ロリポップ-12

甘いめまいよりも

 学校にも何にも行っていない七梨は、平日でも簡単につかまった。『話がある』のと『彼女とは別れた』ので、七梨もだいたい俺の用事は察せただろう。
 いつも通りCDショップの前で待ち合わせて、まだ来ていない七梨を待つ。彼女は缶バッジが無造作につけられたうさ耳帽子、安全ピンとブロークン加工が目立つカットソー、蜘蛛の巣のレースのアシメスカートというなりでやってきた。
 人混みの合間に俺のすがたを認めると、どうしたらいいのか分からないように視線を彷徨わせながら、歩み寄ってきた。
「えと、こんにちは」
「うん」
「待った?」
「ケータイいじってたから平気」
 言いながら、俺はケータイをヒップバッグにしまう。
「透望くんって、高校行ってるんだよね」
「ん、まあ」
「今日、木曜日だよ」
「ああ、サボった」
「よかったの」
「一日くらい平気だよ。えーと……」
 お互い、どこに向けるか分からず、俺は空に、七梨は足元に目をいざよわせる。しかし、このまま突っ立っていても通行の邪魔だ。「じゃあ」と俺はひとまず人通りをしめした。
「暑いし、どっか入ろうか」
 七梨は上目で俺を見ると、こくんとした。ちょっとぎこちないな、と感じつつ、俺たちは並んで歩き出す。俺は意識して七梨の歩調に合わせ、彼女を置いていかないようにする。
 それにしても、本当に暑い。もうすぐ九月も下旬なのに、ぜんぜん涼しくならない。いつのまにか蝉の声は絶滅したけど、太陽の舌は肌に絡まってくる。特にこの界隈は、抜ける風を人いきれがさえぎって蒸している。
「メール……」
 ふと七梨がつぶやいて、俺ははたと左にいる彼女を見た。
「メール?」
「うん」
「メールがどうかした」
「その、読んだけど」
「あ、ああ。昨日の」
「うん。彼女さん……ほんとによかったの?」
 七梨は申し訳なさそうにこちらを見上げ、瞳が弱く触れあう。
「七梨ちゃんが気にすることじゃないよ。向こうも平気そうだったし」
「平気なふり、ではないの」
「そこまで俺は執着されてなかったし。大丈夫だよ、七梨ちゃんは悪くない」
「私……」
「俺が勝手に七梨ちゃんを好きになっただけ」
 七梨は目を開いた。言っちまったし、と俺も気まずく体温の上昇を覚えながら、視線を脇に投げ捨てる。
「す、好きって、その……」
「迷惑?」
 七梨は意外とすぐにかぶりを振った。「ただ」と彼女は言いそえる。
「私は、その、普通じゃないから。透望くんに好かれるような女じゃないかもしれない」
「でも、俺は一緒にいたいなって思うよ」
「一……緒」
「つながっておきたいんだ。ダメかな」
 七梨は大きな瞳に俺を映す。俺は微笑み、七梨の頭をぽんぽんとする。
「私……」
「ん」
「私、でよければ、その……」
 七梨を見つめ、その言葉をくみとると俺は七梨の手を取った。七梨はびくっとしたけど、ゆっくり握り返してくる。七梨の手はこの暑さに反して冷たく、手のひらに心地よかった。
 しかし、こうなった場合、俺たちはどこに行けばいいのだろう。いつもの俺ならモーテルだが、七梨はそういう場所に免疫がなさそうだ。俺の家も親への説明が面倒だし、七梨もあんまり家庭に踏みこんでほしくないようなことを言っていた。とりあえずいつも通りファミレスか、と頭の中で素早く計算し、さすがに俺がおごるんだよな、と財布の中身を思い返したりした。
 いつものファミレスは、今日はランチタイムで混んでいた。しかし、ラッキーなことにちょうど窓際の席を立った客と入れ違いに案内されて、俺はサラダ、七梨はやはりドリアを注文した。テーブル越しに向かいあったまま、何だか沈黙してしまう。
 俺は緊張しているのだろうか。そうだよな、とついこぼれそうになったため息をこらえる。俺はいつも女とはいい加減なつきあいしかしてこなかった。
 七梨は、何というか、うまく言えないけれど、手軽な女の子じゃない。いや、七梨が面倒というわけではなく──
 こんがらかった思考回路に俺が頭をかきむしると、七梨が不安そうなまばたきでこちらを見る。それに気づいた俺は、「あ」と気まずく手をおろした。
「ごめん。緊張してるのかな」
「緊、張」
「このあと、どうすればいいんだろ」
「彼女さんとはどうしてたの?」
「ん、俺が彼女に家に行くのが多かったかな」
「……私の家は、来ないほうがいいよ」
「あ、いや、うん。分かってるよ」
「私、両親とすごく仲が悪いから……」
 俺はうつむいた七梨を見た。七梨が唇を噛んでいるのが、前髪の隙間から見えた。何でなのか分からない。俺は無意識に口を開いていた。
「だから、切るの?」
 七梨ははっと俺を見て、やば、と俺も硬直した。目に目が刺さる。けれど、七梨はトゲを持つことなく、またうつむいた。
