気になる人
先週の金曜日に新学期を迎え、土日を挟んで、また学校が始まった。
夏休みの最後のほうは、俺は真悟の仕事につきあったりしていた。金をくれるという女と寝たりもした。「深入りされるから、それはやめとけ」と真悟に言われても、金欠には変えられない。真悟もそう言いつつ、俺が好きでやっているわけではないのをけどって、しつこく説教はしない。
昼食どきの今もまた、眠たそうなそんな真悟と屋上にいる。
九月に入ったとはいえ、残暑は厳しく、空は雲もなく発狂しそうな青だ。蝉の声はさすがにすたれ、屋上もこちらから勝手に鍵をかけた俺たちだけで、静まり返っている。
座りこむ真悟は、昼飯も食わず、さっきから煙草を何本も燻らせている。俺は金網にもたれてケータイをいじり、購買で買ったクリームパンをかじっている。
「メグからメール来てた」
「あ?」
「昼飯一緒に食わないかって」
「行けば」
「めんどくさい」
恵里はまだ渚樹のことでうじうじ悩んでいる。いい加減、疲れてきた。夏休み中、連れていった例の映画鑑賞でも、帰り道になればため息混じりだった。
そんなことより、俺には七梨から何の連絡もないことのほうが重要だった。
「そういや、真悟のクラスメイトだったんだよなあ」
「は?」
「七梨ちゃん」
「………、何、まさかあいつともつきあってるのか」
「つきあってくれないんですよね」
「あいつはやめとけ」
「やめとけやめとけって、お前、俺の母親じゃないんだからさ」
「じゃ、勝手にしろ」
真悟は煙草を地面にすりつける。それを横目にケータイをかちかち言わせる俺は、舌に安っぽい甘さのクリームを蕩かす。
七梨フォルダは結局作ってしまったのだが、五通も入っていない。
「七梨ちゃんって、中学時代と今って、変化あった?」
「あいつの今なんか知らねえよ」
「夏休み、ちょっと見たじゃん」
「あー……そういえば、髪切ってたな。中学時代は長かった」
「へえ」
「あんな女のどこがいいんだよ。しかもリスカしてたんだろ。俺の客にもしてる子いるけど、惚れられたらうざいぜ」
「何で切るんだろうなあ」
「血を見ると落ち着くとか、痛みで生きてるってことを実感するとか、いろいろあるみたいだけど。どれも正気じゃねえな。風俗嬢とか、はだかになるのにけっこうやってんだよな。傷口にわざと射精されたって泣いてた子いたけど、内心爆笑した」
真悟はまた新しい煙草に火をつける。
俺はケータイを閉じて、ポケットにしまう。
「やっぱ、『切るな』って言ったらまずいんだろうな。メンタルサイトとか見る限り」
「サイトでさらしてる奴なんか、みんな似非だろ。ファッションリスカ。ほんとの病人に、悠長にサイトやってる気力あるか。『切るな』でいいんじゃねえの」
「七梨ちゃんは、傷とか完全に隠してるぜ。長袖以外見たことない」
「じゃ、理解してやれば」
「いや、その理解が、どんな態度になるんだろって話であってだな」
「さあな。俺の場合、客にいたら同情してやる」
「同情」
「『つらいんだね』とか『がんばってるんだね』とか」
「……何か、七梨ちゃん嫌がりそう」
「それぞれだからな。隠されてるなら、知らないふりしとくのが得策なんじゃね」
クリームパンを食べ終えた俺は、甘ったるい匂いの息を吐いて、ずるずると真悟の左側に座りこんだ。
「煙草」と言うと、真悟はシガレットケースとジッポをよこしてくる。俺は一本拝借すると、くわえ煙草に火をつけ、ずいぶん慣れた煙たさを吸いこんだ。
そのとき、そばの出入口で物音がした。俺は吸いはじめたばかりの煙草を急いで消したが、真悟は一瞥しただけで眠そうな目をこする。
「先公かも」
「鍵かけてるだろ」
「いや、先公なら鍵持ってるし」
「いまさら俺が煙草吸ってて、何なんだよ」
真悟の髪やピアスに目を走らせ、「まあそうだけど」と否定せずに地面に力を抜いたとき、出入口のドアに蹴りらしき音が入った。さすがに真悟も眉間を寄せ、そちらに首を向ける。おぼろげに、「何で閉まってんだよ」とか男の声が聞こえた。俺と真悟は視線を交わす。
「どうする?」
「ほっとけ」
真悟はふうっと煙たい息を吹く。俺も面倒は避けたいし、ならって脱力しようとしたけれど、「誰かいる」とか「影あるじゃん」とか聞こえて、やっぱり気にしてしまう。
