ほんとの好きな人
「俺、メグと別れようと思うんだ」
翌日もよく晴れて真夏の名残が厳しく、昼休み、俺は真悟と教室で昼食として購買のパンをかじっていた。俺のつくえに腰かけ、メールチェックに余念がない親友にそう言うと、真悟はめずらしく驚きを表わして顔を上げた。
「マジで?」
「マジで」
「まだずるずるやるのかと思ってた」
「お前も言ってただろ、よく続くなって。あいつのブラコン加減も重くなってるしな。それに、その、何というか、予約入ったし」
「は?」
「予約だよ」
「何だよ、予約って」
「彼女と別れたら、つきあってくれる的な……」
真悟は整った眉を寄せて携帯をつくえに置き、「まさか」とストローをさした紙パックのコーヒーを取る。
「あの変人じゃないだろうな」
「俺は彼女を変人とは思わないけど、まあ合ってますね」
「『ますね』じゃねえよ。お前、ほんっとバカだな」
「るせえよ」
「あんな面倒そうなの、どうせ責任取れなくてへこむだけだぜ。リスカだぞ。理解できんのかよ」
「あー、リスカ。そういや、そうだったな」
「お前なあ──」
「何か、そのへんは重要じゃなくなってる。それより、何つうか、他人になるのが嫌なんだよ。彼女がいるなら、会うのやめるって感じだったし」
真悟はうんざりしたような息をつき、「完全にいってるな」とつぶやく。
「つーか、好きになるほどあいつに会ってたのか」
「たまに。そんなちょくちょくじゃないけど。でも、それ言ったらメグとかもっとすごくなるぞ。キスは逢ったその日だぜ」
「俺もどうこう言えないけどさ。恋愛に関しては。でも、あいつって……」
「お前は反対?」
パンを飲みこんでそう問うと、真悟は眇目をくれてきて、「勝手にしろ」とコーヒーに口をつけた。俺はにっこりして、「勝手にする」とパンを頬張る。
「ただ、メグちゃんの気持ちも考えて片つけろよな」
「ん、それは分かってる」
「お前までリスカ始めんなよ」
「痛そうなのでしません」
真悟はちょっと咲うと、俺の頭を小突いた。よし、と俺も笑顔を作る。あとは、恵里本人に話をつけるだけだ。
木曜日まで、どう切り出すかに悩んでいた。正直、恵里は俺が別れたいといえば簡単に切れる気もする。だって、恐らくとはいえ、恵里にも本命がいるのだ。彼女にしたって、いつまでも俺とつきあっている場合ではないだろう。
いろいろ考えているうちにやってきた木曜日、「じゃあ、今日は先帰っとくから」と真悟に見送られると、俺は恵里の教室におもむいた。
どうも肌になじまない別学年のさざめきを縫い、恵里の教室に到着する。後ろのドアが開かなかったので、前のドアで教室に入ると、生徒もまばらな教室の教壇で、恵里はクラスメイトと輪を作っていた。「メグ」と声をかけると恵里は顔をあげ、「来た」と言って、もたれていた教卓から足に体重を戻す。こちらに来る恵里と一緒に、談笑していたほかの後輩の視線も集まってくる。
「ここではちょっと」と言うと、「じゃあ移動しようか」と恵里は自分のつくえからかばんを取ってきた。
「どこ行く?」
「屋上、暑いかな」
「最後くらいおごってよ」
俺は恵里を見た。恵里は何事もないように歩き出す。最後──。「……分かってるのか、俺の話」
「まあ、だいたい」
「怒る?」
「そろそろでしょ」
女の勘なのか、俺が不器用なのか。
にぎやかな廊下や階段を抜け、靴箱で二年と三年なのでいったん別れると、昇降口で合流する。
カレンダーでは秋でも、暑さは真夏と変わらない。帰途につく生徒たちも、白がまばゆい半袖シャツだ。
俺と恵里は無言で駅前までの道をたどり、何回か来たこともあるカフェに入った。
「一応、理由とかあるの?」
俺はアイスコーヒーとクロワッサン、恵里はアイスティーとチーズタルトを注文し、俺のおごりでカウンターで商品を受け取ると、比較的静かな窓際の席に着いた。
ちょうどいいクーラーが、肌に染みこんでいく。とりあえず冷やされることに脱力していると、チーズタルトを切り分ける恵里は淡々と本題に入る。
「ん、ああ。まあ」
「透望とはそのうち別れると思ってたけど、意外と早かったね」
