Street Children
生まれたときから、俺にはやすらぎなんてなかった。
毎日が命がけで、危うくて、犯罪まみれで。今だって消え入りそうな蝋燭のようなもので、かろうじて灯っている光は、この幼い女の子だけだ。
ひんやりした暗い路地裏から、けばくてうるさい繁華街を野良猫のようににらむ。苔やゴミの散らかった地面にしゃがむ俺は、ぼろぼろのジーンズのポケット全部を探った。
沈黙に響く硬貨の音はなく、舌打ちが出る。また空っぽだ。
「おにいちゃん」
たぶん、もう九月に入ったと思うけれど、蒸し暑い夜が続いている。それでも、愛加が身を寄せてきたら、梳いてもやれない長い髪を優しく撫でる。
ふたりとも、汗のにおいが染みつきはじめていた。コインシャワーくらい行きたいし、腹も減った。今日は俺も愛加も何も食べていない。
「ちょっと行ってくる」
愛加は大きな黒い瞳に不安をにじませるけれど、止めることはしない。そうやって俺たちは生きてきたからだ。
俺は立ち上がった。まぶたを伏せ、開くと、俺の眼つきは野生の獣のように鋭くなり、人混みの中に獲物の隙を探す。迷路を逃げまどうような速さで、入り乱れる人の中から、無造作な荷物を射止める。
今日はこの路地裏の向かいで、いかにもナンパでつかまえた女にへらへら笑っている男の、右肩のデイパックが引っかかった。ふくらみ具合からして、手前のポケットに財布が入っていそうだが──
「愛加」
女の肩を抱きよせる男から目をそらさず、俺は背後の愛加に呼びかける。
「うん」
「走れるか」
「うん」
「じゃあ、俺が走りだしたら絶対ついてこいよ」
「分かった」
愛加の返事を最後まで聞かず、俺は人いきれに混ざって向こう岸に移り、男が右腕をおろしたのを見計らって駆け出した。冬の風のようにさっと男の脇を駆け抜け、「あっ──」という声も聞き終えずにデイパックを奪うと走り出す。
愛加がこの人混みでついてきているか、心配で振り返りそうになったとき、俺の手をつかむ小さな手の体温が伝わってきた。俺と愛加は慣れた駆け足で街をくぐりぬけ、寝泊まりしている路地裏の段ボールハウスに行き着いた。
「さて、と……」
湿り気で若干肌寒さのあるそこで、デイパックを段ボールの床におろすと、俺と愛加は並んで座りこんだ。
まずは財布だ。一万円札一枚と、千円が二枚──なかなかの収穫だ。あの男、ホテル代なんかも格好つけてはらうつもりだったのだろう。
愛加はデイパックの中身を取り出している。
「お洋服だ」
愛加が広げたのは、英語が殴書きされた紫の薄手のパーカーだった。あまり女の子らしくないが、俺が着るより、これからの季節に愛加が着たほうがいいだろう。それを言うと、愛加は小さく首をかたむけた。
「でも、おにいちゃんの服もずっと変わってないよ」
「あー、まあ、多少臭うのは許して」
「そうじゃなくて、私、今の服でいいから」
金をポケットにしまいながら、通りからのイルミネーションで愛加を見る。伸びてばらついた髪、五百八十円で買った花がワンポイントの白のワンピース、薄汚れた紺のカジュアルシューズ──
「愛加、」
「私ね、この服すごく好きなの。お花がかわいいし、スカートもひらひらしてお姫様みたいだし」
さえぎるように、愛加の頭に手を置いた。さらさらとは言えない。愛加は大きな瞳で俺を上目で見る。
「いいんだよ」
「え……」
「愛加はそんな心配するな。俺が兄貴なんだから、愛加は甘えていいんだ」
「そ、そんなの嫌だもんっ。私だって、」
「つっても──そうだよな。かわいい服のほうがいいよな。金入ったし、寒くなる前に何か買ってやるよ」
「おにいちゃんは?」
