黒い歴史
「モミジさん、どうしても、もう小説公開しないんですかっ?」
次の日にもならない放課後、五時間目と六時間目を見るからにそわそわと終えた神凪は、ホームルームのあと、俺のところに来てそう言った。
「この人、そんなすごいの?」とまだ胡散臭そうな取り巻きに、「モミジさんの小説はほんとに突き刺さってくるんだっ」と神凪は力説する。俺は文章を褒められると無条件に相手を好きになるはずなのだが、神凪の言葉には複雑な風が心を吹き抜けていった。
神凪は俺に向き直り、「モミジさんの小説、また読みたいです」と何だか敬語にまでなっている。
「いや、俺のは……趣味レベルだし」
「そんなことないですよっ。僕、どの作品も何度も読みました。『マーメイド』のヒロインが海に飛び込むシーンとか泣きますよっ。『クモノス』の悪魔が人間の主人公に恋をして、嫉妬でおかしくなっていくのもすごい好きで、」
俺は声を上げてのたうちまわった。
何だこれ! 恥ずかしい! 当時そういう感想ももらって嬉しかったのに! 今言われると恥ずかしくて死ぬ!!
「モミジさんは自信持っていいです! モミジさんの小説はたくさんの人を救えますから」
「やめろお……心臓をえぐるな……」
「何でそんなに、自信なくなったんですか。自分の小説は好きだって言ってたじゃないですか」
「……好き……だけどさ」
「だったら、」
「しかしその発言がだな、もう黒歴史なんだよ。何なんだよ、自分の小説好きって……」
「ぜんぜん黒くないです!」
「真っ黒だわ! 恥ずかしいよ!」
俺が泣き出しそうに顔をおおっていると、「森羽って小説書く奴だったのか」と声がした。指の隙間から見ると、由哉だった。「悪いかよ……」と俺が首を垂らして消え入りそうに言うと、「悪かないよ」と由哉は言った。
「てか、森羽の作文とか普通におもしろいと思ってたしさ」
由哉の言葉に、神凪の瞳が輝いた。
「作文! 読みたい!」
「読まんでいいわ!」
俺の突っこみも無視し、「モミジさんの作文っておもしろいんだね」と神凪は由哉を向く。
「おもしろかったことを並べるより、おもしろくなかったことを愚痴りつづけてるのが、人と違っておもしろい」
「さすが、モミジさんの着眼点は違う……!」
「……おもしろくないものをおもしろいと言えないだけだろうが」
「てか、モミジって何? 森羽のこと?」
「そうだよ。君はモミジさんとよく話してるね。いいなあ……」
「神凪も話しかければいいんじゃね」
「由哉あっ、そんな、いちいち勧めなくてもっ……」
「お前と話したいって言ってんなら、話してやれば?」
「由哉くん? 君、いい人だね」
「俺は神凪の歌とか好きだし、応援してるぞー」
「ほんとに? ありがとう。今の僕があるのは、モミジさんのおかげなんだ」
「何だよー、森羽、仲良くしてやれよ」
「……しんどい……」
俺がげっそり言ってつくえに突っ伏すと、「瑠斗くんがいいって言うなら、あたしも読みたーい」「どこで読めるのー?」と取り巻きまで感化されてくる。
「ねえ、モミジさんの小説はやっぱりいろんな人に読んでもらったほうがいいんですよ」と神凪がつくえの高さにしゃがんで言ってくる。俺はしばし考え、ゆっくり身を起こすと、神凪の華奢な肩に手を置いた。
「あのとき書いてたものだから、あのとき読んでくれた人だけのものにしておきたいんだ」
俺の神妙な口調に、神凪ははっと目を見開いた。「あのときが特別だった」と神凪はつぶやき、俺はこくりとする。すると神凪は目をつぶって噛みしめ、「あのとき、モミジさんの小説に出逢えててよかったっ……」と絞り出した。
よし、ごまかせた。
俺は息をつくと、席を立ってリュックを手に取る。
「モミジさん、どこ行くんですか」
「どこにも行かずに帰るんだろうが。お前も仕事あるんじゃね」
「あ、ありますけど、もう少し」
「俺は帰る」
