ロリポップ-2

気だるい日々

 蝉が夜にも鳴きつづけるようになったのは、いつからだろう。俺が子供の頃は、夜には蝉さえ寝静まっていた気がする。
 華やかな都会でも、うらぶれた郊外でもない、中途半端な住宅街。家に帰るのが憂鬱で、静かな公園に寄り道した俺は、発光する自販機でアイスコーヒーを買ってベンチに腰をおろした。
 膝に肘をついてうなだれると、蝉たちが耳元ですすりなく。右手にある街燈は、髪とうなじに白く降りそそいでいる。
 高校生活最後の夏休みが始まって、三日目だ。別に不良じゃないが、どちらかといえばふまじめな俺は、大学受験にそんなに躍起になっていない。高校からのつきあいだが、親友と呼べる真悟まさともそんな感じだ。
 今日もその真悟の地元で、あてもなくぶらついていた。改札で真悟と別れ、ホームで電車を待っていたら──あれだ。
 無造作に手の中でもてあそんでいた、冷えた缶コーヒーのプルリングを抜く。コーヒーもいつから飲めるようになったのか忘れた。初めて飲んだときの苦味ははっきり覚えているのに。そして、この香りも──
 缶に口をつけると、安っぽいながら落ち着く匂いがする。平気になった苦味に舌を浸しながら、暗がりにぼんやり浮かぶ遊具たちを眺める。
 ワックスが切れて、ひたいに落ちてきた前髪が、生温い夏風に揺れる。その隙間に、あの光景が真っ白にちらつく。
 白昼夢でも見たのだろうか。だけど、その白昼夢にはすぐに真っ赤な涙がしたたる。
 リストカットとかいうのだろうか。腕だからアームカットか。まあ、どちらでもいい。
 彼女は電車に乗って行ってしまった。樹海にでも行ったのだろうか。
 ため息がもれる。何であんな鬱なもん見なきゃなんねえんだよ、とうざい前髪をはらって、少し欠けた月を仰いでコーヒーを飲みほす。
 缶が空になると、かたわらに置いて、ジーンズのポケットのケータイを取り出した。メールが来ている。スライドさせると、恵里めぐりからだった。
『明日、お昼うちで食べない?』
 恵里は同じ高校の二年生で、つきあって半年ぐらいになる。元は友達の友達で、恵里から告白してきた。そのときつきあっている子がいなかった、という不謹慎な理由で、俺はOKした。キスはその日のうちにした。寝るのは、いつも彼女の部屋だ。
 メールより電話のほうが手っ取り早いから好きなのだが、恵里はメール派なので、ちまちまと文章を打つ。恵里のメールが来たのが二十時半前で、今は二十一時が近い。
『明日、日曜だからメグの親いるだろ。』
 マナーモードを解除してケータイを缶のそばに置くと、ベンチの背もたれに体重をかけて空を望む。すぐにケータイからサイコミミックの新曲が流れてくる。
『何の心配してんだか。
 明日はみんな留守。』
 光る画面を睨んで、どううわてに返すかしばらく悩んだ。しかし、結局は負けて、『パスタ希望。』とだけ送ると、立ち上がって缶を捨てて、流れた着うたは無視して家に足を向けた。
 恵里に告白されたのは、吐く息が染まる粉雪の日だった。適当な集まりでカラオケボックスに行き、人前で歌うのは苦手で誘われないよう熱心にケータイをいじっていたら、恵里が隣に座ってささやいた。
『つまんないんでしょ? 抜けようよ』
 恵里のくっきりした瞳を一瞥し、当時は折りたたむタイプだったケータイを閉じた。恵里はナイフのように艶めく唇に笑みを浮かべると、俺の手をつかんで立ち上がった。
 外に出ると、白い息が粉雪に紛れこんでいく寒さだった。でもホテルに行く金がなくて、俺たちはすでに恋人同士であったようにくっついて体温を分けあい、手をつないで歩いた。
 自販機の飲み物で温まると、やけに燦々と感じるコンビニの入口に座りこんで、そこで雪にまみれながら唇を交わした。
 今は一応、恵里が柱の女だが、浮気もした。俺は浮気に罪悪感がない。ほかの女と遊びにいっても、口づけあっても、最後までいっても、何とも思わない。
 浮気なんか、ばれなきゃいいのだ。俺の場合、ばれたって恵里が平気そうなのもある。なぜなら、恵里にとっても俺は“浮気”だからだ。
 恵里には本命の男がいると思う。誰かは分からないし、確信もないが、何となく恵里は俺を適当にあつかっている。見透かしたような微笑、一瞬空を泳ぐ瞳、薄っぺらい言葉を紡ぐ舌──
 そんなあつかいを受けて動揺しないのだから、俺の恵里に対する想いも軽薄なものなのだろう。
 到着した自宅を擁するマンションを仰ぐと、またかあさんに受験のこと言われんのかな、とうんざりしながらエントランスに踏みこんだ。
 翌日、俺の一日はケータイの着信音で始まった。クーラーが働く部屋で、ベッドに突っ伏していた頭をもたげ、手探りでジーンズのポケットにあるケータイをつかむ。
 恵里からだった。
『起きてる?』
 俺はぼんやり画面を見つめ、ぼさぼさの茶髪を無造作にかきむしった。気だるい軆を持て余し、ひと言返した。
『今起こされた』
 ベッドスタンドの時計を手にすると、時刻は午前十時前だ。そろそろ起きなくてはならなかったのは認めていると、恵里からメールが来る。
『昨日の返事は?』
 昨日──そういや昨日最後のメール見なかったな、とメールボックスを開く。
