君との約束
昼飯の味噌カップラーメンを食べていると、ケータイに知らない番号から着信があった。無視していると、留守電が起動する。ラーメンを食べ終わってから伝言を聞いてみて、俺は目を開いた。
『ご注文いただいていたXENONのアルバムが入荷致しましたので、お知らせします。ご来店お待ちしております』
やっと来た、と俺は勇んでそのままアドレス帳を開き、七梨のアドレスを呼び出した。書き出しに迷ったものの、単刀直入に行く。
『キセノンのアルバムが入荷したらしいよ。
今日会える?』
七梨の返事は十分後くらいだったけど、それでも俺は、たっぷり待たされた気がした。
『今日はヒマだから会えます。
今すぐですか?』
敬語かよ、と思わぬ壁に衝突しつつ、今十三時か、と確認してめげずに返信する。
『俺は電車乗らないと行けないから、しばらく時間あるよ。
十三時半頃にあのレコ屋の前でいい?』
また待たされるかな、とカップラーメンでも片そうとしたら、今度の返事は早かった。
『十四時じゃダメですか?』
断る理由はない。女が準備しないと外に出れないのは知っている。特に、七梨は服装があれだ。
『かまわないよ。
じゃあ十四時に。』
数分後、『分かりました。』という七梨の返信を受け取ると、俺は簡単な身支度を始めた。歯磨き、トイレ、おろしていた前髪をワックスで無造作に分けて、カップラーメンも片づける。そして、「よし」とつぶやくと、鍵をつかんで部屋を出た。
今日の天気は曇りだったが、雨を予感させる匂いでむしむししていた。いつのまにか八月も半ばを過ぎ、狂っていた蝉の声もだいぶ落ち着いている。
夏休みもじき終わりだ。真悟はそのままホストをやればいいが、俺は受験勉強もせず、何をやっているのだろう。煙草をふかしてそんなことを思いつつ、現実逃避で七梨との今後について考える。
まだまだタイトな関係とは言えない。約束がなければ、ふいと離れてしまいそうだ。連絡先は交換しあったとはいえ、ケータイに残した連絡先などあっけないのは、これまでの元友人で知っている。
飯でも誘えばいいのだろうか。でも金ないし、と情けない事実に行き当たっていると、駅に着いていた。
駅前は残り少ない夏休みを惜しむ中学生の集団や、外回り中らしき背広のサラリーマンでざわめいていた。煙草を踏みつぶし、それらを縫って改札を抜けると、けっこう人のいるホームで三分ぐらい電車を待つ。冷房より人の熱気が濃い車内でも、俺と同じくらいの中高生がうるさかった。そういう奴らも俺と同じ駅で降りて、めまいのしそうな人混みに溶けていく。
駅からさほど離れていないあのCDショップに向かい、出入口でうつむくゴスパンクの女の子を見つけた。人混みの中で、何だか彼女は捨てられた子猫みたいだった。何と呼べばいいのか分からなかったので、無難に「七梨ちゃん」とちゃんづけにしてみる。
ケータイもいじらず突っ立っていた七梨は、俺の呼びかけに顔を上げた。ぱっちりした大きな瞳に俺が映って、やっぱかわいい、とバカみたいに思った。
今日の彼女は、全体的に黒かった。銀のチェーンが絡む真っ黒のうさ耳帽子に、蜘蛛の巣模様のレースがかかった黒いシャツ、アシメスカートも黒でハイソックスも黒だ。スカートの短い部分に、わずかに白い脚が覗けて、何だかどぎまぎする。
「えっと……待たせたかな」
「さっき来たから」
「そっ。じゃあ、暑いし。中入ろうか」
七梨はこくんとして、俺たちはCDショップに踏みこんだ。俺は
ヒップバッグから財布を取り出し、控えと預かっていた金を用意する。俺がそのままレジに行こうとすると、七梨は俺のフェイクレイヤードのTシャツの裾をつかんだ。
「ん。何」
「ポイントカード」
七梨はドクロがプリントされたウエストバッグを探り、黒と赤のボーダーの財布から、ポイントカードをさしだしてくる。もうすぐ、千円値引きの三十ポイントに届きそうだ。
「私も、レジに行くの?」
「いや、別に──あ、ちゃんと欲しかった奴かどうか、確認したい?」
七梨はやや考えたあと、またこくんとした。
「ま、店員としゃべるのは俺だから。CDだけ確認して」
七梨はうなずき、俺たちはレジに向かった。一番短い列に並ぶと、何となく沈黙になる。
気まずい。こんな空気しか出せないのなら、アルバムを渡しておしまいになりそうだ。何か話題、と思って、俺は真悟のことを思い出す。
