IN BLOSSOM-6

 家を出たときは降っていなかったけど、学校の最寄駅を出ると、雲がぽたぽたとしたたっていた。「うぜえな」とつぶやきながらも、やっぱり濡れるのは嫌だし、紫に桜模様が散らばる傘を広げる。
「おはよー」が飛び交う周りも、それぞれ傘を咲かせて、薄暗い空の下に溶けていく。
 ずっとスマホを見ていた電車から降りたばかりで、あるはずはなくても、くせで一度着信がないかをチェックする。何にもない。よし、とホームを落としてスマホをスクールバッグにしまうと、制服すがたの多い人混みにあたしも混じっていく。
 大粒の雨音が傘を跳ねまわる。茶色のローファーの爪先が雫を弾く。雨の中はじっとりして、生温い匂いがする。蒸してんなーと思いながら、通学路沿いの桜の樹に横目をくれると、すっかり緑が鮮やかに茂っている。寝不足の目に、その生々しい緑色はやたら沁みこんだ。
 このあいだ中間考査も終わって、あと数日で六月になる。今年の五月は、春なんて吹っ飛ばしてぎらぎらと暑かった。大学大学と教師がうるさくて、普段は成績のいいあたしは憂鬱になった。
「どうしたんだ、今回は」
 そんなことを何人かの教師に言われた。そのたび愛想咲いしておいたぶん、思い出すと舌打ちが出る。中間考査。あんなに手応えの悪い試験は、高校生になって──いや、しづ様に出逢って以来、初めてだった。
 調子が悪い。何か、調子が悪い。
 生理は普通に来ていて、今月は終わっている。頭痛なし、腹痛なし、体調が悪いとは感じない。
 かといって、心が病んでいる感覚もない。たぶん。胸のあたりが燻っている感じはある。でも、あいつと別れた頃に一番ひどかった、死さえ孕んだ黒い霧じゃない。もやもやして、捕らえどころがないのは同じだけど、この息苦しさは──
「きーはねっ!」
「うおっ」
 いきなり肩を押されて前のめりになった。感傷的だったあたしを背後からぶち壊したバカを振り返ると、未佑希だった。湿気でいつもより毛先が跳ねている未佑希は、それと同じくらい笑顔も弾けさせている。
 いろんな意味で眉を寄せたあたしは、「何だよ」と肩に流れたツインテールを背中にやる。
「肩引っぱたくのは挨拶じゃねえよ」
「昨日の更新はどうよ」
「は?」
「しづ様は来た?」
 未佑希のいつになく愛想のいい破顔をたっぷり五秒間眺め、はっと息を飲んだ。
「しづ様はダメ!!」
「あ?」
「しづ様は絶対にあたしと結婚するの、だからにわかはサブキャラの──」
「今まで以上にあんたが不憫に見える」
「ああ? 上から目線感じるんだけど」
「あたしのが上だと思うわ」
「殺すぞ」
 あたしがじと目になると、未佑希は鼻で笑って、スクールバッグから取りだしたスマホを突き出してきた。
「見ろ」
「スマホ濡れますよ」
「いや、見ろよ」
「持ってないしづ様の画像なんてないし。同人イラストはいらないし」
「あたしの男は、画像じゃなくて写メなんだよ」
 続けて何か返そうとし、はたと雨越しに未佑希を見た。写メ? いや、男?