「じゃあ、僕も帰りますっ。というか、帰り電車ですか? マネージャーに車で送らせましょうか?」
「いらね。そよ乃もいるし」
俺がそう言うと、神凪はちょっとむくれた表情を見せて、「そういえば、城峰さんとつきあってることはサイトでは言ってなかったですよね」と言う。
「読者とつきあいはじめたって書いたら面倒そうだったしな。出会い系にすんなとか言われそうで」
「ほかにも会った人いるんですか?」
「いや、そよ乃は偶然近所に住んでたから」
「近所」
「同じ中学に通ってたんだよ。世間狭すぎる話だけど、ほんとだからな」
「……そうなんですか」
「お前、ほんとにもうそよ乃に言い寄るなよ」
「モミジさんの恋人ならそんなことしないですよっ」
「あっそ。じゃあ──」
「ただ」
「ん」
「城峰さんだけ、サイトなくなってからも、モミジさんのそばにいたんだなあっていうのは」
俺は変な顔になって、「そよ乃に嫉妬したりすんなよ」と釘を刺した。でも、神凪は「うらやましい」とつぶやく。俺は息をついて、「お前も俺と知り合ったんだから、いいだろうが」とリュックを背負う。
神凪は俺を見た。
「じゃあ、これからは僕とも仲良くしてくれますか?」
「一方的に俺のプライバシーをわめき散らすなよ」
「プライバシー」
「俺が半端な小説さらしてたこと、とにかくこれは黒歴史」
「モミジさんの小説はっ──」
「お前がどう受け取ってても、俺には恥ずかしい過去なの。だから、そこは人前では伏せろ」
「……人前じゃなかったら」
「まあ、少しくらい話聞いてもいいよ。でも俺にとっては恥ずかしい話なんだ、これは忘れるなよ」
「分かり、ました。あ、あのっ」
「何だよ」
「今度、僕の書いた小説読んでくれますか?」
俺が眉を寄せて遠慮をにじませると、「瑠斗くんの小説はすごいんだからっ」「瑠斗くんがあんたの読んでるなら、あんたも瑠斗くんの小説読みなさいよ」と取り巻きが援護してくる。でも俺は、神凪が小説を書くことが相変わらず癇に障るし、大して作品に興味もないのだけど──
「じゃあ、まあ、そのうち……。てか、マジでそよ乃待ってると思うんで帰る」
「また明日も話してくれますか」
「はいはい。じゃあなっ。マジで俺のことを人に言いふらすなよ」
神凪がうなずくのを見届けると、俺はつくえを縫って教室をあとにした。
一度ちらっと振り返ると、神凪は由哉と話していた。俺の話題を出すなっていうのをよく分かってねえな、と思いつつ一階に降りる。
そよ乃は靴箱のポスターの上にもたれていて、俺を見つけると「モミジ先生、遅い」と言った。「その呼び方やめろ」と俺はそよ乃を小突き、神凪たちと話しているうちに、生徒がはけた靴箱で靴を履き替える。
「神凪くんは大丈夫?」とそよ乃は俺を追いかけてきて、「とりあえず、そよ乃は大丈夫だと思う」と肩をすくめた。
「私のためにばらすとか、しなくていいって言ったのに」
「あそこでばらさなかったら、お前、神凪を殴ってただろ」
「否定はしない」
「そしたら、そよ乃がまたつらくなるじゃん」
「守ってくれたの?」
「好きな女の子は守りたいんですよ」
ローファーを履いたそよ乃はにっこりして、俺と手をつないだ。俺はそれを握り返し、「ただ心配なのは」と湿気った匂いの曇り空の下へ歩きはじめる。
「今度は、神凪がそよ乃に妙に嫉妬しないかなって」
「私に言い寄ってたのに、切り替え早いね」
「ほんとだよ……」
「それだけ、森羽に思い入れがあるんだろうね。まあ、それは分からなくもないんだけど」
「そよ乃は加減分かってるじゃん。あいつは……人前で崇拝あらわにするとか、ないわ」
「きっと森羽が神なんだよ」
「嬉しくない」
「神凪瑠斗のルーツだよ?」
「神凪が俺を超えてるから嬉しくない」
雨が降り出しそうな蒸した空気の中に出て校門へと歩いていく。「神凪くんの本、ちょっと読んだことあるけど」とそよ乃は首をかたむける。