「あ、あのさ」
ウエストバッグをいじっていた七梨は、俺に顔をあげる。近くで見て、ほとんど化粧をしていないのに気づく。でも、やっぱり香水は薫っている。
「川上真悟って知ってる?」
七梨は無言で俺を見つめ、首をかたむけた。
「俺の友達なんだけど、君と中学のときクラスメイトだったって」
「……学校、行ってなかったから」
「ん、まあそれは聞いたんだけど。あいつ目立つから、君でも知ってるかなーって」
七梨は眉を寄せて一応考えたあと、ばっさり答えた。
「知らない」
「そ、そっか」
俺は手の中の控えと野口をつまぐり、視線をよそにやった。
続かない。会話が続かない。このままでは、アルバムをお買い上げ次第、七梨のケータイから俺の情報は消されておしまいだ。
せっかく、こんなかわいい子と切っかけができたのに。いつも適当にしか女とつきあってこなかったツケが、こんなところで来る。
何かないのか俺、と頭を殴りたくなっていると、ヒップバッグの中からサイコミミックが聴こえてきた。ケータイを取りだして確かめると、クラスメイトのたわいないメールだった。今はそれどころじゃないんだよ、と乱暴にケータイをしまっていると、突然七梨が口を開く。
「今の、サイコミミック」
俺は七梨を向いて、目をしばたいた。
「え、まあ──好きなんで」
「私も好き」
「えっ」
七梨を見つめ、「マジで」と言うと彼女はうなずき、「光夢が好き」と初めてわずかながら笑みを見せる。その笑みにぽかんとしそうになったものの、慌てて会話を繋ぐ。
「光夢っつうと、ギターの」
「うん」
「かわいいよね、あいつ」
「ギター弾いてるときはかっこいいよ」
「俺はやっぱ聖夜が好きだな」
ちなみに、聖夜はヴォーカル兼ギターのフロントマンだ。
「私、聖夜が好きだって言ってたから、XENON知ったの」
「あ、俺もだよ。聴くまではしなかったけど。XENONって、やっぱサイコミミックに似てる?」
「サイコミミックより重いかな。いろいろ。音も歌詞も」
「ふうん。聴いてみようかな」
「XENONのアルバムなら全部持ってるから、PCで焼いてきてもいいよ」
「ほんと?」
「それくらいしか、お礼できないし」
「ん、じゃあ──お願い」
こっくりとした七梨に俺は顔を伏せ、思いっきり破顔しそうなのをこらえた。
やった。次ができた。ありがとうサイコミミック、とか思っていると、レジは俺たちの順番になっていた。
俺がさしだしたひかえをもらった店員は、背後の棚に駆けよって、一枚のアルバムを持ってくる。「こちらでよろしいでしょうか?」と問われ、俺は身を引いて、七梨に店員の手元を覗かせる。彼女が確認を取ると、釣りやらポイントカードやらは俺が受け取り、無事買い物は終わった。
「ごはんに行くんだよね」
ダメージ加工と安全ピンまみれの黒いリュックにアルバムをしまった七梨は、リュックを背負い直しながら言った。次元が変わるように、クーラーのきいたCDショップから蒸し焼きにされた外に出た俺は、ほぼ頭ひとつ背の低い彼女を見おろす。
「憶えててくれたんだ」
七梨は俺をちらりとして、「お礼だから」と言う。それでも俺はにやにやしそうになって、何とかそれを引き締めると、話を続ける。
「飯っつっても、もう昼飯食ったよね」
「パンひとつだけど」
「あ、ほんとに。俺もカップラーメンだけだし、ファミレスでも行こっか」
七梨はストラップを握ってうなずき、俺たちは引っくり返したパズルみたいにごちゃごちゃした人波に混ざった。
左手が駅で、右手が歩行者天国だ。その通りにファミレスぐらいあるのは知っている。
ファーストフードでもよかったけど、男はこういうとき、情けない見栄を張る。ファミレスでもそうとうランク低いよな、とぶつぶつ思っていると、ふと俺の隣に必死についてきている七梨に気づいた。そうだ、俺はよく女の子の歩幅を忘れて、恵里にも文句を言われる。
「ごめん、歩くの早かった?」
七梨は俺を見あげ、「大丈夫」と答えた。それでも、俺が足並みを緩めると、ほっと息をついている。今まで何となく人間味がなかった彼女に色合いを感じてきて、何だか春が来たみたいに嬉しくなる。
皮膚が蝋のような汗に溶け出してくる前に、一番初めに目についたファミレスに入った。クーラーにすうっと熱が癒される。ランチタイムを終え、ちょうど空いてきた頃だった。
