IN BLOSSOM-16

鮮やかな花

 その夜、赤のギンガムチェックのシーツに、ぼんやり軆を投げ出していた。帰宅して、シャワーを浴びながら、ときどき意識が飛んだ。夕食が食べられなかった。家族にどう接したかも憶えていない。明日から夏休みなのに、心は静まり返っている。
 不意に思った──夏期講習で、まだ、会えるかもしれないじゃん。
 甘ったれたことを思った瞬間、あの柔らかい笑顔が脳裏をよぎった。残酷なほど鮮明に残像していた。同時に、どうしようもない心身の麻痺に、鋭利で狂暴な痛みが刺しこんできた。
 悔いはない。伝えたかったことは、精一杯言葉にした。そして答えてもらった。あたしとは親しくなれない。それが「早瀬さんの答え」だった。だったら、それを受け入れる。それを受け入れようと、思っていたじゃない。
 ちょっとだけ、考える。ハグしてもらえたんだから、あたしも、ぎゅってすればよかったな。けれど、そんなずうずうしいことはできなかった。
 早瀬さんは手の届かない人だった。やがてうろ憶えになっていく、クラスメイトに過ぎない他人だった。けれど、たとえば、もっと早く話しかけていたら? たとえば、隣の席になっていたら? メールアドレスは、本当はきっとたやすく交換できていた気がする。でも、そんなめぐりあわせはなかった。縁がなかった。「つながり」は持てない運命だった。
 もっと話したかった。もっと近づきたかった。けど、きっと「好きです」って言っていたら、あたしはあたしを憎んでいた。言わなくてよかったと思っている。言わなかった後悔はない。
 ただ、あたしにとって早瀬さんはとても遠くて、そのむごいまでの距離に頭が壊れそうになる。
 どうしよう。切なくて泣きそうで、息もできなくなってくる。胸が締めつけられて、“純愛”とか謳っている、胡散臭い少女漫画みたいな気持ちになってくる。
 どうすればいいのだろう。どんなにあがいても、飢えても、哀しくても、この壁は越えられない。壁の向こうに早瀬さんはいる。でも、あたしにこの壁を超える資格はない。蹴破る厚かましさもない。取りはらう自由もない。
 いつのまに、こんなに好きになっていたのだろう。早瀬さんが恋しい。なのに、たぐりよせる糸もない。好き。すごく好き。どうしようもなく好き。
 心臓がどくどくと暴れる。きっと泣きそうな顔してる。どうしてそばにいられないんだろう。メールもできないんだろう。こんなに遠いんだろう。
 あたし、いつか、泣くことくらいはできるの? ちゃんと、さよならって思えるの? こんなに好きなのに。いや、きっと悪い意味で泣く。あたしはまた好きな人に拒絶された。どんなに想っていたって、うまくいかなくて……
 好きになれただけでよかったとか。想ってるだけでいいとか。片想いでも立派な恋だとか。
 そんなのは、あたしは強くないから綺麗ごとだ。やっぱり、早瀬さんのそばにいたい。関係は友達でもメル友でもいい。こんな意気地なしが「好き」なんて言わないよ。ただ、こんな夜……早瀬さんが恋しくて苦しい夜。せめて、こう思いながら眠りたい。
 明日、『おはよう』ってメールしてみよう。
 けれど、それすら叶わないのだ。何だっていうの。あたしは、そんなに、いけない人に恋をしたの?
 そんなもやもやを抱えながら、夏休みが始まった。
 夏期講習で学校には行くのが、そわそわするのに気が重かった。でも、早瀬さんの志望校とあたしの志望校は、レベルが違うのか学科が違うのか、逢えることはなかった。
 同じ建物にいるのに、何の確認もできない。圧倒的な距離だった。会いたくても会えない。見かけることすら、二学期が始まっても、すぐ卒業で叶わなくなる。
 早瀬さんは、いつも咲っていたっけ。でも、ただのにこにこした人だったら、こんなに好きになっていなかった。本当に優しい人だったと思う。
 邪推はする。幻想かなって思う。「何あいつ。レズだったの?」──そんなことを言われて、あの子たちと嗤っているのもありうる。
 けれど、やっぱり、早瀬さんは優しい人だと思う。あたしは、早瀬さんの本来の体温に触れてしまった。とても温かかった。笑顔で接してくれた。丁寧に話してくれた。微笑んで、ハグして、「頑張ってくださいね」って応援してくれた。
 あたしは、きっと早瀬さんを嫌いにならない。なれたら楽なのに。偶然触れてしまった温かい笑顔が、そうさせてくれない。
 寂しいわけじゃなくて。つらいわけじゃなくて。無性に哀しい。うまく言えないけど、頭の中が早瀬さんでぐちゃぐちゃだ。心は死んでいるのだけど、頭の中で、モノクロの早瀬さんのあの声すら思い出せなくなっている。
 結局、こうして相変わらず早瀬さんを想っているあたしは、バカだ。「会いたいよ」ってまくらを殴ってるあたしは、バカだ。
 早瀬さんが恋しい。思い出せない声を聴きたい。手の届かない笑顔を見たい。今、ベッドに横たわって。もし隣に早瀬さんがいて。別に何をするでもなく。ただ、髪を撫でてくれたらと夢見てしまう。
 せめて、あたしを忘れないでほしい。しかし、もうとっくに忘れられてる現実があたしを茫然とさせる。
 全部伝えた。ぎゅってされた。励まされた。こうしておけばよかったなんてものは何もない。
 なのに、どうしてこんなに虚しいの。悔いはないのに、こんなにも切ない。終わったのに、どうしても忘れられない。伝えたいことを伝えて、丁寧に断られて、それでも好きなんて。
 仲良くなりたかった。そばにいたかった。笑顔を見ていたかった。それだけなのに。早瀬さんの中から、あたしは消えちゃう。
 早瀬さんにぎゅってしてもらったときは、あんなに細い軆にしてもらったときは、心強いほど温かかったのに。真夏のあいだ、あたしは凍えきって過ごした。
 そんなあたしは、おかげさまで夏期講習で逆に成績が落ちた。担任にも両親にもレモンみたいに絞られ、特に両親は、ついに二次元が良くないのだとあたしからしづ様を奪いにかかってきた。
 しづ様。嫌いになっていないし、忘れてもいないのだけど。かりかりしながらポスターをはがすおかあさんを、あたしは無感覚に見つめていた。そんな自分の麻痺した心に、いっそう絶望した。
 ごめんなさい。ごめんなさい、しづ様。大好きだよ。でもね、あたし、しづ様をかき集めるより、早瀬さんのそばにいられることになって、幸せになりたかった。
 そのためにしづ様をあとまわしにする覚悟はできていた。けれど、早瀬さんはあまりにも蜃気楼だった。早瀬さんのために空けた隣が虚しい。ずっとそこにはしづ様がいて、一生それでいいとまで思っていた。
 それを、まだ何の確信もないうちから空席にした。早瀬さんのために。でも、結局早瀬さんがそこに座ってくれなかった今、あたしはひとりぼっちだ。
 あたしには、誰もいない。誰もあたしのことなんて見てくれない。
 なぜあたしは、両想いという味を知ることができないの? しづ様とならこんなことに悩まなくていいのに、早瀬さんだとひどく渇く。だって、目の前で、確かにあんなに鮮やかに咲ってくれたのに。そんなにあたしは、あの人の領域に踏みこんではいけなかったの?

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