「森羽の影響って思えば納得いく」
「パクってんの?」
「そうじゃないけど。うーん、でも、雰囲気の出し方とか似てるかも。だから私、好きじゃないなって思ったの」
「あいつ、俺の小説、かなり読みこんではいたみたいだな。語られて恥ずかしい……」
「褒めてるんでしょ。嬉しくないの?」
「あいつに褒められても複雑なだけだわ」
「アレルギー出てるね」
「そうかもしれない」
ため息をつくと、「いろいろ面倒なのに、ありがとね」とそよ乃は俺の腕に寄り添った。俺はそんなそよ乃を見下ろすと、「そよ乃に被害がいかないなら我慢する」とあきらめて苦笑した。
その夜、夕食後に風呂に入って、クーラーをつけておいた部屋に戻ると、まくらもとで充電につないだスマホがランプを明滅させていた。何だ、とベッドサイドに腰かけてスマホを手に取る。
メッセかと思ったら、めずらしくメールだった。メルマガかなと開いてみると、『登録お願いします』というタイトルの知らないアドレスだった。誰かメアド変えたのか、あるいは迷惑メールかと確認して、「げっ」と声がもれる。
そこには、ぎっちり書きこまれた長文があって、それが神凪からだったのだ。なぜあいつが俺のメアドを知っているのだ。内容をざっと読んでいくと、どうやら由哉から聞いたらしい。
変な声を上げて、ベッドをごろごろすると、「うるさいよっ」とかあさんがドアをたたく。
由哉の奴。やってくれたな。神凪だけでなく、由哉にももっと釘を刺しておくべきだった。というか、普通、マナー的に勝手にメアドを教えるかよ。神凪がしつこくねだったのかもしれないが。
ふうっとため息をつくと、気持ちを落ち着かせて長文を読んでみた。俺に会えて嬉しかったこと。俺の小説が大好きなこと。特に好きな小説のこと。好きなシーンのこと。突然の閉鎖がショックだったこと。もう俺の小説が読めないなんて信じられな──「長いわっ!」と俺はスマホを投げて、頭を抱えた。
やばい。予想以上の粘着だぞ、これ。そよ乃が今日、ついに殴りそうになったのが分かる。自重しろと俺も奴を殴りたい。
俺はアプリを開いて、由哉に通話をかけた。なかなか出ないからばっくれるのかと思ったら、不意に『はいもしもしー』と由哉の声が耳に届いた。外にいるのか、人混みの音も聞こえる。
「外?」
『塾の帰り』
「んなもん行ってんのかよ」
『いや、受験生だしね?』
「………、神凪に」
『瑠斗くん? うん』
「名前呼びになったか」
『そうしろって言われたし』
「お前、勝手にメアド教えるとかないだろ」
『森羽と仲良くなりたいからって言われて』
「個人情報だぞ」
『ほんとはメッセの友達申請してほしかったけど、森羽のID憶えてなくて』
「よし、そのまま思い出すな」
『何で? 友達になればいいじゃん』
「俺の友達は俺が選ぶ。神凪はなし。アウト。無理」
『前から森羽は瑠斗くんに厳しいよなー』
「とにかく、俺と神凪を引き合わせようとか考えなくていいから。いいなっ」
『でも、俺もう瑠斗くんも友達だし、そんな無下にも……』
「俺のことも無下にすんな。神凪とは友達にならない」
『お前のこと、すっげえ慕ってたぞ』
「知らん。俺に応える義理はない」
『薄情だなあ』
「何とでも言え。とにかく個人情報を勝手に流すのはやめろ。ルール違反だし」
『はいはい。あー、電車乗るわ。また明日でいいか』
「ん。気をつけろよ」
そう言って、俺はスマホをおろして通話を切った。
これで一応、由哉から何か流出することはない。由哉以外にも連絡先を交換している奴もいるけれど、最近特別親しいのは由哉ぐらいだ。
あとはそよ乃だが、そよ乃はいちいち言わなくても大丈夫だろう。しかし自宅とか知られたら詰むなあ、と思い、何だかストーカーに狙われてしまったみたいだなと思った。
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