傷が眠るまで
そんなに広くないライヴハウスなのに、その夜は妙に観客が多かった。はぐれないよう果音と手をつないで、LUCID INTERVALのメンバーのすがたを探す。まだ楽屋かな、と思ったけれど、混雑の中で四人が誰かと話しているのを見つけた。
邪魔しちゃ悪いか、と割りこむのは遠慮して、カウンターに果音とドリンクをもらいにいく。それを飲みながら、「この人たちが話したりしてくれるんだ」と果音とLUCID INTERVALのフライヤーを眺める。
そうしていると、「美羽くん」と呼ばれた気がして、振り返ると雷樹さんたちが手を振ってくれていた。「行こ」と俺は顔を上げた果音を連れて、そちらに歩み寄る。
「こんばんは」
「おう。来てくれてサンキュ」
「何か今日、すごい人ですね」
「ああ、今夜はトリがXENONだからな」
「キセ──えっ、あの切っかけになったバンドですか」
「そう。今、ベースの人と話してた」
雷樹さんがしめしたほうを見ると、背の高い男の人がもう別の人と話している。「あー」と透由さんがそわそわと唸る。
「XENONと同じステージ、初めてじゃないけど緊張する。つかリハの時点でかっこよすぎた」
「梨羽さん大丈夫かな」
保摘さんがそう言って真砂さんを見上げ、真砂さんは曖昧に咲って首をかしげる。
「今、楽屋で集中してるんじゃないかな」
「何かあったんですか」
「ライヴ前のXENONはちょっと特殊なんだよね」
「特殊」
俺は果音と顔を合わせる。それで初めて、「連れ?」と雷樹さんが果音に気づく。
「あ、はい。その、何というか──こないだ、つきあいはじめました」
「えっ。マジで?」
「はい。やっと俺にも恋人です」
「うっわー……。また知り合いに恋人できた……」
「お前このまま取り残されるぞ」
「るせえな。あれにいまさら告れるかよ」
雷樹さんが舌打ちして、保摘さんは俺たちを見てから真砂さんを見上げる。「よかったよね」と真砂さんが微笑むと、保摘さんはこくんとした。「色気のある感じだなあ」と透由さんは果音を眺め、果音は若干臆面する。
「美羽くん、愛される自信持てたんだ」
「え、あ──はい」
「そっか。ほら、もう美羽くんはお前と違って乗り越えたぞ」
「ほっとけ」と雷樹さんが透由さんの揶揄を払っていると、「きーくん、雷樹くんたちいたよー」と女の子の声がした。
振り向くと、「キキくんだ」と果音が先につぶやいた。人混みを縫って、キキが抱きつく結良ちゃんを引きずりながら歩み寄ってくる。
「あー、よかった。何とか入れたー」
私服のキキは大きくため息をつき、俺たちの元にたどりつく。
「美羽と果音くんも来たんだね」
「ああ。何か、XENONってバンドがすごいらしいぞ」
「知ってるよ、それくらい。つか、むしろXENONを見に来た勢いだよ」
「キキくん、その子が彼女?」
「あ、うん。そっか、果音くん会うの初めてだね。はい、結良こんばんは」
「こんばんはー」
結良ちゃんはキキの背後にくっつくまま顔を出し、頭を下げる。果音は一瞬まばたきしたけど、少し咲って「こんばんは」と返した。それから俺を見ると、「これは入る隙ないと思うね」と小さくささやいてくる。俺は果音を少し肘で突いたものの、「まあな」ともう心穏やかにキキと結良ちゃんの密着を見ることができる。
十二月になって、一週間ぐらい過ぎた金曜日の夜だった。俺は果音を連れて、LUCID INTERVALのライヴ目当てでここに来ていた。今夜の客の大半は、XENONが目当てのようだが。
キキとは、至って落ち着いた友人関係になった。果音もキキとあのミックスバーで対面し、改めて連絡先を交換するほど仲良くなっている。その中で、果音の誤解も、本当の意味で解けていったみたいだった。
果音とは、ちゃんと恋人としてつきあうようになった。すでにあの部屋には入り浸っているが、年が明けたら二度と帰らない覚悟で家を出るつもりだ。今はこっそり荷造りをして、持っていけるものは移動を始めている。
家族に挨拶するのも考えた。でも、同棲相手がいることも、行き先の住所も知られたくない。きっと、俺が帰らなくなっても、家族は心配しないし、むしろせいせいするだろう。だから、家族には黙って家を出る気でいる。
バイトもこの街で探せば学歴は気にしなくてよくて、昨日コンビニの深夜勤務が決まった。バイトをするなら連絡手段として必要なので、果音名義でついにケータイを持った。
そんなふうに、金に余裕のあるときではないのだが、「バイト決まったからご褒美くらい」と、俺にLUCID INTERVALの話は聞いていた果音が、今夜このライヴに行くのを提案してくれた。
キキと結良ちゃんと話していた雷樹さんたちは、今夜は一番手らしく、時間が迫ってくると裏に行ってしまった。残された客四人で適当に話しているあいだにも、どんどん客が入ってくる。何かもうライヴ終了の時点にも近いじゃん、と思い、「いつもはもうちょいゆっくりしてるんだけど」と果音に謝る。「平気」と果音が微笑んだとき、ふっと照明が落ちて歓声が上がった。ステージに立ったのはLUCID INTERVALで、今日の一曲目は新曲だった。
俺が生きてるのが憎くてしょうがないって顔だ
俺がここにいるだけで虫唾が走るって声だ
最悪の台詞を吐いてやるよ
俺はあんたを殺したい
その心臓を何度も何度も刺したい
そうでもしないと許せないよ
俺をこんな世界に生みやがって
俺をこんな孤独に置きやがって
俺をこんな狂気で犯しやがって
果音が俺の手をぎゅっと握る。俺も握り返した。果音は俺の耳に口を寄せてくる。
「さっきの」
「ん」
「さっき、愛される自信持てたんだね、って」
「……ずっと、怖かった」
「怖い」
「俺のことなんか、誰も好きにならないって」
果音の瞳が暗闇の中でも見える。
「でも、今は果音がいる」
「うん」
「果音のことなら、初めて、信じられる」
「美羽……」
「果音となら、俺はきっと許していける。忘れていける。どんなに家族がひどかったとしても」
「そばにいるよ。もう美羽をひとりにしない」
「うん。だったら、俺は生きていけるよ」
果音が微笑んだのが、一瞬通った照明で分かった。俺は果音の髪にそっと口づける。果音が俺に寄り添った身動きで、ふわりとあの香水が立ちのぼる。
この香りのように、俺は自分の過去に花を贈ろう。幼い頃に、怯えた自分に、引きこもった時間に、花を贈る。
ずっと、揺りかごの中に放置されていた。なぜ生んだ? どうして愛してくれない? 何でみんな狂ってる? そんな闇が俺を閉じこめていた。
でも、もうその部屋は出る。揺りかごには花を添えて、過去でなく未来を見て生きていく。
俺はやっていける。この手をつなぐ人が、俺を愛してくれている。その愛を信じて、俺も彼を愛することができる。この幸せのためなら、頑張れる。
愛されなかった記憶は葬る。痛みを投げ出すのではない。簡単に朽ちていかないかもしれない。けれど、朽ちるまで、色あせるまで、何度でも揺籃に花を置いていく。
傷ついた過去は、やがて天国に向かう。そう祈りながら、もう立ち止まらず、俺は前を向いていく。
FIN