羽ってしづ様にもそういう言葉遣いなの?」
「絵鞠、こいつしづ様としゃべったことねえから」
「脳内で会話してますから! あと、夢に二回出てきた!!」
「二回って微妙ね」
「照れてるだけだし」
 あたしは海苔の巻かれた小さめのおにぎりをまた串刺しにしてかじる。冷めても甘いお米の中に、鮭のフレークが入っている。
「あー、早く画面の中に行ける日が来ないかな。実物のしづ様に癒やされたい」
「癒やされすぎて、大往生しないかなー」
「したら本物のバカだな」
「会えなくて正解かもしれないわね」
「うわー、もう早くしづ様にぎゅーってされたいっ」
 友達の話も聞かずに、そんなとうぶん叶いそうにない浮かされた夢を見る。
 いつもと変わらない。昼休みにざわつく教室。仲良し四人組でお弁当。代わりばえがない。何もかも、単調な光景で本当につまらない。
 だから現実なんか無視して、恭しく本を手にして、再び『クリスタルメイズ』という二次元世界に浸りはじめる。
 紙の上のコマ割りの中で、しづ様は今日もかっこいい。そうだ。現実なんかいらない。現実なんかくだらない。現実で幸せを感じたことなんてない。だから、あたしは二次元に本気になる。
 あたしを二次元に引きこんだのは、『クリスタルメイズ』という乙女系の作品だ。個人サイトで一般の人が趣味で描いていた漫画が元で、設定は良くある同じ環境下の男たちに想いを寄せられるものだ。だけど、サイトの管理人で作者の水澄みすみさんが、乙女系大好きゆえにかなり作風に凝っていて、そこがネットで話題になった。
 何だかんだで最も嫌われることになる、主人公の顔や名前を作中で絶対に出さないのだ。小説だったらよくある手法だけれど、漫画でそれをやっていて、あくまで読者をヒロインでいさせてくれる。もちろん絵のタッチもすごく綺麗で、次第に口コミで火がつき、どんどん書籍化やドラマCD化され、今や多くの乙女をとりこにしている。
『クリスタルメイズ』は、明晶学園という、同じ高校に通う男子生徒七人の中のひとりと主人公の恋模様だ。高校二年生の主人公にとって、相手はクラスメイトであったり、友達の友達であったり、後輩の義理の弟であったりする。世界はパラレルワールドで、恋愛描写の同時進行はなく、つまり七つに分岐した世界で、それぞれの男子と恋をしていくことになる。
 その中であたしが愛してやまないのは、おっとりと優しい、生徒会長の静波しずはという先輩だ。しかも、サブキャラの静波の親友が主人公を想っているから、気持ちは押し殺しているという設定が切なすぎる。ファンからの愛称は、水澄さんがブログでそう呼んでいるからだけど、「しづ様」だ。
 二年生に進級してから男子七人全員と出逢う、主人公視点の本編的なものは、すべての物語のプロローグとしてすでに完結している。今、水澄さんが進めている原稿は、七人の男子たちからの視点も含む、ルートが具体的に決まった続編だ。こちらでも徹底してヒロインの顔は出ない。たまにブログにアップされるおまけや下書きもあって、ラフすぎてきっと本に収録されないものもあるから、これもファンは見逃せない。
 水澄さんは過去に無断転載とかよくない思い出があるらしく、二次にさえ肯定的ではない。なので、『クリスタルメイズ』のキャラを水澄さん以外が描いた本は公式では出ていない。同人なら出ているけれど、水澄さんのスタンスに共感するファンは、二次には手を出さない。そんなわけで、公式でルート別の続編制作開始のブログ記事が来たときは、ネットが大騒ぎになったものだ。
『クリスタルメイズ』の人気は、アニメ化決定でさらに加速している。アニメ制作が発表された昨年の夏頃、そのときもネットが爆発して、「声優はドラマCD通り!?」と希望や憶測が飛びかった。クリスマスイヴ、ついにドラマCDから引き継がれたキャストや設定画像が発表された。原作の絵に慣れていたファンの乙女たちには、アニメの絵はなかなか賛否両論だったけど、水澄さんが『漫画描かせろ!』というブログ記事をあげるくらい制作に携わって納得しているものだったので、とりあえずみんな放送を待つことにしている。そのアニメは、あたしが高校三年生になるこの春から放送予定だ。