「あ、季羽と未佑希だー」
「おはよう」
「おう、絵鞠、海。はよ」
「おはー。ん、何か季羽がフリーズしてるよ」
「ついに二次元に行ったのかしらね」
「あんたたちには教室で話すわ。行くよ、季羽」
 腕をがしっと組まれ、未佑希に引きずられたあたしは、我に返って踏ん張った。「再起動」と言う絵鞠は無視して、ばしばしと未佑希の手をはたく。
「痛てえよバカ、」
「死ね」
「は?」
「死ねええええええええ」
 叫んだあたしは、もう雨なんか気にせずに、傘ごと学校に走り出した。そのまま校門にゴールすると、びしょびしょの傘をまとめもせずに傘立てに突っこみ、にぎやかな廊下を突っ切って教室にたどりつく。
 が。
 今日も生唾を飲みこみ、閉まったドアを睨むことになる。そう、ここからなのだ。最近いつもこうだ。
 朝、教室に入る。そんなことにすごく緊張する。
 嫌なわけではない。むしろどちらかといえば嬉しい。心臓がざわめいて、あのもやもやが喉をつまらせ、躊躇のあいだ、髪を直したりスカーフを正したりする。
「……あたしならいける」
 ぼそっとつぶやいて心に喝を入れると、思い切ってアルミ製のドアをスライドさせた。そして──真っ先にあのすがたを捜そうとする自分を抑えようとする。でもやっぱり、教室を見渡して捜してしまう。
 雨の日の教室は、電気がついてほんの少し雰囲気が違う。その中で、今日は友達と一緒につくえを囲んでいる。
 艶やかな黒のショートカット、長い睫毛と大きな瞳、きちっとした制服をまとう華奢な軆、紺のハイソックスの長くて細い脚。
 あ、咲った。今日も綺麗。
 でもあんまり見つめるのも何やら恥ずかしいので、ひと息つくとやっと教室に踏みこむ。
 席に着くと、うう、と背中を丸めてつくえに上体を折り曲げる。何かもうダメだ。いけるとか思ったけど、やっぱりダメだ。全神経が、彼女がいた方向に張りめぐる。
 声聴きたいと思ったけど、彼女はあまりしゃべらず、基本的に微笑んで友達の話を聞いている。そういうところも、何というか──いや、何でもないのだけど。
「早瀬はさー」
 どきっと耳が動く。何か問われた彼女が、何か答えている。落ち着いていそうなのに、意外と甘さの残るカフェオレみたいな声だ。
 早瀬さん、と彼女の名前を胸で呼ぶ。でも、あたしには返事なんて来ない。こちらばかりに、返ってこない虚しさが日ごとに降り積もる。
「おい、季羽」
 虚無感のあまり半泣きになっていると、突然、髪を鷲掴みにされた。あたしはむすっと顔を上げる。もちろん、絵鞠と未佑希と海だ。ひとまず、ツインテールをつかむ未佑希の手ははらう。
「リア充はみんな死ね」
「……謝るのやめるわ」
「ん、リア充?」
「どういうこと?」
 横目をくれると、未佑希はにやにやした。あたしはわざとらしく頬杖をつくと、吐き捨ててやった。
「未佑希さんが中古になりました」
「は? 捨てられてねえし」
「捨てられますし」
「ふん。もうね、クリスマスイヴの予定まで合わせてんの。今年のクリスマスは一緒にって」
「っせえな、あたしだってクリスマスはデスクトップにしづ様呼ぶもん! つーか、クリスマスなんかただ神降臨しただけだろっ」
「そうだよ、あたしにもついに神降臨だよ!」
「うぜえっ。そんなもん、掲示板によく出没してんじゃん! 幼女画像貼れば、誰でもなれるんだよ!」
 あたしと未佑希がぎゃあぎゃあ言い合っている内容で、絵鞠も海も察したらしい。ふたりは顔を合わせたあと、「要するに」と海が冷静に事実を告げた。
「未佑希に彼ができたのね」
「うおおお、マジか未佑希! おめでとーっ」
 絵鞠が無邪気に未佑希に抱きついて、あたしは白目で天井を向いた。
「死ぬ。未佑希に男とかあたし死にたい」
「この人、いきなりヤンデレ言い出したんですけど」
「クリスマスじゃなくて、クリスマスイヴというあたりが非常に死にたい」