しばらく、真悟はぼんやりと空に瞳を放っていた。が、なかなか立ち去らないそいつらに意外と俺よりいらついてきたようで、いきなり立ち上がると煙草も持つまま出入口に向かっていった。
「るせえな、今は貸切なんだよっ」
真悟は鍵を開けてドアをすべらせるなり、向こう側にそう怒鳴った。あーあ、と俺は息をつく。普段無気力な奴も、切れると怖いのだ。
「うわっ、三年!」とかいう声と共にばたばたと足音が去っていく。しかし、真悟はまだドアの向こうを睨んでいる。
「何だよ」
そう言う真悟に、俺もそろそろと立ち上がって出入口に近づいてみた。そして、「あ」という声が重なる。
「渚樹」
「透望さん」
真悟は俺をちらりとし、「知り合いか」と煙草の灰を落とす。
「んー、まあ。メグの弟」
「……メグちゃんの」
真悟は煙草に口をつけ、渚樹を眺めた。渚樹は緊張した様子でその視線を受け、とまどったように俺を向いた。俺は肩をすくめると、真悟の後頭部を軽くはたく。
「人の彼女の弟にガンつけんな」
真悟は仏頂面で俺を見たあと、「悪かったな」と渚樹にぶっきらぼうに謝った。渚樹は慌てて首を振り、「こっちこそすみません」とたどたどしく言う。
「友達にも、……言っときます」
「ふん」と真悟はそっぽをして煙草をふかし、俺はその光景を観察した。「じゃあ」と渚樹は頭をさげて走り去ってしまった。真悟は息をついてドアを閉め、俺の興味深そうな視線に出逢うと怪訝そうにする。
「何だよ」
「ん」
「笑ってるぞ」
言われると本当に笑ってしまって、真悟は不機嫌そうに煙草を捨てて踏みにじった。俺は咳払いで笑いをこらえると、「あいつ」と言う。
「ゲイなんだぜ」
また煙草をくわえていた真悟は眉を寄せ、ちょっと目線をそらしたあと、また俺に戻した。
「お前、そういうの不謹慎だぞ」
「分かってる」
「分かってるなら笑うな」
「もう笑ってねえよ」
真悟はくわえ煙草をし、熱がこもる指で俺の頬をつねった。俺はその手をはらい、「はいはい」と結局苦笑してしまう。
「俺も真悟くんには真っ当に恋愛をしてほしいわけですよ」
「お前に言われたくねえな」
「あいつ、姉に理解されなくてけっこう悩んでると思うんだよな」
「姉って──メグちゃんって、そういうの否定するのか」
「肉親にいると複雑みたいだな」
「……ふうん」
真悟は口から煙草をはずし、煙を吐き出した。ちょっと傷つけたかな、と思っても、事実なのでどうしようもない。「まあ、俺は気にしないからさ」と真悟の肩をぽんとすると、俺は元の金網のところに戻る。
真悟は少しのあいだ、閉めたドアに目をくれていた。けれど、何やら憂鬱そうに息をついて鍵をかけると、俺の隣でやっぱり無気力そうに煙草をふかした。
週末の土曜日、俺は恵里の家のリビングにいた。クーラーの元でソファに座り、相変わらず七梨からの連絡のないケータイをいじっている。おじさんとおばさんは留守で、テレビの前では渚樹がゲームをしている。
恵里はさっきまでダイニングのテーブルで頬杖をついていたが、時計の針が十二時に近づいてくると、キッチンに行ってしまった。それをちらりとした渚樹は、ゲームをセーブして「やります?」とコントローラーをさしだしてくる。
「『エバグリーン』シリーズは攻略した」
「これ外伝ですよ」
「……何だ。おもしろい?」
「まあまあですね」
俺は息をついて遠慮すると、またケータイをチェックした。チェックしなくても、何か来たら着うたが鳴るのだけど。「何か連絡待ってんですか」とゲームを片づけた渚樹が隣に腰かけてくる。
「んー、まあ、そうかな」
「こないだ一緒にいた先輩ですか」
渚樹をちらりとすると、「あいつは」とケータイを肘かけに置く。
「たぶん、アフターとかいうのでつぶれて、今頃寝てる」
「アフター」
「歳ごまかしてホストやってんだよ」
「え、それってやばいんじゃ」
「店は黙認らしいぜ。学校ももしかしたら」
「……ふうん」
渚樹はテレビの前に置きっぱなしにしていたペットボトルをたぐりよせ、中身のお茶をひと口飲む。
「ホストか。俺、そんな世界想像つかない」
「俺もだよ。たまにカラオケとかつきあうけど、正直ついていけない」
