まちばり-10

生まれたこと【1】

「じゃあ、行ってくる」
 だいたい十五時に起きる俺は、シャワーを浴びたり愛加が作った食事をとったりして、いつも十八時過ぎに出勤する。今日のメニューははフレンチトーストとベーコンエッグ、カフェオレで、愛加もずいぶん料理が上達したなあと思う。「いってらっしゃい」と手を振った愛加の頭に手を置くと、俺は部屋を出た。
 十月も下旬が近い。吹きつける風は冷たく、このあいだの休みにこのベージュのダッフルコートを買ってよかった。
 この季節になると、十八時というともう暗い。〈SPRING〉の通りに出ると、ネオンもちらほらしはじめ、喧騒も目覚めつつある。娼婦の香水とすれちがいながら、今日も俺は薄暗いビルに踏みこんだ。
「あ、希織、今指名入ってたよ」
 待機室に入るなり、たまに会話するぐらいの男娼たちが、テレビを観ながら声をかけてきた。奏音はいない。
「え、俺、まだ出勤したこと知らせてないけど」
「もしいたら、って確認だったみたい」
「まだ次の子決めてないかもよ。カウンター行ってみたら」
 さっそく仕事か、と思っても、奏音が休みなら所在無いのでいいか。軽い気持ちでカウンターへのドアを開くと、ボーイが振り向き、案の定まだ迷っていた客も顔を上げた。
「今来た」と伝えると、うなずいたボーイは「いかがいたしますか」と客に一応問うてみる。確か以前俺を買ったことのある客はうなずき、ボーイに「じゃあ希織」と言われて、俺はカウンターから出て客の隣についた。
「仕事は慣れたかい」
 柿原かきはらとかいう名前だった気がするそいつに訊かれ、「まあまあかな」と肩をすくめた。冷えた風が抜けると、柿原はさりげなく俺の肩を抱く。俺がその腕におとなしくおさまると、柿原は笑った。
「前回、君をこうすると、こわばってたもんだけどな」
「そうかな。最後っていつだった?」
「今月の初めだよ」
「俺、まだこの仕事始めたばっかだったよ」
「初々しくてよかったけどね」
「もう男娼の顔になった?」
「そうだね、それはホテルで確かめるよ」
「エロいな」
 小突かれた俺は笑って、柿原の腕にくっついた。柿原の太い指が、すっかりさらさらになった俺の髪を撫でる。この客は確か、わりといいホテルに行って、ルームサービスで食事をさせてくれたはずだ。
でも、まだ愛加の作った食事が胃に入っている。レストランとか行くわけじゃないから頼まなきゃいいか、と頬にひやりとした風に身を縮める。
「寒い?」
「ん、うん。今日冷えてるね」
「何か温かいものでも食べていくかい」
「んー、腹は減ってないかな」
「そうか。じゃあ、早くホテルに行こう。部屋は予約してある」
「俺なんかに、そんないい部屋取らなくてもいいのに」
「僕が君とゆっくりしたいんだよ」
 ちょっと咲って、こないだまで自分が路地裏生活だったのを思い出す。きっと、あのままの俺にそんな言葉をよこす奴はいなかっただろう。
 何だかんだで、男を受けるのには慣れてきた。金が入るほど嫌悪感に浸っている場合じゃなくなったし、待機も奏音がいれば楽しい。
 ゆいいつの心配は、愛加を部屋にひとりぼっちにさせていることだ。友達でも作らせてやりたいが、環境がむずかしい。どうにかしてやれないかなあ、と思案しつつ、適当に柿原の相槌を打っていたときだ。
 何やら後ろでざわめきが起こった。そこは宿屋街の入口あたりで、柿原の肩越しに振り返る。思わず、眉を寄せた。
 そこには、こちらに突進してくる男がいた。それが、見憶えのあるような──
「希織っ」
 俺は柿原と目を交わし、柿原は俺を右腕でかばった。男は俺たちに追いつくと、乱暴に手を伸ばしてきた。その手を柿原がはらい、「今は、この子は僕の恋人だ」と落ち着いて言う。男は癪に障った様子で、俺を睨みつけてきた。
「すっかりただの淫売だなっ」
「……は?」
「俺のときは、そんな、いやらしくなかったのに」
 こいつも俺が新人の頃の客か。そう思って、その軆は崩れていても、顔つきはわりあい整っている容姿でやっと思い出した。
 そうだ。間違いない。こいつは俺が初めて取った、笹本とかいう男だ。
「あの、俺──」
「何度も会いにいった。そのたび、いなかったり休みだったり。やっと逢えたらこんなのって、ひどすぎるだろ」
「いや、それなら予約しないと──」
「ひどい穢れ方だ。俺が消毒してやる」
「いや、あの、」
「さあ来いっ」
 柿原をはらって俺の手をつかむと、笹本は歩き出した。しかし、柿原が笹本の肩をつかんで立ち止まらせる。
「何だ」
「言っただろう、今はこの子は──」
「消毒が先だ。どのぐらい汚れたか確認してやる」
「あんた、淫売と客の境界線ってのは分かってないのか」
「この子は俺で男を知ったんだ。特別なんだよ」