「あーっ、早くアニメ始まんないかなっ。しづ様が動くとかやばいだろ。神だろ」
 美麗コミックのしづ様のシーンを読み終えると、またじたばたと床を蹴って本を抱きしめる。ちなみに、男子目線の続編はまだ電子書籍でしか発表されていなくて、そこではしづ様のターンも来ていない。脇役として登場はするので、チェックしているけれど。今刊行されている『クリスタルメイズ』の紙書籍は、加筆訂正された完結済みのプロローグだ。
「何かなー」と未佑希が頬杖をつく。
「まさか、タメでアニメを楽しみにする奴と友達になるとは」
「未佑希いちいちうっせえんだよ」
「ねえ、季羽。忘れてないわよね」
「忘れた」
「これだろ? ほんと、こんなときに、しづ様だのアニメだの」
 サンドイッチを片づけた未佑希が、スクールバッグから見たくもない紙切れを取りだす。進路希望調査表。あたしは息をついたあと、負けずに紙切れをぱんと指で弾いた。
「言っとくけどさ、あたしがこの高校に受かったのも、しづ様のおかげよ? あたしはしづ様がいればいいの。結婚するの」
「季羽としづ様が結婚したら、他のしづ様ファンはどうなるの?」
「悔しいけど、二次元との結婚はハーレムなんだ……」
「頼むから、第一希望に『しづ様と結婚』とか書くなよ」
「は? 書くし」
「こいつ、友達の面目考えてねえよ!」
「でも、この国ならありえるかもねー。猫耳国家。にゃん」
「同性婚もできない国で、二次元キャラと結婚できる見こみなんかないわよ」
「あたしは闘う」
「報われんわ、こいつ」
 未佑希をちらりとする。けれど、またわざと黙って、もう一個のミートボールを口に放る。
 報われない。どっちが? 現実と二次元。あたしはずっと、二次元のほうに救われている。
 だって。
 しづ様は、絶対にあたしを傷つけない──
「──じゃあ、八十二ページを、今日の出席番号の野沢のざわ
 昼休みが終わって、次の授業は英語だった。あたしは理数系じゃないけど、大して文系でもない。英語の授業は興味がなくて嫌いだ。
 野沢くんの朗読が始まると、先生は読まれている英文を黒板に走り書きしはじめた。訳に当てられたらやだなー、と思いつつも、念のため辞書をめくるなんてことはしない。むしろ、教科書で手元を隠してスマホをいじる。
『クリスタルメイズ』は、今は紙書籍や電子書籍として発表されているけれど、もともと掲載されていた水澄さんのサイトもしっかり続いている。 “水鏡”といって、透明色の青を意識した静かな印象のホームページだ。メールフォームはあるけど、掲示板はない。ブログもコメント不可だ。荒れるんだろうなあ、とアンチからたたかれ方もすごい『クリスタルメイズ』とブログの更新をチェックする。
 今夜は原稿に本気出す、という新しい記事が上がっていて、じっくり目を通すと、今度は一番上の“水鏡”とは真逆に、お気に入りの一番下に置いているブログ管理室に入る。
 水澄さんの“水鏡”のようなすごいサイトの管理人ではないけど、あたしも自分のブログを持っている。今時の女子高生なら、そう少なくもないだろう。あたしの場合は、中学一年生になったときに始めて、放置期間もあるものの、ずっと続けている。どうせ辺境でコメントなんかつかないし、来たってレスが面倒なので、コメ欄は閉じている。
『更新来た!』
 チョークの音を引き立てる静かな冬陽が、窓から射しこんでいる。スマホになって、入力でかちかちいわなくなったから、教室後方である周りもけっこうスマホをいじっている。エアコンの暖房の風にツインテールを揺らしながら、あたしもそんなタイトルの記事を投稿している。
『水鏡、ブログ更新されてた。今夜は原稿だって。
 しづ様のターン、早く来ないかなあ。
 ほんとしづ様愛してる。その気持ちが今の私のすべて。
 しづ様が心の中にいるから頑張れる。
 訳分かんない学校の勉強も。つまんない両親との会話も。今の私があるのは、しづ様のおかげ。
 二次元でいいじゃない。
 だって私は、しづ様に出逢ってなかったら、あいつのことでまだぐちゃぐちゃだったから。』

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