揺籃に花-6

愛を知らない

「気持ちよかったね」
 俺は果音をじっと見つめ、うなずいてからその軆を抱き寄せた。いい匂いと速い鼓動が素肌を通して伝わってきた。果音も俺の胸に頬を当てて心臓に目を閉じた。
 どうしよう、と思った。何か、俺、またこの人とセックスしたいかもしれない。何だよ、俺。セックスすれば惚れる男みたいではないか。そういうわけではないのに、うまく言葉にならないから、何も言えない。果音の搏動が落ち着いて、軆を離されても、どう言えばいいのか分からない。
「シャワー浴びなくていい?」
「えっ、あ……ああ、浴びる」
「俺も浴びなきゃな。取れるかな、これ」
 果音は自分の精液をちょっとあきれて見渡して、「先に浴びていいかな」と訊いてくる。一緒に、と思ったけれど、やはりうまく声にならなくてうなずく。果音はあっさりベッドを降りて、バスルームに行ってしまった。
 俺はがばっとまくらに顔を伏せた。すると、まぶたにはあの濡れた瞳や色づいた肌がよぎり、やばい、と頬が熱くなってくる。めちゃくちゃかわいかった。またあの声が聴きたい。欲しい。でも、普通に考えて、これは行きずりっぽい。そう思うと、薄く涙すら滲んできて、急いで目をこする。
 俺はバカだ。売り専だの、行きずりだの、何でそういう相手に深入りしようとするのだろう。ちゃんと続く関係で恋愛すればいいのに、そういう奴とは何だか友達ぐらいにしかなれない。好きになったら、ダメになる。だったら、俺は──
 果音が戻ってくると、顔を伏せてバスルームに行った。シャワーより目頭のほうが熱い。軆から果音を洗い落としても、そのぶん心に染みこんでいってしまう。
 キキと寝てもここまで引きずるものはない。もしかして錯覚はキキのほうだったのかも、とさえ思ってくる。誰かを好きだなんて感じたことがなかったから、彼女がいるのをおもしろくなく思ったことだけで、意識したのかもしれない。
 じゃあ、もし果音に実は彼氏がいたら? こんなの行きずりどころか、遊ばれた浮気だったら? 鏡の中の茫然とした瞳に、口元が引き攣り嗤った。俺はその情けない顔を何度も洗うと、やっと部屋に戻った。
 果音は服を着て、つまらなさそうにAVチャンネルを見ていた。女の喘ぎ声は甲高くてうざったい。俺も服を着ると、果音の隣に腰を下ろした。相変わらず言葉は見つからない。もはや自分に絶望すらしていると、果音が口を開いた。
「ケータイ、訊いてもいい?」
「えっ」
「俺のは、そこにメモしておいたから」
 そこ、と示された先はベッドスタンドで、俺はまくらもとにのぼって目を開く。ケータイの番号とメアドが記されていた。マジか、と目をしばたき、果音を振り返った。
「こ、これ──」
「いらない?」
 俺は強く首を横に振って、そのページをちぎって、どこにしまうか迷ったあと財布に入れた。
「美羽のも教えてよ」
 そう言われて、俺は生まれて初めてケータイを持っていない自分を呪った。持ってない、とか──真実なのだが、いかにも体のいいかわし方ではないか。実際そうやってかわしたことだってある。でも、果音には教えたくない言い訳だと思われたくない。果音が首をかたむけるので、「あ」と俺は思いついてメモに走り書きした。それでも、受け取った果音は怪訝そうな顔をした。
「これ、PCのアドレスだよね」
「持ってないんだ、ケータイ。ほんとに。このアドレスで、連絡来たことには気づく。プロバイダの奴だから簡単に変えもしない」
「……ふうん」
「ごめん、その──嬉しいよ、連絡先教えてもらえて。なのに、ほんとごめん」
「まあ、持ってないなら仕方ないよね」
「持ったら一番に教えるから」
 当てもないのに言い切ると、果音は俺を見て、おかしそうにくすっと笑う。
「ほんとに一番?」
「う、うん。俺もメールとかしたいし」
「そっか。ふふ、ありがと」
「迷惑な時間とかある?」
「別に。仕事中は即レスできないけど」
「仕事、してるんだ」
「深夜営業のファミレスでキッチンやってる」
「……俺も、働こうかな」
「働いてないんだ」
「ん……まあ。中学時代から家ではこもってる」
「俺は高校中退して家出だから、ちょっと違うね」
 果音は咲いながら、俺のメモを同じく財布にしまってくれた。
 つながったよな、とそわそわしそうになる。一応、これでつながったよな。でも、ケータイ同士ではないことにどうしても不安になる。今すぐケータイを持って、気軽に連絡を取れるようになれればいいのに。
 また会えるかどうかぐらい、ここで面と向かって訊いていいのだろうか。けれど、躊躇っているうちに果音はテレビを切って、「よし」とベッドを立って背伸びした。
 このままになったらどうしよう。どこかでまだそれを感じつつも、俺は荷物を取り上げ、果音もナップザックの紐をつかんだ。
 一緒に部屋を出てホテルも出ると、意外と冷たい風が吹いていた。ピンクのネオンが、果音の髪がなびくのを映し出す。あの香水の匂いは、シャワーで消えてしまったようだ。
 時刻は午前四時前だったから、そろそろ帰路に着かなくてはならない。なのにぐずぐずしていると、「寒いねー」とか言いながらホテルに入っていくふたりが背後を通り過ぎる。ぶつからないように果音が俺を引っ張って、近づいた顔にどきっとしていると、「あ……」という聞き憶えのある声がして振り向き、目を見開いた。
「どうした?」
「あ、ううん。何でもない」
 おっさんとそんなことを話しながらホテルに入っていったのは、キキだった。
 何でも──ない。俺は果音を見た。果音も俺を見つめる。
 何でもなくても、いい。今は、もう、どうでもいい。あんなガキのことより、この人に言わなきゃ。しかし、何か言う前に果音は俺の頬にそっとキスをして、またね、とは言わずにすれちがっていった。
 俺はその背中を見つめて、見えるうちに何か言わなければとぐるぐる考えて、結局、声自体発せなかった。追いかけたってよかったのに、膝がすくんで固まっていた。遠ざかりたくないから、駆け寄ることができない。無意識にこう思っていた。
 どうせ応えてもらえない。俺のことを、好きになってくれるわけがない。だって、俺は愛されたことがない。
 誰にも。
 親にも。
 愛されたことが、ないじゃないか。

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