「そうだなー、俺のぶんも買えるかな。どんなのが似合いそう?」
そう言ってにっとすると、どんな花が咲くより愛らしく愛加は咲って、「えっとね、」と言いかけた。が、その前に愛加の腹の虫が声をあげる。「あ」と愛加は頬を染め、げらげらとした俺は、「よし」とデイパックをたたいた。
「この荷物から盗るもん盗ったら、まずは何か食おう」
そう言うと、愛加はにっこりとしてうなずいて、俺は今日もその笑顔に癒される。
──天鈴町。それが、俺が六歳で捨てられたこの街の名前だ。誕生日なんて忘れてしまったが、今年でたぶん十七歳になる。親は分からない。この街に運ぶためか、俺を眠らせたふたりなら知っているが、何となくあれが両親であった気がしない。
その前の記憶は、ほとんど常闇だ。特に殴られたりしていた記憶はない。ただ、親にとって俺の存在は迷惑だったのだろう。だから、死と隣り合わせの無法地帯であるこの街に、ゴミみたいに捨てた。
この街は、はっきり言ってイカれている。俺には常識だけど、“外”の住人には理解しがたい独特の法律がある。盗んでいい。犯していい。殺していい。ただひとつ、自分を見失ってはならない。
その決まりを取りしきっているのは、夢銀という街の中心部に拠点を持つという組織だ。南のほうは陽桜と呼ばれ、いわゆる遊郭っぽい。北は彩雪といい、ドラッグなんかがまかりとおっている。完全に狂っているようだが、一応、例の組織の手下が、あちこちで住人を警察なんか生温いほど鋭く監視している──らしい。
俺はそんなお高い組織とは関係ないドブネズミだから、よく分からない。とにかく、こんな街に放り出すのだから、親はよほど俺に死んでほしかったのだろう。
実際、俺はたった六歳で自分しか頼れない身になって、虚ろに街を彷徨った。何の目的もない。何の意味もない。
それでも腹は減る。そう、確か冬だった。コンビニの前を通りかかったら、肉まんにかぶりついて、おいしそうな匂いをさせながら出ていく奴がいた。同じものが欲しくなって、コンビニに入ったが、肉まんはレジ横にあって手に入りそうになった。それなら──そうして、俺は万引きを覚えた。
それでも、虚しさは消えなかった。どうして食べるんだろう。お腹が空くんだろう。空きすぎて死んじゃえばいいのに。俺に生きる意味を与えてくれたのは、愛加との出逢いだった。
「洗濯終わるまで、これ羽織っておけ」
コインランドリーの誰もいない隙を狙って、服も下着も洗濯機に放りこむ。俺はこういうときのための薄いスウェットだけ穿き、愛加には例の紫のパーカーを渡した。愛加はまだ九歳だから、おとなの男のパーカーなんか着たらワンピースと変わらない。素直にそれを着た愛加は、「シャワーはこのあとかな」と自分の髪に触る。
「うん。ごめんな、いつもコインシャワーで」
「ううん」
「銭湯とか行ったら、淫売がうるさいんだよなー」
かゆくて頭をかきむしりながら、俺はぶつくさ言う。愛加は俺の愚痴に咲うと、中央に無造作に置かれているベンチに座った。
「私はいいよ。おにいちゃんと離れるのも危ないし」
「まあ、そうだな。愛加がさらわれたりしたら、俺、生きていけない」
「大丈夫だよ。ずっとおにいちゃんといる」
俺は微笑みながら愛加の隣に腰かけ、「どうだろうなあ」と頭の後ろで手を組む。
「そんなこと言っといて、男ができたら、俺なんか放置じゃないか?」
「そ、そんなことないもん」
「そうかあ? そのときは、それでいいんだぜ」
「おにいちゃんに彼女ができるまで、心配だから離れないもん」
「俺、愛加に心配されてんの」
「してるよっ。おにいちゃんは、絶対ひとりになっちゃダメ」