『鶏肉のトマトソースなら作れるけど。』
 俺はあくびをして眠気に痛む目をこすりつつ、返事を打った。
『食えれば何でもいい。
 今から行っていい?』
 返事は待たなかった。
 俺はベッドを出ると、軽くシャワーを浴びた。湿った髪をセットだけして、真悟の影響でたまに吸うようになった煙草をくわえて家を出る。
『別にいいけど、お昼までナギがいるよ。』
 マンションを出ると、アスファルトにガンをつけているような太陽が蝉の合唱をかきたてていた。空気がねっとりして、陽炎が匂い立っている。
 ケータイを見ると、恵里からそんなメールが来ていた。
 渚樹なぎ、とは彼女のひとつ下の弟だ。同じ高校で、俺が三年、恵里が二年、渚樹が一年だったりする。
 皮肉っぽくしたたかな恵里とは異なり、ひかえめで自己主張をしない奴だが、お互いわりと気は許している。俺にとっても弟みたいな感じだ。
『家出た。
 三十分くらいで行く。』
 そう返した俺は、ケータイをマナーモードにして、ポケットにしまった。
 生温く停滞する大気と車や会話の雑音の中、駅まで歩いていく。マンションから駅まで十分、俺の最寄り駅から恵里の最寄り駅まで五分、駅から恵里の一軒家まで十五分だ。
 電車に乗る前に、改札口で煙草を踏みつぶす。
 こんな時間だけれど、日曜のせいか電車は混んでいた。通学のラッシュに較べれば平和なものだが。
 恵里の家への十五分が一番つらい。発狂しそうに青く突き抜ける空は、歩いているだけでこめかみや喉元から汗を絞り取る。
「暑すぎだろ」とぶつくさしつつ、俺はようやく似たような家が並ぶ住宅街に恵里の家を見つける。駐車場は空っぽで、顔見知り程度の恵里の両親は、本当に留守のようだ。
 俺はケータイを取り出して、恵里の番号を呼び出すと、電話をかける。
『もしもし?』
「あー、今着いたけど」
『駅?』
「メグんち」
『え、マジ。ちょっと待って、今行く』
 足音を最後に電話は切れ、俺もケータイをポケットにしまう。勝手に門を開けて、数段の階段をのぼって玄関にたどりついたところで、ドアが開いた。
「おはよ、透望とも
 澄まして聞こえる声で俺を迎えた恵里は、普段はポニーテールにしている焦げ茶の髪を流し、化粧も済ましていた。黒のタンクトップに、ピンクのデニムスカートを合わせている。
「って、うわ、暑っつい」
「早く何か飲みたいんですけど」
「麦茶でいいでしょ。入って」
「はいはい」と俺は汗で胸に貼りつくラグランTシャツを引っ張り、スニーカーを脱ぐ。
 俺も恵里も、バイトなんかしていなくて金がないので、休日に会うのはいつもここだ。どうせ平日に学校で会うので、そのくらいでちょうどいい。ちなみに、俺の家に恵里を連れていったことはない。
 家の中は、玄関先は蒸していても、テレビやソファのあるリビングはクーラーが行き届いていた。恵里を抱きしめたときの匂いがする。親父さんもいないし、クーラーの真下の革のソファを陣取って脱力する。
 汗が意識を失うようにひんやりと乾いていく。
「十時まで寝といて、まだ眠いの」
 俺に氷が涼しげな麦茶のグラスを渡しながら、やってきた恵里は目を眇める。
「昨日、遅かったんだよ」
「受験勉強?」
「違うけど」
「透望ってぜんぜん勉強してないよね」
「授業中にやってるよ」
 グラスに口をつけ、きんと頭を刺す冷たさに眉を顰める。
「大学行かないの?」
「さあな。つうか、渚樹は」
「部屋じゃない? もう出かけるかも。お昼は友達と済ますって言ってたし」
「ふうん。で、パスタは」
「作ってる。できるまで麦茶で我慢して」
 そう残すと、恵里は奥のキッチンに行った。朝飯を食っていないのには慣れているけど、だらんとソファに倒れる。味噌の匂いと、何かを炒める音が、ここまで迷いこんでくる。
「あ、透望さん」
 冷たい空気の中、体温に染まったソファの革にぼさっと頬をうずめていると、そんな声がして首をよじった。黒のTシャツに迷彩パンツの渚樹が、顔を覗かせていた。俺は身を起こし、「よお」と表情をやわらげる。
「終業式ぶり」
「はは。来てたんすか」
「さっきな」
 渚樹は歩み寄ってきて、キッチンのほうを一瞥して姉を確認する。渚樹はわずかに前髪をおろしているがほとんど短髪で、色もかなり抜いている。おまけに恵里によく似た気の強そうな目つきをしてるのに、俺に敬語を使ったりときまじめな性格をしている。
「渚樹は出かけんの」
「はい。友達のライヴに」
「ライヴ。バイトとかしないのか」
「あの高校、バイト禁止ですよ」
「あー、そうだっけ。みんな隠れてやってるだろ」
「透望さんは」
「俺はやってないけど。友達はやってるよ」
「そんなもんっすか」
「そんなもんっすよ」
 渚樹はちょっと笑って、「考えときます」と三日月型のバッグを背負いなおし、「じゃあ、ねえちゃんにはよろしくお願いします」と行ってしまった。再び手持ち無沙汰になった俺は、恵里が昼食を用意しおえるまで、ソファに倒れこんでいた。

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