「トゲを感じますが」
「女?」
「……もともと、お互い本気じゃないだろ、俺たちって」
「そうね」
「その子は、何か──つきあっておかないと、他人になりそうなんだ」
「あたしたちだって、つきあってなきゃ他人でしょ」
「そうなんだけど。その子は……何つーか、その、離れたくないんだ。つながっておきたい」
恵里は胡乱そうな目で俺を眺めたあと、チーズタルトを口に運ぶ。「それにさ」と俺は口にしていいか迷ったあと、小さく切り出す。
「お前のブラコンが、ちょっと重い」
恵里は一瞬手を止めたものの、黙ってアイスティーにシロップを溶かす。
「渚樹のこと、そんなに受け入れられないのか」
「………、」
「あいつはお前を信頼して告白したんだと思うぜ。なのに、」
「違うわよ」
「え」
「渚樹がそっちだって告白してきたのは、そんなのじゃない。あたしを遠ざけたかったの」
「だから、そういうのが──」
「あの子、きっと分かってる」
「何をだよ」
「あたしに好かれてるって」
「そりゃ、好きなのは分かるけどさ。だからって、」
「そんな簡単な“好き”じゃなくて。今の透望なら分かるでしょ。あたしも渚樹と離れたくないの。つながっておきたいの」
俺は言葉を止めて恵里を凝視した。
離れたくない。つながっておきたい。
今の俺、は、確かに分かる。七梨にそう思う。そしてその感情を、俺は“恋愛感情”として認識している──。
「え」と声をもらし、はりつめた表情の恵里を見る。
「お前、渚樹のこと……」
「分かってる。気持ち悪いでしょ。おかしいでしょ」
「……本気なのか」
「本気よ。子供の頃から、渚樹以外の男に本気になったことなんてない」
「渚樹に言ったことは」
「ないわよ。でも、感づかれてると思う。だから、信じられないの。あたしを遠ざけるための嘘じゃないかって」
何と言えばいいのか分からなくなってきて、何となくクロワッサンを手に取る。さく、とひと口かじると、バターの香ばしさが口に広がった。
恵里が。渚樹を。本命がいるとは思っていたが──。
正直、それなら嘘だというのもありうる気がしてくる。
「渚樹を弟にしてくれる男を捜してるけど。いないのかもしれない。透望も違ったわけだし」
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ。あたし自身の感情の問題だし」
「何か、特別な切っかけとかあるのか」
「別に。気づいたら好きだった。どんな男の子より、渚樹のお嫁さんになりたかった」
俺は頬杖をつく恵里を見つめ、何と言葉をかけたらいいのか、とりあえずクロワッサンを口に押しこんでいった。恵里は息をつくと、チーズタルトに向きなおって、ひと切れ口に放りこむ。
彼女もまた、依存しているのかもしれない。ぐるぐると巻きついて離れない、甘ったるい悪酔いに。七梨が自傷するように、真悟が女をたらすように、弟に禁忌を冒している。
「俺が好きになった子は、さ」
しばしテーブルに無言を置いたあと、クロワッサンを食べ終えた俺は無意識に切り出していた。
「前話した、リスカとかやってる子なんだ」
恵里はこちらをちらりとして、「あんなにヒイてたのに」とくすりとする。やっとこぼれた恵里の笑みに俺も笑う。
「そうだな。初めはヒイてたけど、今は気にならなくなった。まあ、やめてほしいけどな」
「もう寝た?」
「いや。もっと初歩的なことから始めなきゃいけない感じだな。……メグにも、いるんじゃないかな」
「え」
「初めはヒイても、近づこうとする奴」
「……どうだか」
「いるよ。俺はなれなかったけど」
恵里は大きく息を吐くと微笑み、「いたらいいね」とうなずいた。俺も咲い、アイスコーヒーをブラックのまま飲む。
それから、俺たちはたわいない話で時間をつぶした。この子とこうして過ごすのは、これが最後だ。そう思うと、時間の流れが早かった。ちょっと日の落ちかけた頃にようやく席を立つ。
「じゃあね」と笑顔を作った恵里は、きびすを返して人混みに紛れていく。俺は最後までそれを見守った。そうして、俺と彼女のふまじめな関係は、終わりを告げた。
【第十一章へ】