中2ヒーロー-10

あのヒーローは、今

 そよ乃を家に送ると、俺も帰宅して、めずらしくかあさんが帰ってくる前に夕食の準備をしたりした。グラタンにしておいたが、グラタン皿に塗ってマーガリンがなくなってしまった。明日の朝のトーストにマーガリンいるよな、と思い、ヒマだしな、とかあさんにあとから言いつけられる前に買い物に出ることにした。
 夏休みの最中に較べて、日が短くなってきた。ひぐらしの声を乗せて流れる風も、軽くなって涼しい。駅前のスーパーでいつものメーカーのマーガリンを買って、橙色だった空が紺色に沈んでいくのを眺めながら帰り道を歩いた。
 闇が落ちるほど浮かんでくる月に、帰ったら勉強もしなきゃな、と思っていたとき、不意に「モミジさん」と背後に声がした。
 道に誰もいなかったせいで、誰かのことだと思わず反射的に振り返った。拍子、月が銀色を反射した。俺はとっさにマーガリンの箱が入ったふくろでその光を振りはらった。
 からん、と乾いた音がして、それでもよけきれなかったせいで腕に切り裂かれた痛みが走る。「ちゃんとやってよ!」と女のわめく声がして、刃物を振りはらわれた男が今度は殴りかかってきた。
 何だこいつら、と焦りながらも俺は振るわれる拳をよけ、マーガリンはふくろごと道に投げて男に反撃する。傷がずきっとしたけれど、ひるんでいたら、たぶんやばい。
 俺のストレートは、思いのほか簡単に男の頬に入った。唇を噛んで腕の痛みをこらえ、よろけた男の腹にどすっともう一発入れる。男はうめいて膝をつき、「何やってんのっ」と女がいらだった声を出した。
 俺は大股で女に近づき、傷のない左手を伸ばしてその手首をつかんだ。
「お前──」
「放してよっ」
 暗くて顔ははっきりしなくても、いつも神凪の周りでうるさい女の声だと分かった。
 即座に、俺の脳裏にはそよ乃が夏休み前に襲われかけたのがよぎる。右腕を血が伝っていくけど、気にせず俺は、その右手で女の胸倉をつかんだ。
「どういうつもりだよ。お前、そよ乃にも手え出そうとしたな?」
「あ、あんたが悪いんじゃないっ」
「はあ?」
「あんたが瑠斗くんの特別な人だなんて、そんなのおかしいっ」
「───」
「やっと瑠斗くんと離れたから、見逃してやろうと思ってたのにっ……何よ、手紙なんか渡して!」
「あれは──」
「瑠斗くんに近づかないでよっ。あんたなんか、瑠斗くんと話すだけでずうずうしいんだから!」
 何か言おうとした瞬間、いきなり後頭部に衝撃がめりこんだ。視界がぐらりと揺れ、この女が連れてきたらしい、さっきの男に背後を取られたのが分かった。
 女の胸倉からぼろっと手が離れ、ぐらぐら揺らぐ脳みそに意識が薄れる。
 やばい。ここで倒れたらやばい。なのに、目が霞む。視界の端に、かちゃっとナイフをつかむ手が映った。
 マジかよ。本物のストーカーに嫉妬されて死ぬとか、そんな最期──そこまで思って、ふっと意識が暗転してしまった。
 しかし、俺が気絶した次の瞬間から、言い争いを聞きつけた住民が駆けつけて女と男を取り押さえ、警察と救急車を呼んでくれたらしい。
 俺が気を失っていたのも少しで、白い救急車の中で目が覚めた。ちゃんと自分の名前も住所も言えた。
 病院で診てもらった腕の傷は浅く、縫うほどでもなかった。手当てが終わったところで、かあさんが車で駆けつけて、医者に傷痕が残らないかとか後遺症はないかとか細かく訊いていた。
 警察から発端が神凪のファンの逆怨みからだと聞くと、「もうそんな芸能人とは仲良くしなくていいから」とかあさんがいつかとまったく違うことを言うから、俺は笑ってしまった。それからとうさんもタクシーで駆けつけ、俺がわりと元気に笑ったりしているのを見てほっとした様子だった。
 警察は明日話を聞くということで、今日は帰してもらえることになった。かあさんの運転で帰宅して、その日は俺は早めに休んだ。
 次の日は、警察署に行くので学校を休んだ。あの女が藤見ふじみというクラスメイトで、男は藤見が性交渉を代償に雇った同じ高校の生徒だということを聞いた。暗くてよく見えなかったけど、確かに男は俺に殴られていったん折れていたので、喧嘩慣れはしていなかった。
 藤見は神凪に入れこみすぎ、妄想気味になっているらしい。「瑠斗くんのためにやった」と言い張っているそうだ。無論、警察はそれを鵜呑みにせず、俺の話と合わせて、きちんと傷害事件にするということだった。
 昼過ぎに事情聴取が終わり、学校終わったらそよ乃にも会って説明しなきゃなあ、と警察署をあとにしようとしたとき、「モミジさんっ」と呼ばれてどきっとあたりを見た。
 俺に駆け寄ってきたのは神凪だった。思わずほっとして、「おう」と手を掲げると、「ああっ」と神凪は泣きそうな顔で、俺の包帯に触れた。
「右腕……。怪我して小説書けますか? 筋切って麻痺とかしてませんか?」
「そんなさくっと切れねえよ。お前、どうしたの」
「あ、僕からも一応話聞きたいって。じゃなくて、今回はほんとにすみません。僕のせいで」
「お前のせいじゃないだろ」
「僕がもっと、モミジさんは巻きこまないでほしいって言ってたら」
「お前がかばうほど、あの女は暴走してたからいいんだよ」
「でも……でも、」
「気にすんなっ。俺も、手紙とか渡して自分で切っかけ作ったんだしな」
「あ、手紙、すごく嬉しかったです。モミジさんに僕の小説読んでもらえたとか、ほんとに、泣きそう」