愛加を向いた。蒼ざめた肌、ふくらみに欠ける頬、覗けるくっきりした鎖骨──満足に食べている環境であれば、愛加はきっと美少女と呼んでもおかしくない容姿だっただろう。
俺はこの子に本当に感謝している。なのに、何ひとつろくなことをしてやれない。ひとりになっちゃダメ。それはきっと真実だ。愛加と俺だったら、俺のほうがだんぜん弱い。
捨てられた俺は、万引きをしたり、ゴミ箱をあさったりして、無駄に生きのびていた。寂しさも感じないほど、無感覚な孤独だった。世界中が敵だった。薄汚く、ゴキブリ以下の毎日を送っていた。
この国に四季がなかったら、俺はとっくに自分の年齢が分からなくなっていただろう。新聞にくるまって眠りながら、だいぶあったかくなってきたな、と思っていた。くそ暑い夏に捨てられて、二度目の春だった。食べられるものはないかとゴミ箱を開けると、白い布にくるまれた赤ん坊が、口にガムテープを貼られて捨てられていた。
それが、愛加だった。
俺と愛加に、血のつながりなんてまったくないわけだ。それでも、俺は愛加を妹だと想っているし、愛加も俺を兄として慕ってくれている。恋愛感情への発展もなさそうだ。そんな危うい関係になるには、俺と愛加の絆は強すぎる。
愛加──マナカ。その名前も俺がつけた。本屋で辞書を立ちよみして決めた名前だ。愛を加える。この子は、きっと俺に生きる意味をあたえてくれる。俺の人生に“愛”を加えてくれる。そう信じて、俺は何があっても愛加を守り、育てていこうと決めた。
服がコインランドリーで仕上がると、また汗がにじんでしまう前にいつも使っているコインシャワーに行った。トイレみたいに狭い個室で、百円で五分間シャワーを浴びれる場所だ。
俺が捨てられた頃は、こんな便利なものはなかった。なので、俺は子供の頃は本当に生ゴミみたいに汚れて臭かった。ほんとストリートキッズに優しい街だな、とさっぱりしたところでシャワーも止まり、タオルはないので自然乾燥もそこそこに服を着る。
個室を出ると、やっぱり公衆トイレみたいに、洗面台がいくつか並んでいる。鏡のひとつに歩みより、だいぶ伸びた濡れた前髪をはらった。髪型とも言えない適当な長さの黒髪、切れ長だけど無愛想な目、栄養が足りなくて細い顎──
俺は野良猫に似ていると思う。事実、野良人間なのだけど。
俺が猫だとしたら、色は黒だ。この何ヵ月も着倒しているシャツも黒だし、瞳も愛加のような黒曜石の黒でなくブラックホールだし、髪だって黒い。
危ない奴は脱色、ピアス、タトゥーなんてイメージがあるけれど、そんなもん、本当にストリートで暮らしていたら、むしろ正常に見える。染髪料を買う金、ピアスを選ぶ金、彫り師に渡す金があるのだ。
ぜんぜん違う。俺は何の装飾もない、闇夜に溶ける黒猫だ。
煙草も酒もやったことねえし、とか思ってうなだれて息をついていると、「おにいちゃん」と声がかかって振り向く。もちろん愛加だ。例の白いワンピースは変わらず、長い髪がしっとりしている。俺は微笑むと、鏡に背を向けて愛加の目線までかがむ。
「ちゃんと軆洗ったか」
「うん」
「ドライヤー空いてるな。髪、乾かしてやるよ」
「自分でできるよ」
「まあまあ、そう言わずに」
笑いを噛んで愛加を洗面台と向かい合わせると、荷物を置いておく棚にひとつだけ常備してあるドライヤーを持ってきた。コードを洗面台のコンセントにつなぐと、慣れた手つきで愛加の髪をさらさらにほぐしていく。
伸びたなあ、と指先にひとふさ手に取ってみる。そろそろ切ってやったほうがいいだろうか。これではシャンプーも大変だろうし、運悪くコインシャワーに通えない日が続くと厄介だろう。