「カラオケ」
「そのアフターにな。店が終わったあとにもまだ客と遊ぶんだ」
「透望さんもホストやってんですか」
「してないよ。金がないとき、バイトでつきあうだけ。あいつはあれを毎晩やってるのかと思うと、逆に尊敬する」
「学校と両立できるんですかね」
「あいつは学校では基本寝てる」
渚樹は肩をすくめ、「確かにモテそうですよね」とどうやら真悟の顔を思い出している。
「女とっかえひっかえしてるな。でも、それは本命を見つけられないからだし」
「本命」
「俺はきちんと恋愛してほしいんですけどねー」
渚樹はソファに沈みこみ、「えらび放題も大変ですよね」と視線を空にやる。
「だな」
「……俺も、きちんと恋愛したいな」
「ん、渚樹って彼女いたっけ」
訊いたあとで、彼氏になるのか、と思っても、勝手に恵里に聞かされたことを吐くのはまずい。
「できたことないですね」
「片想い?」
「……ですね。全部」
ため息をつく渚樹に、どこまで突っこんでいいのか迷っていたときだ。
突然ケータイがサイコミミックを歌い出した。俺は慌てて、ケータイの画面を見る。
「……来た」
思わず口に出してつぶやくと、「え」と渚樹がきょとんとする。「あ」と俺はそちらを向くと、若干引き攣った笑みをした。
「いや、そのー、ちょっとメールしていい?」
「あ、いいですよ。俺も部屋行きますんで」
「昼飯食わないのか」
「ねえちゃんと透望さんの邪魔はしませんよ」
「んなこと──」
「ひとりで食べるほうが落ち着くんで。あと、何か、変なこと愚痴ってすみません。ホストの先輩にもよろしく」
そう渚樹はにこっとすると、立ち上がってペットボトルと共にリビングを出ていった。ホストの先輩。気になるのだろうか。真悟と渚樹。いやまさかな、と簡単に流すと、そんなことよりケータイに向き直った。
新着メールは、七梨からだった。タイトルは無難に『こんにちは』だ。こんなに待ち侘びたメールってないかも、と思いながらメールを開く。
『突然失礼します。
お約束していたCDができました。
会える日があったら、教えてください。』
相変わらず敬語か、と思いながらも、肘掛けに頬杖をついてにやにやしてしまう。この内容は、つまり会えるのだ。今すぐ会うのも可能だけど、昼食を作っている彼女を放り出していくのはさすがに躊躇う。
『メールありがと。
俺は明日だと助かるけど、七梨ちゃんは?』
キッチンから、いい匂いがただよってきている。あんまり長くメールできないな、と七梨の返事をそわそわ待っていると、さいわいすぐに着信がついた。
『分かりました。
場所と時間は、この前と同じでいいですか?』
こないだ──CDショップの前に十四時か。問題ない。
『じゃあ、楽しみにしてるよ。』と早打ちで返したところで、恵里が背後に来た。俺はとっさにケータイを膝に伏せる。恵里はそんなことは気にとめず、「渚樹は?」とリビングを見渡した。
「ああ、部屋行くって」
「……そう」
ソファの背もたれに喉をそらせ、表情を曇らせる恵里に声をかける。「何」と恵里はこちらを見た。
「また、避けられてるとか思ってんだろ」
「避けられてるでしょ」
俺はため息をついて、「もう姉と弟でべたべたする年齢じゃないだろ」と最近口癖になっている台詞と立ち上がる。
「昼飯、何?」
「パエリア」
「じゃ、それ食いながら愚痴聞いてやるから」
「愚痴って」
「メグには俺がいるだろ。弟にうつつ抜かすなって」
「あの子は──」
いつもならうんざりしているところだが、七梨から連絡が来て俺は機嫌がよかった。「はいはい」とか言いながら、恵里の背中をダイニングへと押していく。
恵里はむくれたままながら、仕方なさそうにこの場は俺に流されて、昼食の用意に行った。
明日は七梨に会える。今度はどんな格好してくるんだろうな、とそこもちょっと楽しみだ。
俺が妙に浮かれているのを恵里は感じ取っていたようでも、何も言わなかった。彼女は彼女で渚樹の態度に悩んでいる。お互い上の空で会話しながら、俺はその日はボロを出す前に早めに家に帰った。
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