 神凪は本当に半泣きになりながら言って、俺は苦笑してから「ただし、もっとお前らしく書けよな」と言った。神凪は何度もうなずいて、そうしていると「瑠斗」と声がした。
 見ると、駐車場のほうから浪内さんがやってきている。俺に気づいた浪内さんは、深く頭を下げて「今回のことは本当に申し訳ありません」と謝った。
「悪いのは神凪じゃないんで」と俺が言うと、「君がモミジさんだったんですね」と浪内さんは微笑む。「一応、まあ」と曖昧に咲い返すと、「ずっと瑠斗を支えてくれて、ありがとうございます」と浪内さんはもう一度頭を下げた。
 それから、ふたりは警察署の中へと向かっていく。それを見送っていると、ふと階段の途中で神凪が立ち止まって、俺を見た。
「モミジさん」
「ん?」
「モミジさんがいなかったら、今の僕はいなかったんです」
「……え」
「だから、モミジさんが小説書いて、あのサイトに載せてくれてよかったって、僕はずっと思ってますよ」
 俺は神凪を見つめた。
 秋風が髪を揺らす。
 俺は小さく微笑すると、「おう」と答えた。神凪も微笑み、それから浪内さんにうながされて、警察署に入っていった。
 俺がいなかったら。ほとんどの人の目に引っかからない、平凡でくだらない小説を、誰かに届けたいなんて思って、ネットの片隅に公開した俺がいなかったら。
 今の神凪はいなかった。たくさんの人の生きがいになっている、アーティスト系アイドルの神凪瑠斗は、生まれていなかった。そう考えると、ちょっとは俺の小説も役に立ったのかな、と思った。
 俺はきびすを返して歩き出すと、そよ乃にどう説明するかなあなんて考えはじめる。怪我をしたとしかまだ言っていないから驚くよな、と思う。
 でも神凪のせいだとは本当に思わない。それだけの引力が神凪にはあるというだけで──さすがだよなあ、なんてその才能にあきれ返るしか、もう残っていない。
 神凪は九月いっぱいで、仕事に専念するという理由で高校を退学した。
 三年生のこの時期で、卒業までと引き止めた教師もいたそうだが、藤見のことももちろん教師のあいだでは知られていたので、そんなに強く言えなかったみたいだ。
 それから神凪はさらに精力的に活動して、歌ったり書いたりしている。
 すっかり寒くなって、年末のセンター試験が近づく頃に浪内さんが俺の家を訪ねてきた。日曜日だったから、とうさんもかあさんもいて、浪内さんは改めて俺の両親に謝罪していた。
 そして神凪が新作の長編小説の本を出したこと、それを原作にみずから主演を務める映画を撮ることになったという話を教えてくれた。「完成したらぜひ観てやってください」と言った浪内さんは、最近の神凪の様子も語ってくれた。ふわふわしたところがあったのがだいぶ落ち着いて、仕事への集中力も戻ってきたそうだ。「『負けてられない』って言ってましたよ」という浪内さんの言伝には、失笑してしまった。
 年が明けて、受験も追いこみで勉強漬けになった。そよ乃と図書館に行ったり、お互いの家で夜遅くまで過去問を解いたり。二月に大学受験を受け、三月には高校を卒業した。そのあと、俺もそよ乃も第一志望の大学に合格した。
 大学生になって初めての夏休み、神凪が原作と初主演を務める映画が公開になった。俺は大学生になっても、相変わらずまったりつきあうそよ乃とその映画を観に行った。
 あの事件を基にしたのかと思っていたが、そういうわけではなく、神凪の過去がベースになっている様子だった。母親にネグレクトを受ける少年が主人公で、要所に神凪の想いがこもっているのが感じられた。ラスト近くで、離れることになった母親に主人公は言った。
『あなたがいなければ、僕はここにいなかったことを忘れないで』
 その台詞が、最後に神凪に会ったときの台詞とシンクロした。モミジさんがいなければ、今の僕はなかった。
 モミジ。中二病を患っていた俺。そんな俺のネット上の場所。
 確かに、あのときの俺がなければ、“Ruby Leaf”というサイトがなければ、神凪はいなかった。それだけじゃない。そよ乃にも出逢っていなかったし、今の俺だってなかったかもしれない。
 だから、黒歴史だけど。思い出すと恥ずかしいけど。あの中学二年生はあってよかったのだ。
 そして、とても弱いものだけど、確かにその時期は存在した。公に認めらたわけではない。光を浴びることもなかった。神凪みたいにはなれなかった。それでも、そよ乃や神凪や、どこかの誰かの心に残るくらいはできた。
 そういう人にとって、俺はちょっとしたヒーローなのかもしれない。みんなが知っているわけではないヒーロー。端くれのヒーロー。でも、やっと、それでもいいかと思える。神凪とか、そのほかにもたくさんいる、才能豊かな人にバカみたいに嫉妬するのもやめようと思える。
 だって、たくさんの人の支持は得られなかったけど、一番好きな女の子はこうしてそばにいてくれる。手をつないで一緒に歩いている。「アイス食べたい」と言った彼女に、「どっか入りますか」なんて言いながら。
 この子が隣にいるなら、俺はきっと百万人のファンを持つのと同じくらい幸せで。
 だから俺は、彼女のためだけの、ささやかなヒーローでいられたら、それでいいと思うんだ。

 FIN

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