どう見ても学生の俺たちは、煙草のことは訊かれずに禁煙席に案内された。俺はサイコロステーキ、七梨はドリアを注文する。飲み物はふたりともドリンクバーで、俺はコーラにした。七梨はアイスティーと、大量のミルクとシロップをかっさらう。「それ全部入れんの?」と訊いてみると、「ミルクティーが好きなの」と返された。
向かいあった席に戻ると、話題は何となく音楽のことになる。
「七梨ちゃんは、XENONが一番好きなの?」
次々とポーションの中身をアイスティーに落としている七梨に問うてみると、彼女は顔をあげる。
「梨羽のことはすごく好き」
「ヴォーカル」
「うん。モッシュ怖いから、ライヴも行ったことないけど」
「ほかにいいバンドある?」
「BazillusとかRAG BABYも好きだよ」
「どっちもメジャーだよね」
「うん。インディーズではファントムリムとか」
「音楽、好きなんだね」
コーラに口をつけながら言うと、七梨はこくりとして、すべてのポーションをアイスティーに投下しおえた。ストローをマドラーにしてみっつの味をなじませると、むちゃくちゃ甘そうなそれを飲みこむ。
「透望くんは、サイコミミックしか聴かないの?」
名前呼んだ、と内心また春が到来しつつ、俺は首をかしげる。
「アルバムもシングルも揃えてるのは、サイコミミックだけかな。あとは適当にCMで聴いたり、何かの主題歌だったり」
「そっか」
「でも、音楽好きだよ。映画よりはCDに金使う」
言いながら、この子の資金源って何だろと気づいた。こないだはCDをまとめ買いしていたし、ゴス服だって高いだろう。働いているようには見えない。やはり親からの小遣いか。何か腫れ物あつかいされてそうだな、とか思っていると、注文の品が来る。
銀のスプーンでドリアをすくって、息を吹きかけている七梨を盗み見て、やっとあの自傷も思い出した。彼女の服は今日も長袖で、傷は確認できない。
あのとき、線路越しであれ、俺と七梨は確実に目が合った。しかし、彼女に腕を切っているところを見られたというそぶりはない。俺も、顔というより服装で彼女があのときの子だと分かったのだけど。鉄板で香ばしく肉汁をにじませるサイコロステーキにフォークを突き刺し、やっぱ訊いちゃまずいよなあ、とソースにひたしてそれを口に含む。
また、切ったりしているのだろうか。何だろう。別にそれで俺に害があるわけではないのに、俺の腕や手首まで疼く気がする。
逢ったその日に寝て朝帰りしたりする俺が、七梨とは手もつながずに食事のあと別れた。
「CD待ってる」と言うと、七梨はうなずいた。こんなこと言ったら俺から連絡したら催促みたいじゃん、と後悔したものの、言ってしまったものはしょうがない。七梨が本当にCDのコピーをくれるかどうかだ。
真悟だったら、さらりと「また連絡してもいい?」とかさりげなくつけくわえるのだろうが、俺はホストではない。七梨が陽炎のように浮かぶ雑踏に消えていくのを見送ると、俺も電車で地元に帰った。
まだまだ陽は傾かない十六時頃、本屋に寄り道すると、心理学とかそういう系統の本が置いてあるコーナーに立ちよった。何の本になるんだろ、と適当に何冊かめくっていると、“リストカット”の文字がある本があって目をとめる。でも、そこに書いてある説明だけでは、何にも七梨の気持ちは分からなかった。
けれど、何となく感じる。七梨は切っている。彼女もまた、依存しているのだ。ぐるぐると渦巻く、ひとときの甘ったるさに。
帰宅すると、クーラーをかけっぱなしにしていた自分の部屋にこもった。つくえとベッドぐらいが目につく、簡素な部屋だ。床はフローリングで、多少散らかっている。
蝉の声と上の住人の足音が耳に障るので、イヤホンでサイコミミックを聴き、ベッドに伏せってケータイをいじる。“リストカット”で検索して出てきたサイトを見ていると、腕をぐっさり切った画像が出てきて、眉を顰めてネットを切断した。
恵里にどうでもいいメールをしても、どうでもいい返事は来ない。
いつもの匂いのまくらに頬をあてていると、そのうち眠ってしまっていた。
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