 柿原はあきれた様子で笹本を突き飛ばし、俺を抱いてその場から立ち去ろうとした。
 すると、笹本は真っ赤な顔で俺の脚に取りつき、俺はゾンビにそうされたみたいにぞっと身をすくめた。やばい。眼球が血走って、厚手のジーンズ越しにも指が食いこんで痛い。
 ちょっと前の俺なら唾を吐いてぶん殴っていただろうが、一応、客だ。そんなことをしていいのか分からず、突っ立つだけになってしまう。
 まごついているうちに立ち上がった笹本は、俺を守る柿原の腕を剥がし、そのまま柿原にストレートを打ちこんだ。思いがけない修羅場に、倒れた柿原を介抱もできずにいると、笹本にぐいと腕を引かれてはっとする。
「あ、あの、こういうのって、」
「君を穢していいのは僕だけだ」
「えと、その、俺も一応商品なわけだし」
「商品なんかじゃないっ。僕は君を愛してるんだ!」
 いや、愛してると言われても──
 その荒唐無稽にどう返すか迷っていると、笹本は罪人を断頭台に突き出すかのような荒っぽさで俺を引っ張りはじめる。俺は柿原を振り返ったが、ちらつく人混みの中にちょっとした人だかりができてしまっていて、様子を窺うことはできなかった。
 悲鳴をあげたところで、ヤクをやっていると思われるだけなのは分かっている。笹本の汗ばんだ握力は、俺の右手をちぎってしまいそうで、振りはらうこともできない。こないだとぜんぜん違うじゃん、と泣きそうになってしまう。
 だいたい何だ。穢れたとか、消毒とか。すれちがって遭遇できなかったのは悪いと思うけれど、そういう仕事ではないか。それが分かっていない奴だとは思わなかったけど──
 笹本は、俺を物音が筒抜けの安宿に連れこんだ。薄暗い廊下は薄っぺらそうな板張りで、どこからか女の嬌声が聞こえる。笹本に手を引かれるまま、どうしようどうしようとぐるぐる考えるけど、こんな状況のマニュアルなんて受けてない。
 部屋に着くと、笹本はドアを蹴り開け、真ん中にあった悪趣味なピンクのベッドに、コートも脱がせずに俺を押し倒してきた。ちゃんと掃除されていないのか、どこからか精液の青臭い匂いがする。
「あれから、どのぐらいの男と寝たんだ」
 性的虐待をしようとする大人みたいに俺におおいかぶさって、笹本は呼吸を荒げる。股間が膨張しているのが俺の腰をかする。
「こ、こういうのっていいの?」
「質問に答えろ」
「………、」
 俺はつかめばえぐれそうに眼球をむきだす笹本を見つめ、ゆっくり口を開いた。
「……何人も、やったよ」
 途端響いた、頬が破裂する音か痛みか、どっちが早かったか分からなかった。俺は頬を抑えながら笹本を見る。その目と目が合った笹本は「畜生」とくりかえし、俺の服を引きちぎりはじめた。
 もがこうとすると、軆を軆に密着させられて身動きを封じられる。マジで、と墨汁をかぶったように絶望感に襲われていると、突然部屋のドアが音を立てて開いた。
「あらあら、鍵くらいかけとかないとねー」
 笹本の手が止まる。それは空気にそぐわない飄々とした声で、俺は笹本の肩越しにそちらを見た。
「笹本ちゃーん。もうこんなことしないから、って会員復帰させてあげたんだよねー?」
 鼻息荒くなっていた笹本も、その声に首を捻じって、目を剥いた。そこで血の気の多そうな少年たちを連れてにこにこしているのは、日向だった。
 笹本は俺の服をつかんだまま硬直する。笹本と俺に歩み寄ってきた日向は、長い指で笹本の顎にあてて持ち上げ、長い前髪の奥で微笑んだ。笹本は生唾を飲みこむ。密着した軆で勃起していたものが縮んでいくのが分かる。
「僕は」
 日向は笹本に顔を近づけると、笑顔のまま平然と笹本の腹にこぶしを打ちこんだ。見るより強い力だったのか、笹本は吐きそうな声をもらしてがくんと軆を折る。
「約束破られるの、かなり嫌いなんだよねー」
 言いながら、日向は俺の腕をつかんだ。俺も殴られるのかと思ったが、笹本の下敷きから引っ張り出しただけだった。
 ベッドをおりてその場に立った俺は、やっと息をつき、そんな俺に日向は髪を揺らして笑った。
「怖かったねー。よしよし」
 そう頭を撫でられ、何だか癪だったものの、怖かったのは事実なので黙っておいた。助かったのも事実だ。口答えできる立場ではない──が、「遅いんだよ」とこいつにはどうしても憎まれ口をたたいてしまう。
「これでも急いだんだよー? 柿原ちゃんが店に戻ってきてくれてねー。まったく同じことが前にもあったから、まったく同じモーテルに来てみたわけ」
「モーテル違ってたらどうしてたんだよ」
「そのときはそのときで、ツテがありますので」
 日向は屈託なく咲って、「さてと」と腕組みをして、ベッドで腹を抑えてせぐくまっている笹本を見やった。

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