「まあ、普通はイヴよね」
「二十六日とかに遅刻パーティしようね」
「絵鞠も予定あんの?」
「私は今んとこ、家族と過ごす感じかなー」
「というか、どのみち、その頃って受験がすごいことになってると思うのよね。相手はこの学校なの?」
「あー、うん。この人」
 未佑希はあたしがさっき見もしなかったスマホを取りだし、絵鞠と海は素直に覗きこむ。あたしは前を向くと、まばたきで白目をおさめ、ため息をついた。
 でもライフが足りない。しづ様を補充、とやっと思い当たって、あたしもスマホをスクールバッグから取り出すことにする。
 つくえのフックへと身をかたむけたとき、ちらりと早瀬さんを見た。話している友達を見つめている。心臓に針が刺さって、ぱっと顔を背ける。
 スマホの画面を解除して、しづ様の壁紙を見た。でも思うのは、かっこいいなあ、じゃなくて、似てるなあ、なのだ。
 それが自分で許せなくて、あたしはぱったりとつくえの上に死亡する。
「季羽ー、未佑希に彼氏できたのそんなに寂しいのー?」
「……しづ様がいるもん」
「通常運営ね」
「あたしは……しづ様だもん」
「悪かったね、季羽。まー、あたしに告る男がいるんだから、あんたにもいるって」
 上目で三人を見た。違うよ、と言いたかった。言おうとした。でも、何が違うのか自分でもよく分からなくて、身を起こしてこくんとすると、スカートの上でスマホをぎゅっとつかんだ。
 あたしの調子の悪さは、こんな感じだった。
 バカみたいだ。しづ様が好きなのに。愛してるのに。似てるだけで、女の子相手に、こんなに動揺して。間違っている。女同士がとかじゃなく、しづ様の彼女として間違っている。
 しづ様がいればいい。いつも支えてくれたのはしづ様だから。あたしを変えてくれたのもしづ様だから。だいたい、似てる、というか、タイプなだけではないか。ただのルックスが。
 そう、見た目以外あたしは早瀬さんを何も知らない。ここまで気になる理由が分からない。でも、知らないこそ思うのだ。
 早瀬さんを知りたい。ふたりで話してみたい。
 早瀬さんを想うと、どきどきする。でも、そんなことは伝えないから、ただ仲良くなってみたい。せめて、その大きな凛とした瞳に映って──
 同じだ。だからこんなにもやもやする。
 話したいと思った。近づきたいと思った。瞳に捕らわれたいと思った。あの最低な男。あいつのすがたを目で追いかけていたときと、同じだ。
 予鈴が鳴った。それと同時に現れた担任に、散らかっていたクラスメイトが席にまとまっていく。三人も──絵鞠はあたしの頭を撫で、未佑希は小突き、海は何か言って席へと離れていく。あたしは受験について勧告する担任に気づかれないよう、相変わらず膝の上のつくえの陰でスマホをいじる。
『私、変だ。
 しづ様が一番で、絶対にしづ様と結婚したいのに。
 しづ様に飽きたとか、そんなひどいことは感じていない。
 ただ、どうしてもあの子が気になる。
 この感覚はよく覚えてるけど、どうして?
 あの子はあいつと違って……私と同じ、女の子だよ?
 しかも、私はあの子の何を知ってるっていうの。
 下の名前さえ、そういえば知らないじゃない。
 でも、気づいたらあの子を見てて、何も知らないから何か知りたいと思う。
 近づきたい。
 話してみたい。
 メアドひとつでもいい。
 何か、つながりが欲しい。
 ……これは、恋、なの?』
 何度も読み返して、そうなのかな、と何度も自問して、ようやく送信ボタンを押す。
 そっと斜め左後ろの窓際を見る。そこでは、席に着いた早瀬さんが凛とした表情で担任の話を聞いている。ある意味確かに次元違うのかもしれない、とスマホのホームのしづ様に目を落として、小さく息をついた。

第七章へ

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