「愛加ー」
「うん」
「そろそろ髪切ったほうがいいんじゃね」
「えー。ここまで伸ばしたのに」
「伸びたんだろ」
「伸ばしたんだよー。髪長いほうが、かわいいもん」
そんなもんなのか、と拍子抜けていると、ふと嗅覚を誘う香りがした。香りを目で追うと、隣の洗面台で娼婦っぽい女が化粧をしていた。
公衆トイレなんか行ったらまわされるのがオチなので、ここはそんなふうに、洗面台のみ目的にやってくる淫売も少なくない。洗面台だけなら、利用に金もかからない。その娼婦っぽい女は、まるでこの街のイルミネーションのように、きらびやかに宝石をまとっていた。
けばい女、と内心毒づいて鏡の中の愛加に目を戻すと、愛加はその女をちらちらと盗み見ていた。
その女がさっさと行ってしまうと、愛加がうつむきはじめたので、「おいっ」と愛加の頬を後ろからはさむようにして軽くたたいた。愛加ははっと俺を見あげ、すると、その瞳は水気に揺れていた。
「愛加──」
愛加はまたうつむき、「髪、やっぱり切ろうかな」と唐突につぶやく。
「何でだよ。伸ばしたんだろ」
「シャワーに時間もかかるし。切っちゃえば、お金楽になるよね」
「そんなのは気にすんな」
「髪だけ伸ばしたって、ぜんぜんかわいくないし。さっきの人みたいに、くるくるって巻くからかわいいんだよね」
「さっきのって、あの淫売か? あんなの、かわいいじゃなくてけばいって言うんだよ」
愛加はもう一度俺を仰いで、俺は微笑んで愛加の乾いた髪を指で梳く。
「愛加のほうがずっとかわいいよ」
「……ほんと?」
「うん。ほら、今からかわいい服も買いにいけるぞ」
「ん……、けど」
「ん」
「先に、お腹空いちゃった」
俺は噴き出し、「よしよし」と愛加の頭を撫でるとドライヤーのコードを回収した。そして、ドライヤーを棚に置く。その隙に、愛加が目をこすっているのが視界の端に引っかかった。
俺は、男だからか分からないけれど、そんなに容姿を気にしたことがない。でも、愛加は女の子だ。かわいいと思われたいだろう。みすぼらしいなんて思われたくないだろう。
ぎゅっと唇を噛みしめ、そんなささやかな願いもかなえてやれない自分が、猛烈に腹立たしくなる。
愛加だけでも、こんな生活から救ってやれないだろうか。自分はどうなってもかまわない。きっと野垂死だ。覚悟はできている。愛加はダメだ。絶対に幸せにしてやりたい。
せめて、じゅうぶんに食わせて、綺麗な服を着せて、帰れる部屋を持たせて。そのためなら、何でもやる。俺はそのために愛加を見殺しにしなかったのだ。
この子を幸せにする。その想いが俺の支えだというのに、俺は愛加に、本当に大したことをしてやれない──
「おにいちゃん」
棚に顔を伏せていた俺は、愛加の幼い声にはたと振り返り、心配そうな瞳に笑みを作る。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。腹減ってめまいがしただけ」
「あの、えっと、私が言ったのは、気にしないでね」
「うん。よし、じゃあ何か食いにいくか。洗濯したし、シャワーも浴びたし、久々にコンビニぐらい行けそうだな」
「お金、大事に使ったほうがよくない?」
「また盗めばいいんだよ」
愛加は首をかたむけたものの、特に否定はしなかった。そう、俺たちはそんなふうに生きてきた。冷酷なルールが当たり前だった。
なのに、まさか、あんなことに巻きこまれていくなんて──このときには、予想もしていなかった。
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