「やっぱり、透望くんだったんだ」
「えっ」
「駅のホームで……憶えてない?」
 俺は七梨を見つめ、あの血の匂いまで感じそうな鮮紅の印象を思いだす。
「憶えてる、けど。七梨ちゃん、俺だって分かってたんだ」
「何となく。目も合ったし」
 七梨はこの猛暑の中、いつも長袖を着ている。今日もそうだ。それが当たり前になって気にならなくなっていたが、今日はその安全ピンが連なった腕に目をやってしまう。
「あの日は、ね」
 俺は慌てて七梨の顔に目を戻す。七梨はうなだれて、声も周囲に紛れそうに小さかった。
「死のうと思ったの」
「え……」
「何で部屋にこもってばかりなんだとか、高校ぐらい行けとか、もう聞かされるのがつらくて。どうせ生きてたって楽しいことないし、昔住んでた町まで行って、そこにある湖のそばで薬飲んで手首いっぱい切ったの。釣りにきた人に見つかっちゃったけど」
 思わず口ごもっていると、サラダとドリアが来た。そういえば、七梨は今日はドリンクバーを頼んでいない。七梨は上目遣いで「ごめんね」と言った。
「え、あ──」
「私、きっと透望くんが思ってるようなかわいい女じゃない。それでも、透望くんに逢ってから楽しいなって思えてるのは本当だよ」
「ほ、ほんとに」
「うん」
「じゃ、俺がそばにいたら切らずに済む?」
「……それは、分からない……けど」
「切ってほしくないんだ。俺がつらい」
「透望くん、が」
 ちょっと困っている七梨に、俺は少し考えたあと、彼女をまっすぐ見つめた。
「俺のこと、好き?」
「えっ」
「好きじゃなくてもいい。とりあえず、特別だって感じてる?」
「ん、まあ」
「じゃあさ、もしかして、今カッターとか持ってる?」
 七梨はとまどったあと、隣におろしていたリュックからカミソリを取り出した。ほんとに持ってんのかよ、と思ったが、口にはしない。俺はそれを受け取ると、さすがに手首の勇気はなかったので、腕に刃をあてる。
「と、透望くん?」
「今から俺も切るから」
「だ、ダメだよ、そんな、」
「俺が切ったら、七梨ちゃんに俺の気持ちが分かる」
「そんなの、」
 恰好つけたことを言いながらも、腕に食いこませたカミソリをすべらす勇気がなかなか出ない。痛いよな、と唾を飲みこむ。それでも、七梨に分かってもらうには──
 俺はゆっくり刃を引いて、肌に裂け目を作った。痛覚が走って、ぽた、と血がテーブルに一滴したたる。
「透望くん──」
「け、けっこう痛いね」
「は、早く血止めなきゃ」
「止める前に約束して」
「え」
「俺に、今、七梨ちゃんが感じてる気持ちを味わわせないで」
「透望くん──」
「七梨ちゃんが切ったら、俺も切る。何回でも」
「分かんない、よ。透望くんがそこまでしてくれても、私は切っちゃうかもしれない」
「七梨ちゃんは、何で切るの?」
「……落ち着く、から。いらいらしても、つらくても、寂しくても、切れば落ち着くから」
「じゃあ、そういうときは俺のとこに逃げてきて」
 俺はテーブルに常備してあるナプキンで傷をぬぐい、テーブルの一滴も片づける。
「こんなのに逃げずに、俺のとこに来て」
「でも、いつ切りたくなるか分からないし」
「いつでも俺は七梨ちゃんのそばに行く」
「そんなの、」
「俺は七梨ちゃんが好きだから、そうしてほしいんだ。親に頼れないなら、俺を頼って」
「透望くん──」
「大丈夫。これからは、俺が七梨ちゃんを受け止める」
 七梨はじっと俺を見つめた。俺が微笑むと、七梨は睫毛を震わせて顔を伏せ、素早く目をぬぐった。俺は七梨の頭をぽんぽんとすると、「冷めるよ」とドリアをしめす。七梨はうなずき、スプーンを手に取った。
 これでいいのかな、と俺もサラダに手をつける。左腕はしくしく痛んでいるけれど、浅い傷だったので血はあっさり止まったようだ。七梨の傷は、こんな傷の比ではないのだろうが、でも、それもおしまいにしてやりたい。
 俺はまだまだ七梨を知らない。これから知って、彼女の力になりたい。あらゆる傷を癒してやれる男になりたい。
 あの日、七梨を初めて見た日は、彼女にこんなに惹かれるとは思っていなかった。むしろ気色悪いものを見せられたと思っていた。分かんないもんだな、とトマトを口にふくむ。今では、彼女の支えになりたいと思っている。
 俺はいい加減な男だけど、七梨には真摯でいたい。甘ったれた現実逃避はおしまいだ。ちゃんと“本気”を出して、七梨とつきあっていこう。
 そうしたら、俺にぐるぐると巻きつく生温い甘ったるさも、断ち切れるだろうから。

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